エピローグ
聖日祭から3日が経ち、祝いの日に沸いた大陸はすっかり普段の姿を取り戻していた。
あの日を境に、徐々に昼は勢力を伸ばし、夜を1日の片隅に追いやっていく。
夏が近づいてくる。
真昼にほど近い午前の日差しを受け、フィオナは額に浮いた汗をぬぐった。
カコン、と小気味よい音が森に響く。
かがんでいた腰を伸ばし振り返ると、ヴァンが斧を手に薪を割っていた。
カミュのパーソナルスペースと言ってもいい台所の隣には、食料を備蓄する倉庫が繋がっている。燃料になる薪なども、ここに保管されている。
倉庫の前で作業を続けるヴァンを、フィオナは手伝っていた。
「確かにお前に手伝ってもらえば効率はいいが……」
視線に気付き、手を止めたヴァンが、積み上げられた薪を縄でまとめるフィオナの顔を伺う。
「あまり無理はするなよ」
「大丈夫です。これくらい」
フィオナは今のところ、決まった家事分担というのはないため、日頃手の必要な所を手伝っていたのだが、ヴァンの担当に関しては力仕事が大半になるため、今まで手伝わせてもらう機会がなかった。
そのあたりも甘やかされてきた自覚があるので、徐々に体力仕事も経験していきたいというフィオナの強い要望で、今回こうやって薪作りに勤しんでいる。
が、家の中にいた住人が代わる代わる様子を見に来たり、結局手を貸そうと手伝いだしたりと、過保護な感は否めない。
もちろん出来ることと出来ないことはあるのだが、出来ることを増やしていきたいフィオナにとって、「経験する」というのはまず大事なことだと感じていた。
今日は、動きやすいようにリッドのおさがりの服を着ている。日差し対策と邪魔な髪をまとめるため、鍔つきの帽子をかぶった格好で、うんと伸びをする。
すると、それを眺めていたヴァンが、ふっと口角を上げた。
「そうして見ると、少年のようだな」
「少年だったら、もっとヴァンのお役に立てたんですけど」
帽子をとって額の汗を拭い、素直な感想を述べると、ヴァンが意外そうな顔をした。
「お前は女でいい」
少し間が空いてから返ってきた台詞は独り言のようにも聞こえ、ヴァンはすぐに作業に戻ってしまう。
つられて自分の作業に戻るフィオナ。持ち運びしやすいよう薪を縄で結っているのだが、フィオナには重くて短い距離しか持てない。
自分が男なら人に頼らず倉庫まで運び込めるのに、などとも思うが、ヴァンに女性でいいと言われたばかりなので、あまり考えないでおく。
「ヴァン、お姫様。お昼だから戻っといで」
キッチンから通じる裏口から顔を出し、赤髪の少年がウインクする。
彼の笑顔を見ると、急速にお腹が減った。おかしな条件反射がついたものだと自分で笑ってしまう。
「もうそんな時間か。フィオナ、午後はもういい。片付けて食事にしよう」
「はい。じゃあ片付けちゃいますね」
2人で木材や道具を整理し、手を洗って表玄関の方に回る。
庭を横切る途中、ラウの花壇に目を細めていると、ヴァンの声が頭上から降ってきた。
「ずっと考えていたんだが――」
「はい」
並んで歩く長身の青年を見上げる。前を向いていた彼の視線が下がり、目が合った。
ヴァンが立ち止まったので、フィオナも自然と足をとめる。
「俺は、お前に謝らなければならないことがある」
「私に、ですか?」
何だろう……フィオナは首をひねった。謝ることはあっても、彼に謝られるようなことをされた覚えはない。
「レナードのことだ。俺はあいつに負けた」
真正面からフィオナを見据える眼差しは、潔い。
このことについて、フィオナは、彼よりも先に兄のウィルに謝られていた。
「ヴァンが負けたのは俺のせい」と言った彼の心境は、なんとなく理解できた。
12歳の時、ヴァンは1度もレナードに負けたことがなかったのだという。
それからの時間を、レナードはヴァンを目標に己を磨き続けたのだろうし、ヴァンは、3年間を人と関わることもなく、奥深い森の中で兄を守るために暮らしていた。
その差が決闘の結果に出たのだとすれば、ウィルが責任を感じる部分も、少なからずあるのだろう。
