第296話:『軍師の熱狂、あるいは道の駅構想』
荒野の茶会が終わり、砦に戻った私たちの周りにはまだ夜明け前の冷たい空気が満ちていた。空は白み始めているが、まだ星が瞬いている。
だが私の頭の中は祝杯の熱気とは全く違う、新たな回路が繋がった瞬間のスパークのような熱を帯びていた。
「鉄は熱いうちに打て、です!」
作戦室に戻るなり、私は銀の仮面を外すのももどかしく、机をバンと叩いてセラさんに捲し立てた。
「セラさん、ヘルマンさん! 今すぐ三部族との交易レートと物資リストの草案作成を! レートは帝国側が大幅に損をするくらいで結構です! 損して得取れ! 今は利益より信頼を買いなさい!」
そのあまりに性急で無茶な指示に、セラさんとヘルマンさんが目を丸くする。
そこへ騒ぎを聞きつけたアイゼンハルト監査官が眠たげな目をこすりながら、しかし軍服の襟元だけは完璧に正して入ってきた。
「軍師殿、早朝から何を……。聞こえてきましたぞ、帝国が損をする取引など言語道断です! 財政規律をなんと心得えますか!」
「ちょうど良いところに! アイゼンハルト監査官! あなたのその石頭……いえ、その緻密な計算能力をお借りします!」
私は彼の手を掴み、有無を言わさず地図盤の前に引き据えると、興奮で上擦った声で語り始めた。
「いいですか! この取引で我らが失うのは、はした金です! その代わり、我らは金では買えぬものを手に入れる! 北方からの侵攻を食い止める巨大な『緩衝地帯』という名の盾をです!」
私の指が地図の上で三部族の領域を力強く囲む。
「幾万の兵を動かし、砦を維持し、血を流して国境を守るコストを計算してください。それに対し、帝国兵の血を一滴も流さず、忠実な同盟軍を事実上買い取ったも同然なのですよ!? この差額はその『防衛費』だと思えば、むしろ破格のお買い得ではありませんか!」
その常識外れの、しかし妙に説得力のある損益計算に、アイゼンハルトの怜悧な頭脳がフリーズした。
「そ、それは……確かに軍事予算として計上すれば……いや、しかし……」
口をぱくぱくとさせ反論の糸口を探しているが、数字の辻褄が合ってしまうことに戸惑っているようだ。
レオン様もいつの間にか部屋に入ってきており、その熱狂的な議論に興味深そうに耳を傾けているが、口を挟む隙間はどこにもない。
「ただし!」
私はそこで一度言葉を切り、声を潜めて鋭く付け加えた。
「『星影草』……あの薬草だけは別です。あれは交易品リストには入れません」
「……は? では売らないと?」
アイゼンハルトが眉をひそめる。
「逆です。バラク殿に託し、『無料』で配らせます。それも北の民すべてに行き渡るほどの量を」
全員が息を呑んだ。貴重な特効薬を敵対する可能性のある者たちにまで無料で配るなど狂気の沙汰だ。
だが私の瞳には、冷徹な計算の光が宿っていた。
「金を取れば、それはただの『商売』です。ですが無償で与えれば、それは『奇跡』となり『恩義』となる。……クルガンが恐怖で民を縛るなら、我々は慈悲でその鎖を溶かすのです。民の心がクルガンから離れれば、彼の支配は砂上の楼閣となる。…まぁ、それだけでは無いのですが…」
そこまで一気にまくし立てると、私は再びパッと表情を明るくし、地図上の『忘れられた神々の遺跡』を指差した。
「それから! この場所! バラクさんたちとの会合に使っていた遺跡です! 敬意をもって、大切な部分はそのまま残しつつ大改修し、三部族との公式な交易所とします! 私に下賜された追加の活動資金は、その改修費用に充当します!」
あまりの展開の速さに、セラさんでさえも「り、リナ様、少し落ち着いて……」と狼狽の色を隠せない。
だが私の熱狂は止まらなかった。脳裏に浮かぶのは前世の記憶。旅の途中で立ち寄ったあの賑やかで温かい場所。
「そうです! これは『道の駅』です! 北の荒野のオアシス! 旅人が集い、情報が交差し、文化が生まれる場所にするのです!」
私は目を輝かせ、夢見るように語り始めた。
「特産品も開発しないと! 北方の手織りの絨毯とか、珍しい岩塩とか! 軽食コーナーも必須ですね. それから誰でも自由に弾けるピアノも置きましょう! 音楽は言葉の壁を越えますから!」
「……ぴ、あの……?」
「……みちの、えき……?」
私の口から飛び出す未知の単語の洪水に、その場にいた全員が完全に思考を停止させていた。
ただ一人、その熱狂の中心で私はまだ見ぬ未来の賑わいに胸を躍らせ、きらきらと目を輝かせている。
その姿は冷徹な軍師の仮面を脱ぎ捨て、文化祭前夜にはしゃぐ実行委員長のそれだった。
その光景を前に、アイゼンハルトは眉間に深い皺を寄せ、こめかみを押さえて立ち尽くしていた。
彼の手にあるペンが帳簿の上で震えている。
(……滅茶苦茶だ。規定外だ。前例がない。予算の使途としてもあまりに杜撰で、感情的で、お遊びに近い)
彼の官僚としての『規律』が、全力で拒絶反応を示し、警鐘を鳴らしている。
(だが……計算が合ってしまう。このデタラメな計画がもたらす利益は、既存のいかなる軍事作戦の比ではない。ここで私が『規則』を盾に止めれば、それこそが帝国への背信行為となる……!)
反論したい。だが、論理の穴が見つからない。
止めたい。だが、止めれば国益を損なう。
常識外れなのに、正解。
論理と規律の迷宮に放り込まれ、処理能力の限界を超えた彼はただペンを握りしめたまま、ギリギリと奥歯を噛み締めるしかなかった。
「……ぬ、ぐ……ぅぅぅ……」
その苦悶に満ちた唸り声など聞こえていないかのように、私の頭の中ではすでに完成予想図とオープニングセレモニーのファンファーレが高らかに鳴り響いていた。




