第271話:『月影に揺れる心』
賑やかな食卓の熱気が去った後、私は一人、ロッジのテラスで夜空を見上げていた。黒いビロードのような湖面に月が映り、風が渡るたびにその姿を静かに揺らしている。
この月は、遠い帝都の孤児院の屋根も照らしているのだろうか。トムやアンナ、小さな弾丸たちの顔が脳裏に浮かぶ。あの子たちの笑顔を守るためだ。そう自分に言い聞かせ、戦い続けてきた。その理由を、今一度胸に刻みつける。
ふわり、と肩に温かいショールが掛けられた。
振り返ると、セラが湯気の立つハーブティーのカップを差し出しながら、私の隣に静かに腰を下ろした。少し離れた影の中に、ヴォルフラムとゲッコーが石像のように佇んでいるのが気配でわかる。
セラは何も言わない。ただ、私の心中をすべて察しているかのように、静かに隣に座っているだけ。言葉を必要としない穏やかな時間が、冷えた心をじんわりと温めていく。カップから立ち上るハーブの香りが、張り詰めていた神経を優しく解きほぐした。
「明日も、ここでゆっくりしていただきますよ」
セラが、夜の静寂に溶けるような優しい声で告げた。
「でも……」
私が反射的に反論しようとすると、彼女はそれを遮った。
「リナは、働きすぎです」
その声は、いつもより少しだけ強く、有無を言わせぬ響きを帯びていた。
セラの脳裏に、これまでの旅路が焼き付いたフィルムのように蘇っていた。血に塗れた戦場で意識を失った、あの儚い姿。感謝の言葉に打ちのめされ、罪悪感に震えていた小さな背中。完璧な軍師の仮面の下で、一人、孤独に耐えていた夜。その一つ一つが、彼女の心を鋭く抉る。
込み上げる感情を抑えきれず、セラの瞳が涙で潤んだ。
「今、全ては順調に進んでいるのですから、数日は……お願いですから……」
その声は懇願に近く、微かに震えていた。
次の瞬間、私は温かい腕の中にそっと包み込まれていた。壊れやすい宝物に触れるかのように、セラが私の小さな体を抱きしめている。驚きで一瞬こわばった体が、伝わってくる彼女の震えに、張り詰めていた最後の糸がぷつりと切れた。
私はセラの胸に顔をうずめ、ただその温かさに身を委ねた。
心からの安堵と、蓄積された疲労が、心地よい眠気となって意識を包み込む。
セラの腕の中で、私は静かにまどろみの中へと落ちていった。
眠ってしまった私を抱きしめながら、セラは夜空に浮かぶ月に祈りを捧げる。
(どうか、この子をお守りください)
彼女の目配せに応じ、ヴォルフラムが音もなく現れた。眠る私を、羽毛を扱うようにそっと抱き上げ、寝室へと運んでいく。その足取りは、どこまでも優しかった。