いつかと同じ、後悔を殺すような瞳で微笑んだ麗人と同じ色の眼が、真摯な想いを伝えてくる。
「すまない。俺はお前を守れなかった――いや、それ以前に、お前の意思を聞く前に、お前を賭けた勝負事などを受けてしまった」
「そんな……」
あの場で、フィオナの意見を聞く余地などなかったはずだ。
ヴァンとの勝負しか目に入っていない状態のレナードに対し、フィオナが訴えを起こせるとも思っていなかっただろう。
彼は、彼なりのやり方で、フィオナを守ろうとしてくれたのだと分かっている。
「……嬉しかったです」
どう言葉を尽くせば彼に理解してもらえるのか、考えた結果、フィオナは正直な思いを口にした。
「私が、ここに居てもいいと思ってくれて――」
「居ていいんじゃない。居て欲しいんだ」
すぐさまフィオナの言葉を訂正したヴァンに、ぽかんとして顔を見上げる。
「え?」
「いや――」
少し慌てたように、ヴァンが口を押さえ、珍しく視線を泳がせて言葉を探す。
「――お前は仲間だ。お前がここにいたいと願うなら、俺もそれを望む。それだけだ」
「そうですよね……ありがとうございます」
実に彼らしい言葉で補足され、納得する。少しだけ残念な気もしたが、何が残念だったのか、自分でもよく分からなかった。
頷いたフィオナに、ヴァンは少し難しい顔をしたが、それ以上は何も言わず再び歩き出す。
そうしているうちに、家の正面に辿り着く。先に斜路を上って、ドアノブに伸ばしたフィオナの手に、ヴァンの右手が重ねられた。
「ヴァン……?」
「下がっていろ」
振り返って見上げたヴァンの表情は、いつも以上に厳しい。短く命じられ、ほとんど反射的にフィオナが後ろに下がると、彼は勢いよく戸を押し開いた。
そして瞬時に剣を抜き、何もない虚空をひとなぎする。ピン、と空気を震わせるように、糸が切れる微かな音が聞こえたかと思うと、空を切る音を立て、目の前を右から左に何かが飛来した。
続いて、破裂音と水音。
標的を失った水風船が3つ、壁に激突して割れたのだ。
階段前の壁と床に飛び散った水飛沫に唖然とするフィオナを尻目に、一歩踏み込んだヴァンが、剣を握る腕を真上に振り上げた。
頭上で強烈な破壊音が聞こえ、フィオナは思わず目と耳を塞いだ。一拍置いて、恐る恐る音の正体を確認すると――
吹き抜けの屋根の高い部分から落ちてきた大きなタライが、ヴァンの振り上げた剣によって串刺しにされていた。
「うわぁお、迫力~」
隠れて様子を見ていたらしいカミュが、キッチンのカウンターからひょっこり顔を出す。
「こえー……なんでバレたんだ?」
「結構イケるかと思ったんですがねェ、時間差攻撃」
階段の裏から、リッドとユーリが姿を見せる。
「……気配で分かる」
「だからやめとけって言ったのに」
長ソファに座って見物していたジークとラウは、残念がる仕掛け人たちに呆れているようだった。
「カミュ、リッド、ユーリ」
ガラン、とタライを足元に振り落とし、眉間に深い皺を刻んだヴァンが順に名を挙げる。
「悪ふざけが過ぎる――が、あえて俺への挑戦と受け取ってやろう。全員、川まで水汲み30往復だ」
「さんじゅう!? ちょっと多くね……」
「この間の水遊びで貯水が尽きたからな」
カミュの抗議を一蹴する。確かに、30往復は元気な彼らでもなかなかにきついペナルティだ。
そこで、焦ったリッドがいらないフォローを入れた。
「あんなのにヴァンがひっかかるわけねーじゃん? 反射神経を試したんだよ。ホラ、ヴァン、趣味『鍛錬』だし……」
「50往復だ」
増えた。
「バカ! 余計なこと言うなッ」
「だってカミュが言い出したんじゃねーかよっ」
「敗者に叩く口はない。さっさと行け」
腕を組み、容赦なく促すヴァンが、その時、部屋に響いた涼やかな笑い声に振り返った。
「さっすがヴァン」
奥の廊下から、真打ちのようにウィルが現れる。その表情から全てを悟ったらしく、ヴァンが呆れたように毒づいた。
「阿呆が……」
遅れてフィオナも気付く。
