第262話:『雷鳴と慈雨、王子の葛藤』
通信が途絶え、部屋には再びランプの油が爆ぜる音だけが響く。
私は静かに立ち上がると、傍らに控えるセラとゲッコーに向き直った。
「セラさん、ゲッコーさん。今すぐこの『星影草』の手配をお願いできますか。場所は天穹山脈。時間との勝負です」
「はい、リナ様。承知いたしました」
セラが即座に応じ、地図を広げようとしたその瞬間。
すっと伸びたゲッコーの手が、彼女を静かに制した。
「……しばしお待ちを」
彼はそれだけ言うと、部屋の扉の近くに控えていた部下の一人に指先でいくつかの複雑なサインを送った。影は音もなく一礼すると、廊下へと姿を消した。
ゲッコーは私に向き直ると無表情のまま告げた。
「……この砦に、山脈の地理に精通した者がいたはず。そちらに確認させております。……しばし」
その無駄のない連携にユリウスたちが息を呑む。ゼイドは「すごい……」と感嘆の声を漏らし、レオンは探るような目でゲッコーの横顔を見つめていた。
私はそのやり取りを横目にセラに目配せを送った。
「セラさん。皆様の飲み物をお願いします。冷めてしまったでしょうから」
「かしこまりました」
セラが扉の近くに控えていた侍女に静かに指示を出すと、すぐにクララが現れ、音もなく全員のカップを温かいものへと交換していく。その手際の良さに、私は差し出された温かいミルクを一口飲み、ほっと息をついた。
数分が永遠のように感じられた後、扉が静かに開かれ、先程の『影』が戻ってきた。彼はゲッコーに耳打ちをすると再び扉の外の警備へと戻っていく。
ゲッコーは私に向き直ると確信を込めて告げた。
「……薬草師の中に『星影草』の自生地を知る者がおりました。半刻もあれば、ここに一抱えは用意できるようです。……行かせてもよろしいでしょうか」
そのあまりに神がかり的な手際の良さ。
セラは「……さすがですわね」と感嘆の声を漏らした。
私は満足げに頷く。
「お願いします。……では、この後の軍議に間に合えばそこに。間に合わなくとも結構です」
私はそこで一度言葉を切り、皆に向き直った。
「皆様、一旦解散といたします。後ほどシュタイナー中将を交え、改めて今後の進め方について打ち合わせましょう」
◇◆◇
北壁の砦に再び軍議の招集がかかった。
作戦室の重い扉が開き、陪席を許されたユリウスたちが足を踏み入れると、そこには既にシュタイナー中将と銀の仮面をつけた私の姿があった。ランプの灯りが揺れ、壁に広げられた地図の上に二人の影を長く落としている。
「――中将閣下。北方諸族との関係改善、その第一歩として彼らとの限定的な交易を許可いただきたくここに具申いたします」
私の静かな、しかし有無を言わせぬ響きを帯びた声が張り詰めた空気を震わせた。
「彼らに不足している鉄製品と塩を供給する代わりに、我らは良質な馬と毛皮を得る。それはこの北壁の砦の維持にとっても決して悪い話ではないはずです」
「……ふん。面白い手だ。だが、そのような重要案件、俺の一存では決められん」
シュタイナーは腕を組み、地を這うような声で唸った。「帝都へ陛下の御裁可を仰ぐ必要がある」
「承知しております。そのための通信を今ここで」
私はテーブルの中央に置かれた『囁きの小箱』を指先で静かに示した。
◇◆◇
数分後、小箱から皇帝ゼノン本人の声が響き渡った。それは大陸の覇者としての鋼のような重みを宿した声。私以外の全員が緊張に背筋を伸ばすのが気配で分かった。
『――リナか、聞いておるぞ。首尾は上々のようだな。そなたの働き実に見事であったぞ』
その心からの賞賛に、ユリウスの背筋がわずかに伸び、その口元に微かな誇らしげな笑みが浮かんだ。
だが、次の瞬間。
その温かい空気は雷鳴によって粉々に砕け散った。
『――だが、そなたはまたしても! 危険な場所に自ら先陣を切って飛び込んでおるな!』
小箱がビリビリと震えるほどの凄まじい怒声。それは皇帝としてのものではない。ただ娘同然の少女の無謀を案じ、その身を心の底から心配する一人の父親の叫びだった。部屋の空気が凍りつき、シュタイナー中将でさえも息を呑んでいる。
私の小さな肩がびくりと震えた。仮面の下で私がぎゅっと身を縮める。
「……も、申し訳……ございません……」
か細い謝罪の声が部屋に虚しく響いた。その姿にユリウスの眉が苦しげに寄せられた。
しかし、私はすぐに顔を上げた。
声はもう震えていない。軍師としての冷徹な響きに戻っていた。
「ですが陛下。あの場には私が行かねばなりませんでした」
私は堂々と反論を始めたのだ。
「捕虜たちの警戒心を解き、彼らの言語で直接対話し、信頼の第一歩を築く。それは他の誰にもできぬ私だけの役割でした。……そしてその場で得た情報を元に、今この瞬間に次の手を打つことこそが勝利を手繰り寄せる最善手であると私は判断いたしました」
その揺るぎない言葉に、今度は皇帝が言葉に詰まる番だった。
通信機の向こうで唸るような沈黙が続く。
やがて全てを諦めたような深いため息が聞こえてきた。
『…………はぁ……。分かった、分かった。……お前の言う通りだ。……だがくれぐれも無茶だけはするな。良いな』
「御意に」
『……それで交易の件だったな。……シュタイナーの判断に任せる。そなたが良いと思うように進めよ』
通信が切れ、部屋に静寂が戻る。
あまりにあっさりと承認が下り、シュタイナー中将でさえ驚きに目を見張っている。
ユリウスはただ呆然と目の前の光景を反芻していた。
父とリナ。そのやり取りは、自分が知らない二人だけの世界のようだった。彼はテーブルの下で固く、固く拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みだけが彼をその場に繋ぎ止めていた。




