第340話:『軍師の注油、狂い出す歯車』
北壁の砦、作戦室。
暖炉の薪が爆ぜる乾いた音だけが響くその空間の片隅から、夜の闇が剥がれ落ちるようにして一つの人影が滲み出た。
「――ご報告いたします」
感情の起伏を一切廃した低い声。円卓を囲んでいたユリウス、レオン、ゼイドの三人が弾かれたようにゲッコーへと視線を向ける。
「覇国の使者は極度の混乱を抱えたまま帰還した模様。『激戦の傷跡』と『ありえない豊かさ』……二つの矛盾した光景があちらの参謀の思考を完全に狂わせています。現在黒の宮殿にはかつてないほどの猜疑と焦燥が渦巻いているとナディムより通信がありました」
その報告を聞き、私は地図盤の上を滑らせていた指先をぴたりと止めた。
銀の仮面の下で唇の端がゆっくりと吊り上がる。
「……想定通りですね」
私の静かな呟きが部屋の冷ややかな空気をわずかに震わせた。
「圧倒的な暴力と恐怖で他者を縛り付ける者は、その縄が強固であればあるほど、自らの足元が揺らいだ瞬間に脆い。……『恐怖』によって今度は自らが雁字搦にされる」
炎の明かりが銀の仮面に冷たい影を落とす。
ユリウスたちは息を呑み、言葉を失っていた。剣を交えることも血を流すこともなく、ただ相手の心理の死角を突き自壊へと誘導する。
「では軍師殿。我々の次なる手は?」
レオンが乾いた喉を鳴らしながら問いかける。彼の手にあるペンの先が微かに震えた。
「――簡単です」
私は地図上の『黒の宮殿』を示す駒を指先でコンと軽く弾いた。
「我々がすべきは、彼らの心に燻り始めた『恐怖』という名の火種にたっぷりと油を注ぐことだけです」
私はゲッコーへと向き直り鋭く命じた。
「ナディムさんに伝達を。カナン遺民のネットワークを総動員して、覇国の全土に『噂』を流してください」
言葉の刃を一つ、また一つと研ぎ澄ましていく。
「一つ、『南の三部族は帝国と戦っているふりをして裏で密約を結びすでに莫大な富を築いている』」
「二つ、『バラクたちと共に歩んだ方が飢えと病から解放されるのではないか』」
そして私は声を一段落とし最も猛毒となる最後の一句を紡いだ。
「――三つ。『あの強欲な将軍たちでさえ自分だけが生き残るために水面下で帝国や南の部族と交渉を始めているらしい』と。……念のためボルガス将軍の天幕の裏に上質な南の絹を数反紛れ込ませておくことも忘れないように、と、指示してください」
ゲッコーの無表情な顔にほんのわずかだが戦慄の色が走った。
「……御意に」
彼は深く一礼すると再び音もなく影の中へと溶けていった。
後にはその致死量の猛毒に震え上がる若き獅子たちと、ただ静かに盤面を見据える私の姿だけが残された。
◇◆◇
北の荒野に吹き荒れる風は目に見えぬ呪いのように言葉を運んだ。
情報の震源地は巧妙に隠蔽されていた。行商人の世間話、吟遊詩人の歌、酒場の酔っ払いの愚痴。それらに偽装された囁きは、乾いた大地に染み込む水のように覇国の隅々にまで静かに、そして爆発的な速度で浸透していった。
「おい聞いたか……。南の連中、毎日焼きたてのパンを食ってるって話だぞ」
「俺たちには石みたいに硬い干し肉しか配られないってのによ……」
「昨日ボルガス将軍の天幕に見たこともない上等な南の絹が運び込まれたって番兵が言っていたわ。まさか将軍様まで……」
噂は疑心暗鬼を生み妄想を真実へと変えていく。
昨日まで背中を預け合っていた戦友の顔が突如として裏切り者のように見え始める。部族長たちは「自分だけが使い捨てにされるのではないか」という焦りに駆られ、互いの天幕を監視し合い些細な物資の移動にすら目を光らせるようになった。
誰もが隣人を疑っていた。
◇◆◇
その毒の霧はやがて最も濃密な形で『黒の宮殿』の最奥――玉座の間へと流れ込んだ。
ドンッ!!
覇王クルガンが蹴り飛ばした黄金の台座が凄まじい音を立てて大理石の床を転がった。
部屋を支配するのは息をするのもためらわれるほどの濃密な殺気。玉座の足元には怯えきった密偵が額を床にこすりつけ、ガタガタと震えている。
「……それが俺の足元で囁かれている戯言か」
クルガンの黄色い瞳はもはや理性を失った獣のそれだった。
彼の視線が玉座の周囲で硬直している将軍たち――ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァをねっとりと嘗め回すように動く。
(……南の豊かさ。帝国の影。そして……こいつらの裏切りだと?)
クルガンの目には巨体を揺らすボルガスの服の膨らみが帝国からの賄賂を隠しているように見えた。ゾルヴァーグが神経質に指先を動かす仕草が暗殺の合図を送っているように見えた。ユルヴァの気だるげな視線が自らを嘲笑っているように見えた。
「覇王陛下……! そのような流言飛語、信じるに足りませぬ! 何者かが我らの結束を乱そうと……」
ボルガスが脂汗を流しながら弁明しようと一歩前に出た。
「動くなッ!!」
クルガンの咆哮が玉座の間を物理的に揺るがした。
ボルガスは弾かれたように足を止め、顔面を蒼白にする。クルガンの手は腰の大剣の柄をギリリと握りしめていた。その指の関節が白く浮き上がり、革の柄が悲鳴を上げている。
その狂乱の玉座の傍らで。
参謀ヴィクトルは冷たいレンズの奥の灰色の瞳を細め、じっとクルガンの背中を見つめていた。




