第270話:『湖の主と、若き獅子たちの初陣』
ただならぬ事態に、木陰で立ち尽くしていたユリウスたちが弾かれたように駆け寄ってきた。
「リナ殿、手を貸す! 我々が代わろう!」
ユリウスが良いところを見せようと、自信に満ちた声で竿を受け取ろうとする。
「待て、ユリウス! 闇雲に力を加えるな!」
レオンが眼鏡を光らせながら、立て板に水で解説を始めた。
「竿の角度は45度を維持し、相手の動きに合わせてテンションをコントロールするんだ! てこの原理を応用すれば……!」
「理屈は後だ! 引くぞ、ゼイド!」
「はっ、殿下!」
ユリウスとゼイドが二人で竿に掴みかかり、力任せに引き始める。「せーの!」と声を合わせるが、タイミングが全く合わない。ぬかるんだ岸辺で足を取られ、次の瞬間、二人は見事なまでに揃って尻もちをつき、背中から泥水の中へとダイブした。盛大な水しぶきが上がり、二人の姿はあっという間に泥まみれになった。
「……だから言ったんだ」
レオンが呆れたように天を仰いだ。
皇子たちのドタバタで生まれた一瞬の隙。糸が緩んだのを好機と見たのか、水中の主がさらに暴れ出す。
その時、すっと私の後ろに音もなく影が差した。いつの間にか現れたゲッコーが、私の手の上からそっと竿を支える。
「……リナ様。相手が引けば、糸を出す。動きが止まれば、竿を立て、巻く。……これの繰り返しです」
耳元で囁かれる、最小限にして的確な指示。私がその通りに動くと、あれほど暴れていた相手の力が少しずついなされ、ゆっくりと、しかし確実に岸へと寄ってくるのが分かった。
だが、主は最後の抵抗を見せた。
ばしゃん、と湖面が割れ、巨大な魚体が夕陽を浴びてきらめきながら跳ねる。その想像を絶する大きさに、誰もが息を呑んだ。
「何をもたもたしておるか! まだるっこしいわ!」
突如、茂みから地響きのような声が轟いた。腕まくりをしたシュタイナー中将が、その手に狩猟用のモリを握りしめて立っている。
「ええいっ!」
気合一閃、豪快に投げ込まれたモリが空を切り、水しぶきと共に“湖の主”と呼ばれる巨大な魚の急所を寸分違わず貫いていた。
静まり返る湖畔。全員が、水面に浮かぶ巨大な魚と、仁王立ちするシュタイナー中将を呆然と見ている。
「ちゅ、中将閣下!? なぜこちらに……?」
「うむ! いや、なに、砦の周辺警備を視察していたついでだ! …しかし、どうやらわしが居て正解だったようだな! がっはっは!」
孫に良いところを見せられた祖父のように、満足げに胸を張る。
その時、セラが静かに一歩前に出た。完璧な微笑みを浮かべているが、その目が全く笑っていない。
「中将閣下。砦の防衛司令官が、持ち場を長時間離れて魚突きとは… 」
「ひっ…! い、いや、これはだな、その…! うむ! リナ殿の休息地の安全も確認できた! 異常なし! 儂は急ぎ砦に戻る!」
中将は狼狽し、威厳を取り繕いながら嵐のように去っていった。
後に残されたのは、巨大な魚と、泥だらけのまま悄然と立ち尽くす皇子たち。
「……面目、次第もない」
ユリウスが力なく呟く。
私は、くすくすと笑いながら彼らに駆け寄った。クララがいつの間にか用意してくれていた清潔なタオルを、一人一人に手渡していく。
「そんなことありません! 私のために、あんなに一生懸命になってくださって…泥だらけになってまで。すごく、嬉しかったです!」
泥など気にもしない、心からの満面の笑み。
その純粋な笑顔に、ユリウスたちは言葉を失った。自分たちの失態ではなく、その「気持ち」を受け取ってくれたことに、心の中を隔てていた見えない壁が、音を立てて溶けていくのを感じた。
その夜のディナーのメインディッシュは、クララが見事に調理した“湖の主”の塩釜焼きと、香草を効かせたムニエルだった。
「こ、これが昼間の…美味いな!」
「塩釜で焼くことで、旨味を閉じ込めているのか…実に見事だ」
「我々が…(一応)捕まえた魚だからな」
皇子たちは昼間のドタバタを思い出し、苦笑いを浮かべつつも、どこか誇らしげに料理を味わう。食卓の雰囲気は昨日とは比べ物にならないほど和やかになっていた。
やがて、その沈黙を破ったのはユリウスだった。彼は意を決したように、私にまっすぐ向き直った。
「……リナ殿。その……我々のことは、どうか気になさらないでほしい。敬語や礼儀も、今は不要だ。……我々は、もっと君のことを知りたい。明日は、一緒に過ごしても良いだろうか?」
その真摯な瞳に、私はにっこりと微笑み返した。
「はい、良いですよ」
だが、その返事にかぶせるように、隣から氷のように冷たい声が響いた。
「……リナ様のお邪魔だけは、決してなさらないでくださいね」




