間話:『砂塵の中の星図、商人の誓い』 296.5
その時ナディムは、ゲルの隅で息を殺していた。
風読む民に『再教育』の名目で配属されて以来、彼らカナンの民は常にこうして生きてきた。気配を消し、存在を忘れさせ、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。
だが今、天幕の向こうで繰り広げられている光景は、彼がこれまで経験したどんな嵐とも異質だった。
天幕の隙間から覗く視線の先。
篝火に照らされた白いテーブル。そこに座る、銀の仮面をつけた異国の少女。
そしてその少女の一挙手一投足に、荒野の狼であるはずの三人の族長たちがまるで子供のように翻弄されている。
(……なんだ、これは……)
ナディムの脳裏に故郷カナンの記憶が蘇る。
北の交易を牛耳り、黄金と活気に満ちていた美しい商都。それを奪い、同胞たちを各地へ追いやった男――クルガン。
以来ナディムは復讐だけを胸に生きてきた。だがクルガンの力はあまりに巨大で、その支配は盤石に見えた。
だが今、目の前で起きていることは彼の常識を根底から覆していた。
武力ではない。金でもない。
たった一人の少女が放つ「知恵」と「威厳」が、あの歴戦の族長たちを完全に支配している。
そして極めつけは、あの帝国軍司令官、シュタイナー中将の登場だった。
北の民にとって悪夢の象徴であるはずの男が、あの少女の前ではまるで忠実な騎士のように頭を垂れている。
(……この少女こそが、風の噂に聞く『天翼の軍師』……)
◇◆◇
翌朝。
ナディムは族長バラクのゲルに呼び出された。
バラクはあの夜の出来事を淡々と語り、そしてリナからの指示を伝えた。
「――『カナン』の民を、三部族の『交易官』として取り立てる。それが、軍師殿のご意思だ」
その言葉にナディムは顔には出さずとも、内心で激しく動揺していた。
蔑まれ、忘れられていた我々を、なぜ?
バラクはそんな彼の心中を見透かすように、言葉を続けた。
「軍師殿はこうも仰っていた。『彼らは元々商人であり、読み書きと計算に長けている。そして何より、故郷と誇りを奪ったクルガンを心の底で憎んでいる』と」
ぞくりとナディムの背筋を悪寒が走った。
全て、見透かされている。
あの少女は、我々カナンの民が水面下で築いてきた情報網の存在も、その胸に秘めた復讐の炎も、全てを知った上で我々を盤上の駒として選んだのだ。
ナディムは畏怖のあまり、身震いを抑えることができなかった。
自分たちをただの駒としてではなく、その能力と境遇、そして「心」までを理解した上で最も効果的な役割を与えようとしている。
クルガンが自分たちを力で踏み潰し、利用価値のないゴミとして捨てたのとは全く違う。
「……どうだ、ナディム。お前たちに、この大役、務まるか?」
バラクの問いにナディムは我に返った。
彼はゆっくりと顔を上げると、その場に深く、深く膝をついた。
「――お任せください、バラク様。そして、お伝えください、軍師殿に」
ナディムの声は、もう息を殺すだけの敗者のものではなかった。
復讐の機会を得た狡猾な商人の声。そして、自分たちの価値を認められた者としての、確かな誇りに満ちていた。
「我々カナンの民……いえ、この『交易官』ナディムが三部族の血脈となり、神経となり、必ずやご期待に応えてご覧にいれましょう。クルガンが築いた砂上の楼閣を、内側から食い破る蟻となって」
バラクはその瞳に宿る覚悟の炎を見て、満足げに頷いた。
軍師が選んだ駒は、ただの駒ではなかった。
その日から、荒野に散らばっていたカナンの民が、静かに、しかし迅速に動き始めた。
彼らはもう、砂塵に埋もれるだけの存在ではない。




