第295話:『荒野の誓い、夜明けへの狼煙』
緊張と緩和が入り混じる奇妙な空気の中、シュタイナー中将が部下に命じて持参させた極上の蒸留酒が族長たちの空いた杯に注がれた。琥珀色の液体がランプの光を揺らめかせる。
「さあ、飲め!」
シュタイナーの豪放な声が夜の静寂に響いた。彼は自らの杯を高々と掲げる。
「敵も味方もない! 過去の遺恨は水に流し、ここにいるのは北の未来を憂う者たちだけだ! ……違うか!」
その圧倒的な陽の気に当てられ、ゴードとエルラは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。やがて覚悟を決めたように杯を干す。喉を焼く強い酒が、彼らの凍てついた心を内側から溶かしていく。
二人は器を置くと、無言のままリナとバラク、そしてシュタイナーに深く頭を下げた。それは言葉にならない、服従ではなく「共闘」の誓いだった。
場の空気が和らいだのを見計らい、私はゲッコーさんを招いた。
音もなくゲッコーさんの背後から、数名の『影』たちが姿を現す。彼らは族長たちに一礼すると、影のように控えた。
「――では、今後の具体的な連携について」
私は地図を指し示し、淡々と、しかし重要な提案を切り出した。
「まずこのゲッコーの配下たちに、あなた方の領地を含むこの一帯の哨戒許可をいただきたいのです」
「なっ……帝国の兵を領内に入れると!?」
ゴードが難色を示しかけるが、私は静かに言葉を継ぐ。
「監視のためではありません。クルガンの目はどこにでもある。彼らの侵入を早期に察知し、あなた方に知らせるためです。……ですが、勝手がわからぬ土地で彼らだけで動くのは非効率です」
私は族長たちの目をしっかりと見据えた。
「そこで、あなた方の部族の腕利きの斥候と、彼らを組ませていただきたい。土地勘のあるあなた方と、情報収集に長けた彼らが組めれば、鉄壁の目が出来上がるでしょう。互いに背中を預け、学び合う……あくまで対等な協力関係です」
その提案にエルラが小さく頷いた。
「……なるほど。それならば、我らの面目も立つ。それに、帝国の斥候術、盗めるものなら盗んでみたいものだ」
「ええ、どうぞ存分に」
私は微笑んで許可した。
「それから、もう一つ」
私は地図上の『忘れられた神々の遺跡』に駒を置いた。
「ここに新たな『交易拠点』を設立します」
「交易拠点、だと?」
「はい。物資の交換所であり、同時に情報の集積地です。ここで帝国と三部族、互いの誤解や無用な緊張を無くすための定例会議を行います。……第一回は近いうちに」
それは単なる同盟以上の、経済と情報による強固な結びつきを意味していた。族長たちの目に未来への野心が灯る。彼らにとっても、それは抗いがたい魅力に満ちた未来図だった。
全ての取り決めが終わり、シュタイナー中将が「では、吉報を待っておるぞ!」と満足げに帰途につくと、張り詰めていた糸がようやく切れた。
私は仮面の下で「ふあぁ……」と小さくあくびを噛み殺した。
それまで背筋を伸ばしていた姿勢がふにゃりと崩れ、まるで操り人形の糸が切れたかのように椅子にもたれかかる。
「ああ、よかった!」
声はもう『天翼の軍師』のものではなく、子供のように弾んでいた。
「これで一安心です! 緊張して、お腹が空いちゃいました!」
どこからともなく、すっ、と複数の人影が現れた。
侍女長のクララが完璧な微笑みを浮かべ、私の肩にそっと温かいショールを掛ける。
「お疲れ様でございました。すぐに温かいお飲み物を」
その背後では他の侍女たちが音もなく冷めた紅茶を下げ、新しいティーセットと湯気の立つ軽食をテーブルに並べ始めていた。まるで最初からそこにいたかのような、完璧で無駄のない動き。
ゴードとエルラは目を丸くし、腰を浮かせかけた。目の前の現実が理解できず、侍女たちと私を見比べている。
バラクも一瞬呆気に取られて口を半開きにしていたが、すぐに状況を察し、こみ上げる笑いを堪えきれずにいた。
私はすっかり慣れた様子で差し出された温かいミルクを受け取り、テーブルに並べられたばかりの温かいスコーンに手を伸ばす。
「さあ、皆さん! 冷めないうちにいただきましょう! すっ…ごく美味しいんですよ!」
私は心底おいしそうに、もぐもぐとケーキも頬張り始める。
つい先刻まで大陸の命運を左右する軍略を語っていた「天翼の軍師」が、今はただの甘いもの好きな少女に戻っている。
そのギャップといきなり現れた侍女たちに、ゴードとエルラは呆然とし、バラクだけが「ふ…ふふ。はっはっは! 」と腹を抱えて笑っていた。




