第261話:『仮面の下の小さな寝息』
私の部屋を満たしていたのは、穏やかな陽光と微かな薬草の香りだけだった。昨夜の深い眠りは、心と体に巣食っていた鉛のような疲労を綺麗に洗い流してくれていた。
身支度を終え、約束の時間通りに作戦室へと向かう。扉の前で待っていたのはユリウス皇子たちだった。三人は私の姿を認めるとどこかぎこちない動きで、しかし真摯な眼差しで頭を下げた。
「リナ殿。昨夜はその……取り乱してしまい、すまなかった」
ユリウス皇子の言葉にレオン様もゼイド様もばつが悪そうに頷いている。
「いえ。私も少し疲れていたようですから」
私は小さく首を横に振った。
扉が開かれ、私たちは中へ入る。ランプの灯りが揺れる室内にはセラさんとヴォルフラムさんが既に待機していた。私はテーブルの中央に『囁きの小箱』を置くと不意に大きなあくびを噛み殺した。涙目になりながら私は皆に向き直る。
「さて、と……。グラン宰相からの連絡を待ちましょうか。……昨日はよく眠れましたか?」
そのあまりに普段通りの、気の抜けた少女の声。
部屋の空気がぴしりと凍りついた。
ユリウス皇子たちが信じられないものを見る目で私を凝視している。その視線は私の顔とテーブルの上の黒い小箱、そして私の背後に立つ二人の副官の間を、混乱したように何度も往復した。
だが私はその異様な沈黙に気づかない。
「まだ少し時間がありますし……。クララさーん! 皆様に何かお飲み物をいただけますかー?」
廊下まで響きそうな気の抜けた声。
その瞬間セラさんの肩がくすりと震えた。
「り、リナ様……」
彼女は必死に笑いをこらえながら私の耳元で囁く。
「そのようなことは私にお申し付けくだされば……」
その声に私はようやく部屋の異常な空気に気づいた。全員が唖然とした顔で私を見ている。そして自分の姿を思い出す。銀糸のウィッグ、蝶の仮面、豪奢なマント。私は今『天翼の軍師』だった。
私は仮面の下で顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
「あ……っ!」
慌てて背筋を伸ばし、咳払いをする。
そこへノックの音と共にクララさんが音もなく入室してきた。
「お呼びでございますか」
その完璧なタイミングに私はもはや狼狽を隠せない。
「あ、え、ええと……皆様にお飲み物を……」
クララさんは完璧な微笑みで一礼すると一度部屋を出て行った。そしてほんの数秒後。盆に乗せられた湯気の立つ紅茶やコーヒーが、それぞれの前に完璧な所作で置かれていく。あまりの手際の良さに皇子たちが息を呑んだ。
私はその場をごまかすように気取った仕草でカップを手に取り一口飲んだ。
だがその耳まで真っ赤に染まっている様子は皆にばればれだった。部屋の隅々から温かい、頑張る小さな子を見るような眼差しが注がれているのを私は感じないふりをした。
その和やかな空気を断ち切るように『囁きの小箱』が低い唸りを上げた。
◇◆◇
通信機の向こうのグラン宰相の声は徹夜明けとは思えぬほど明瞭で、確信に満ちていた。
『――間違いありません。これは『黒斑熱』の一種。ですが通常の菌株ではなく、天穹山脈の特殊な鉱脈の影響で変異した極めて毒性の高いものです』
彼女は古文書の山から一夜にして導き出した完璧な回答を淀みなく告げる。
『私が調べたのはかつて北の地に栄え、今は歴史の中に消えた『星詠みの民』の古い文献です。彼らは定住の民であり、同じ病に苦しんでいた記録がありました。……おそらく移動を続ける騎馬の民にはその知識が正しく伝承されなかったのでしょう』
そして彼女は希望の光を紡いだ。
『ですが幸いなことに治療法も記されていました。……その山脈にのみ自生するという『星影草』。その根を煎じて飲ませるか、あるいは患部に直接塗布すれば特効薬ともいえる効果が見込めると』
「……感謝いたします。グラン宰相。これで初戦は勝てます」
私は静かに礼を述べた。
通信が途絶え、部屋には再びランプの油が爆ぜる音だけが響く。
ユリウス、レオン、ゼイドの三人はまだ衝撃から覚めやらず、ただ黙り込んでいた。
彼らの目の前で一夜にして不治の病の正体と治療法が導き出されたのだ。剣でもなく、軍でもない。ただ知恵の力だけで。そのあまりに鮮やかな光景は彼らがこれまで信じてきた「力」の概念を根底から揺さぶるには十分すぎた。




