【追憶の覇道】第5話:『光の影、賢人の変節』
注意:数年前の話です
※クルガンの起こり、カナンの受難
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黄金の商都カナン。
ヴォルガルドの軍門に下った後も、街は表向き以前と変わらぬ繁栄を謳歌しているように見えた。市場には南からの香辛料が並び、職人街からは心地よい槌音が響く。
だがその華やかな表皮を一枚剥げば、すでに致死量の毒が血管の隅々にまで巡り始めていた。
街の要所には黒い甲冑の「監察官」が常駐し、商人たちの帳簿と金の流れを監視している。彼らの目は数字の奥に隠された私財や不穏な動きを決して逃さない。自由な商取引は名ばかりとなり、商人たちは常に背後を気にして生きるようになっていた。
◇◆◇
その見えざる圧力の中心地、賢人会議の議場。
豪奢なシャンデリアの下、円卓を囲む長老たちの顔は一様に蒼白だった。
彼らの視線の先、本来ならば末席であるはずの「オブザーバー」の席で、ヴィクトルは優雅に脚を組み、薄い笑みを浮かべている。
「――さて皆様。本日はこの北方の未来を担う、素晴らしい法案を提案させていただきます」
ヴィクトルが円卓の中央へ滑らせた一枚の紙。
そこに記された『北方知識共有法』という文字に長老たちは怪訝な顔をした。
「我が覇王クルガン様はこのカナンが蓄積してきた高度な知識と文化を、北の全ての同胞と分かち合いたいと切望しておられます。……つきましてはカナンの優れた知識人、技術者、そして商人たちを『教師』として各地の部族へ派遣していただきたい」
それは極めて崇高な人道支援の提案に聞こえた。
だがその言葉の裏にある真の意図を、賢人の一人であるエノクは即座に見抜いた。
「ふざけるな!」
エノクは立ち上がり、机を叩いた。
「それは体の良い『口減らし』であり、市民の強制分散だ! カナンを支える頭脳を各地に散逸させ、我々のコミュニティそのものを解体する気か!」
エノクの痛切な叫びに彼に同調する何人かの議員たちが深く頷く。彼らはまだカナンの自治と誇りを信じていた。議場の空気が反ヴィクトルへと傾きかける。
「……おや。私はただ平等な知の共有を提案しただけですが」
ヴィクトルは全く動じず、むしろその反発を楽しむかのように目を細めた。
「……まあ良いでしょう。皆様も思慮を深める時間が必要でしょうから。少し休憩を挟みましょうか」
彼は冷ややかな笑みを残し、席を立った。
◇◆◇
休憩時間。
薄暗い回廊で、ヴィクトルはエノクの同調者であった有力議員の一人に、すっと背後から寄り添った。
「――議員。貴方の美しい娘さんが先日ヴォルガルド本陣への『留学』を希望されたそうですね?」
「なっ……! まさか……!」
議員の顔から一瞬で血の気が引いた。娘は数日前から本陣へ「招待」という名目で連れ去られている。それが人質であることは明白だった。
「素晴らしい向学心だ。覇王様もたいそうお喜びで、彼女を特別な『教育区画』で手厚く保護しておりますよ。……ええ、とても手厚く」
ヴィクトルの声は甘く、そして氷のように冷たかった。
「……もし貴方がこの素晴らしい法案に反対し、北方の発展を阻むようなことがあれば……。彼女の教育方針も少し『見直さねば』ならなくなるかもしれませんね。例えば……荒くれ者たちの兵舎で、奉仕の精神を学ばせるとか」
「……っ!」
議員の喉から声にならない悲鳴が漏れた。
ヴィクトルの愉悦はこれだけでは終わらない。
彼は各議員の「弱み」を完全に把握していた。
愛人の存在、過去の脱税、横領の証拠。それらを記した紙片を休憩時間の間に標的となった議員たちの懐へ、ごく自然に、そして確実な社会的な死刑宣告として滑り込ませていった。
(……さて、彼らは『誇り』と『自己保身』、どちらを選ぶでしょうかね。……ふふっ、愚問でしたね)
◇◆◇
再開された会議。
議場の空気は先程とは全く異質なものに変わり果てていた。
エノクの味方だったはずの議員たちが皆一様に顔を伏せ、脂汗を流しながらガタガタと震えている。
「では、採決を」
ヴィクトルの静かな声が響く。
エノクが信じられないものを見る目で周囲を見渡す中、議員たちは震える手を一人、また一人と重々しく挙げていった。自らの手で同胞の首を絞めるための法案に賛成の意を示していく。
「……な、なぜだ……! お前たち、これが何を意味するか分かっているのか!」
エノクの絶叫は虚しく議場に響き渡るだけだった。
「可決ですね。皆様の賢明にして『自発的』なご判断に、心より感謝いたします」
ヴィクトルは満足げに頷くと一枚のリストを懐から取り出した。
「では早速ですが……栄えある『第一陣』の派遣リストを読み上げさせていただきます」
そのリストに名を連ねていたのはカナンで最も有能な商人、優れた技術を持つ親方、そして最後まで覇国への抵抗を主張していた反骨精神のある若者たちだった。
エノクの恩師や彼が目をかけていたナディムも、その中に含まれていた。
「これは北の未来を創るための、名誉ある任務です」
ヴィクトルが微笑みながら紡ぐその言葉は、カナンの頭脳と精神を物理的に「追放」する合法的な処刑宣告だった。
エノクは絶望と共に崩れ落ちる長老たちを見下ろすヴィクトルのその冷酷な灰色の瞳と口元の歪んだ笑みを、生涯忘れることはなかった。




