第269話:『湖畔の戯れ、あるいは小さな波紋』
砦の喧騒を遠く離れた湖畔のロッジは、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。
扉を開けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
「お待ちしておりました、リナ様」
完璧な微笑みで出迎えてくれたのは、侍女長のクララ。その背後では、見覚えのある侍女たちが音もなく立ち働き、テーブルには既に湯気の立つ昼食が並んでいる。奥の部屋からは、薬草の香りが混じった心地よい湯気が漂ってきていた。
私はされるがままに温かい湯で疲れを癒やされ、手際よく髪を結い上げられる。気づけば、堅苦しい軍服は柔らかなワンピースへと着替えさせられていた。
昼食の席では、セラとヴォルフラム、そしてクララたちの手によって、まるで籠の中の鳥のように至れり尽くせりのもてなしを受けた。その間、ユリウス皇子たちは部屋の隅で所在なげに立ち尽くし、ただその光景を遠巻きに眺めているだけだった。
食後の腹ごなしにと、ゲッコーがどこからともなく取り出した釣り竿を手に、私は湖に突き出た小さな桟橋の上で夢中になっていた。
足元のバケツには、銀色の鱗をきらめかせる小魚が数匹、ぱしゃぱしゃと跳ねている。
「わっ! また釣れました!」
竿先が小気味よく震え、水面から銀色の小さな光が飛び出す。そのたびに私の声は子供のようにはしゃぎ、隣に控えるヴォルフラムが慣れた手つきで針を外してくれる。
釣れた魚は、その場でクララが見事な包丁さばきで手早く捌き、用意された炭火の上でじゅうじゅうと音を立てて焼かれていく。塩がぱちぱちと爆ぜる音と共に、香ばしい匂いが湖畔の空気に満ちていった。
その光景を、セラは少し離れた椅子に腰かけ、紅茶のカップを片手に微笑ましげに見守っていた。湖面を渡る風が彼女の髪を優しく揺らしている。
ユリウス、レオン、ゼイドの三人は、その完璧に出来上がった輪の中に、どう入っていいものか分からないでいた。少し離れた木陰で、ぎこちなく腕を組み、ただ桟橋の上で繰り広げられる穏やかな時間を眺めている。
「……どうしたものか」
ユリウスが、絞り出すように呟いた。あの軍議の場で見せる威厳はどこにもなく、ただ戸惑う一人の若者の顔をしている。
「見ての通りだ、ユリウス」
レオンがやれやれと肩をすくめた。
「あれは我々が踏み込んでいい領域ではない。セラ殿が築いた完璧な『リナ様の休息』という結界だ。我々が入れば、場の空気が乱れるだけだろう」
「だが、このままでは昨日の二の舞だぞ」
ゼイドが焦れたように言った。彼の真っ直ぐな瞳は、ただ純粋にリナと話したいという気持ちを映している。
「何か、きっかけがあれば……」
ユリウスが視線を彷徨わせた、まさにその時だった。
「今度は、大きいといいなぁ」
私がそう呟きながら、餌をつけた仕掛けをえいっと投げ入れた、まさにその直後だった。
それまで静かだった浮きが、まるで巨大な何かに引きずり込まれるように、一瞬で水中に消し込んだ。
「来ましたっ!」
反射的に竿を立てた瞬間、腕に凄まじい衝撃が走る。しなやかな竹竿が、ありえない角度で曲がり、満月のようにしなってギシギシと悲鳴を上げた。
とてつもない力。私の小さな体が前のめりになり、華奢な足が桟橋の板の上を滑る。
「リナ様!」
ヴォルフラムが悲鳴に近い声を上げ、背後から私の腰を抱きかかえる。全体重をかけて踏ん張るが、それでもじりじりと二人分の体が湖へと引き寄せられていく。
「すごい力……! これが……大物……!」
腕は痺れ、額には汗が滲む。だが、その瞳は苦痛ではなく、未知との遭遇に対する純粋な好奇心で爛々と輝いていた。
「……きっかけ、か」
ユリウスが、目の前の光景を見てにやりと口の端を吊り上げた。
「行くぞ、二人とも!」




