第260話:『軍師の骨休み』
(……うん。もう、身を委ねてしまおう)
諦観と共に、私の体から最後の力が抜けていく。
作戦室を出る。まだ背後にあるユリウス皇子たちの視線を感じ、私は最後の気力を振り絞って背筋を伸ばした。その一歩一歩は、まるで薄氷の上を歩むように慎重で危うい。
廊下の角を曲がり、彼らの視界から完全に消えたその瞬間。
張り詰めていた糸がぷつりと音を立てて切れた。私はその場にしゃがみ込みそうになるのを堪えた。
「リナ様」
セラの心配そうな声が、水底から聞こえるように遠い。
「……大丈夫です……。少し、疲れただけ……」
「……リナ様。ゆっくり参りましょうか」
セラは慈愛に満ちた声で囁くと、私の前に屈み込んだ。
「では、参りましょうか」
彼女は私の手を取り一緒に並んで歩いてくれる。
セラに手の暖かさになんだか嬉しくなった私は、つい弾んだ足取りで廊下を歩いた。時折、窓の外の月を見上げて「きれいですね」と囁いた。その様子を、セラさんのその瞳はどこまでも優しく見守っていた。
案内された食堂には、湯気の立つ料理が並んでいた。
黄金色の鶏肉のコンソメスープ。ひと匙すくえば、凝縮された旨味とハーブの香りが口いっぱいに広がる。メインは、柔らかく蒸しあげた白身魚のソテー。レモンバターの爽やかなソースが、疲れた体に優しく染み渡った。付け合わせの温野菜は、素材そのものの甘みが引き立てられていた。
クララさんの完璧な采配が光る、心と体に優しい献立だった。
私は夢中で、その全てを平らげてしまった。
(……美味しい……。孤児院のみんなにも、この温かいご飯を……)
胸がいっぱいになりお腹もいっぱいになると、抗いがたい眠気が津波のように押し寄せてくる。
クララさんがそっと近づき、椅子を引いてくれた。立ち上がると微笑みながら私の手を引いてくれる。その手の温かさに、私はもうされるがままだった。彼女の頬がほんのりと赤く染まっていることに、私は気づかない。
花びらが浮かぶ温かい湯船で微睡み、侍女たちの手で髪を乾かされ、ふかふかのベッドに潜り込んだ瞬間、私の意識は幸せな闇の中へと沈んでいった。
◇◆◇
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ました私は、昨夜の自分の気の抜けっぷりを思い出し、一瞬だけ頭を抱えた。
(……やっちまった……)
だが、窓から差し込む陽光と深く満ち足りた眠りのおかげで心も体も驚くほど軽い。
(……まあ、いっか……)
私は気を取り直し、寝間着のまま食堂へと向かった。
テーブルの上には絵に描いたような完璧な朝食が待っていた。
厚切りのトーストからは小麦の香ばしい匂いが立ち上り、半熟の目玉焼きの黄身は今にもとろけだしそうだ。焼かれたベーコンが立てる微かな音と新鮮な果物が添えられたヨーグルトの色彩が食欲をそそる。
私の目がきらりと輝いた。
私が席に着くとクララさんが音もなくミルクを注いでくれる。その後ろで、若い侍女たちが息の合った動きで次の皿の準備を整えていた。
私は食べ終えると立ち上がりクララさんに向き直った。
「クララさん、ごちそうさまでした。ありがとうございます……これからも、よろしくお願いしますね」
「……これがわたくしたちの務めですので」
彼女はそう言って、嬉しそうにはにかむように微笑んだ。
私とセラが部屋を辞す。入り口に居たヴォルフラムがその後を追った。その背中を見送った後、侍女たちの間で堰を切ったように囁き声が弾けた。
「なんて可愛らしい……!」「『ありがとう』ですって!」「これからもよろしくって……!」
「皆さん」
クララの凛とした声が、浮かれた空気を引き締める。
「感傷に浸るのは結構ですが、私たちの本領はこれからですよ!」
「「「はいっ!」」」
侍女たちは弾かれたように動き出し、後片付けと次の準備に取り掛かった。クララは満足げに頷くと、ふと部屋の隅の影に視線を送る。
「ゲッコーさん。盗み見などはしたないですよ」
影が揺らめき、ゲッコーさんがぬっと姿を現した。
「まあ、なんですわ。これからも、よろしくお願いいたしますわね」
ゲッコーさんは何も言わず、ただその傷だらけの顔の口元をほんのわずかに、にぃっと歪めてみせた。そして、静かに頷き返すと再び影の中へと消えていった。




