餌付け
これまでは奚斉が彼女の許に出向くのが主流だったが、第一公子としての外聞もあり、頻繁な渡りを窘められた奚斉に乞われる形で、この日は彼女の方が彼の宮殿を訪れていた。
彼女の到着と同時に早々に人払いのされた房室には、今、彼女と奚斉の二人しかいない。
常時影の如く彼女に付き従う護衛武官の白起ですら、他ならぬ主君の子息の住まう御座所ということで、室内の様子を窺い知ることのできない離れた入口の外に立っている。
いつもと違う状況に、しかし彼女は微塵も違和感を覚えず、それどころか、整然と設けられた席の上に饗された取り取りの精緻な飾り菓子を咀嚼することに忙しい。
今、彼女が一心不乱にモリモリと口に運んでいるそれは、奚斉の母である驪姫が、信頼するつき合いの長い自身の侍女に命じて特別に用意させたものだ。
「……」
奚斉は無言のまま、うっとりと熱に浮かされたような光を宿す紺色の双眸で、只管傍らの彼女を見つめていた。
しかし、冬に向けて餌を溜め込まんとする栗鼠の如く無心に菓子を頬張る彼女は、その視線に終始気付かない。
皿の上の菓子が半分程になったところで、彼女は漸く奚斉の方を見た。
「ケーセーも、食べる?」
ことりと頸を傾げる姿は、平凡な容姿でありながら、凶悪なまでに愛らしい。
それが計算などでないことは、邪気のない丸いまなこを見れば一目瞭然だ。
愛しい彼女の黒眸に映し出された奚斉は薄らと頬を染め、それでも彼女から視線を外さない。
寧ろ一層熱を帯びた眼差しで彼女を見つめる。
「けーせぇ?」
「――ついて、いる、ぞ」
ついっと指を伸ばし、口の端についた菓子屑を取ってやる。
「む、ぅ」
喉を擽られた猫のように眼を細め、反射的に尖らせる彼女の唇に、指先が触れた。
彼女の存在そのものの如く、ふにゃりと柔らかく温かな感触に、あっという間に思考を支配される。
「…っ」
その瞬間に生まれる、これまで経験したことのない初めての衝動。
もっと触れたい。この柔らかさに、温かさに。
より深く、互いの体温を感じられるくらい近くで。
「幽、姫」
小刻みに震える指を彼女の唇に当てたまま、奚斉はきしりと音を立てて身を乗り出し、吸い寄せられるように顔を近づける。
それはどこからどう見ても、恋情に突き動かされた少年が想い人に迫るという構図そのもので、罷り間違っても、叔父の寵妃と対峙するに相応しい距離ではなかった。
だが、奚斉の行動を諌める者は、今この場には誰もいない。
食べかけの菓子を片手に警戒心の欠片もなく瞬く彼女は、切なげに顔を歪めて接近してくる奚斉を止めることは愚か、肩に掛けられた手を拒みさえしない。
その理由は偏に、己に向けられた奚斉の感情と彼の行動の意図を全く理解していないがため、という一言に尽きる。
彼女の頬にかかる横髪が自身の吐息で揺れる程近づき、奚斉は瞼を閉じた。
直前に映ったのは、未だに何をされるのか判っていない彼女の不思議そうな顔。
「…き、だ…」
最後に込み上げる想いを零し、唇を重ねようとした将にその時。
「うりゃ」
「!?」
捻じ込むような強さで、ぐいっと口に何か押しつけられた。
これは断じて、今し方味わおうとしていた彼女の唇ではない。
けれども、ほんのりと甘い。
「おいしい?」
声に反応して瞼を押し上げれば、にこにこと頬を緩めて答えを待つ彼女の笑顔があった。
奚斉は一瞬で全てを理解した。
――これは彼女の食べかけの菓子だ。
盛大に肩透かしを喰らった気分で憮然と落胆するも、期待にきらきらと眼を輝かせる彼女を前にして、何も反応を返さない訳にはいかない。
にじり寄った態勢を維持したまま、じっと彼女の眼を見つめ、カリッと歯をたてて咀嚼する。
仮にも王室に献上された菓子だ。舌の肥えた奚斉にとっても、味は申し分ない。
…ただ、奚斉が食べたかったのはこんなものではないのだ。
それでも努めて笑みを作り、彼女の望む返答を口にのぼらせる。
「…あ、ぁ。なかなか、美味い」
「えへへ、よかった。半分食べたから、残り全部、ケーセーの。はい、どーぞ」
微塵も笑顔を崩さず、彼女は菓子の乗った皿を奚斉に差し出した。
彼女に悪気がないのはよく判っている。
わざと純な少年の恋心を弄んで愉しむような、性根の腐った人間でないことも、重々承知している。
だが、振り回されている身としては少しばかり――いや、かなり面白くない。
むっと眉根を寄せて黙り込んだ後、奚斉は少し意地悪げに薄紺の眼を光らせた。
徐に皿の上の菓子を指差し、同時に彼女に向かって「あ」と口を開ける。
「? なに? ケーセー」
「おまぇ、が、食べさせて、くれ」
「へ?」
彼女はパチパチと瞬きを繰り返し、ややあってプッと吹き出す。
「ケーセー、赤ん坊みたい」
「…いいから、早く、しろ」
「はいはい」
クスクスと愉しげな笑い声を零しながら、ひとつずつ菓子を抓んで奚斉の口に運ぶ。
皿が空になる頃、彼女の右手の指はすっかり菓子屑だらけになっていた。
「あー、お菓子まみれだ」
そうぼやいて、口に含んで舐め取ろうと、自然と右手を顔に持ってくる。
が、正面から伸びてきた手がそれを掴み、そのまま引き寄せられた。
行き着いた先は、薄く開いた奚斉の唇だった。
「ケーセー、何…」
ぺろり。
何の前触れもなく、いきなり指先に触れた生温かくザラリとした感触に、彼女はぞわりと震え上がった。
咄嗟に手を引っ込めようとするも、拘束は解けない。
「! な、な…」
羞恥に頬を赤らめ、あわあわと慌てふためく彼女の姿に密かに溜飲を下げた奚斉は、仕上げとばかりに舌先で軽く吸いつき、チュッと音を立てて漸く唇を離した。
上目遣いで覗き込むように見上げつつ、見せつけるようにチロと舌を見せて唇を舐める。
「甘い、な」
「……!!」
今にも泣き出しそうな程紅潮した彼女は、ぱくぱくと意味もなく口を開閉するばかり。
ああ、やはり可愛らしい。いっそひと思いに食べてしまいたい。
幼さの内に秘められていた雄の本能に徐々に目覚めながら、奚斉は自身よりひと回り程大きい、しかし小柄な彼女の躰を、腕いっぱいに抱き締めた。
胸に渦巻くこの激情に早く気付いて、慣れて欲しい。
これはその為の、巧妙な餌付け。