あの糸を弾く複雑な仕掛けは、ウィルが以前にも見せたものだ。
「レナードに負けるくらいになまってるみたいだからね。いい訓練にはなるだろう?」
リッドと同じことを言うのは、フォローのつもりなのか、それとも本心か。いたずらっぽく微笑む彼の表情からはうかがい知ることは出来ないが、いずれにしろヴァンに対して、最も有効な後ろ盾を得たリッドが、さっと車椅子の後ろに隠れた。
「ウィル……」
こめかみを引きつらせ、ヴァンの口がへの字に曲がる。
「お前はリッドに甘すぎる!」
「ヴァンは俺に甘すぎるよ」
「そうそう、えこひいきはんたーい!」
ウィルの背中から、右拳だけが伸びて主張する。
「……ウィル、お前も水を汲みに行きたいのか?」
「なに、やらせてくれるの? 嬉しいな」
「……ダメだ」
「えー」
ウィルが、心底残念そうに口を尖らせる。その様子に、ヴァンがしかめ面で口を閉ざした。
完敗だ。はたから見てる誰もがそう思った。
「リッド、カミュ、ユーリ、ラウ!」
「俺もっ?」
不機嫌に列挙された名に加えられたラウが声を上げる。
「管理不行き届きだ」
「それって奴当たり……」
ひそひそとユーリに耳打ちするカミュに、鋭い眼光が向けられる。
そんな彼らのやり取りに、フィオナは自然に微笑んでしまう。
見ると、ウィルも同じように笑っていた。
ヴァンとアルファザードの王子が決闘をしたあの日から、フィオナ達の生活が大きく変わることはなかった。
だがその反面、少しずつ変わってきたこともある。
例えばフィオナは、以前より自分の意見を言えるようになったし、前ほど周りから『お客さん』扱いされなくなった――と、思う。
ウィルは、以前より少し、ヴァンに反抗したりからかったりすることが多くなった。
そんな時、彼はとても楽しそうだ。
「君がいるからね」
そんなことを考えていることを、じっと見つめていた表情から気付かれたらしい。フィオナを見返した彼の紫水晶の瞳が、いたずらっぽく微笑む。
「君がヴァンのフォローに回ってくれるから、こうやって俺が遊べるんだよ」
ふふっ、と彼は楽しそうに笑った。
「これからも弟のことをよろしく頼むよ」
その『お願い』が、フィオナの胸にストンと飛び込んでくる。心地よく収まったその言葉にフィオナは顔を輝かせた。
「はいっ! 任せて下さい!」
やっと自分の『役割』が出来た気がした。
勢いよくフィオナが返事をすると、隣にいたヴァンがぎょっと目を見開いた。
「おやおや……」
ユーリが、含みのある表情で2人を眺める。
「ははっ、君は本当に頼もしいな」
そう言って笑ったウィルの目が、少し、懐かしそうに細められる。
(なんだろう……?)
その眼差しに、ふいに、じんわりと胸の奥が熱くなる。
どこか懐かしくて、やさしくて――泣きたくなるほど、胸が苦しい。
その感覚が何なのか、思い当たる前に、するりと肩に腕が回り、音もなく近づいてきたユーリに引き寄せられた。
「ユーリ……!?」
バランスを崩し、ユーリの胸に背中から倒れ込んだフィオナが、驚いて声を上げる。
「……何のつもりだ? ユーリ」
「なァに、ただよヤキモチですヨ」
脈絡のないその行動に、ヴァンが不快そうに睨みつける。その視線を綽々と受け止め、ユーリは読めない笑みを返した。
「最近、ずいぶんと仲がよろしいようで」
「…………」
露骨なユーリのからかいに、すぐに馬鹿とか阿呆とかの声が飛んでくるかと思ったが、ヴァンは何も言い返さなかった。
否定も肯定もしない男に肩をすくめ、代わりに、腕の中のフィオナに囁きかける。
「こんな堅物のドコがイイんですかねェ……お姫サマ?」
「…………ッ」
耳元で息を吹き込むようなかすれた声に、耳まで真っ赤になったフィオナは、誰かに腕をつかまれ、ユーリから引きはがされた。
「お前は、ナニからナニまでフェロモン垂れ流しすぎなんだよ! ホラ、フィオナが困ってるだろうが、離れろ! それ以上セクハラすっとぶっ飛ばすぞ」
「おやァ? ヤキモチ? カミュ」
「そうですがなにかぁ?」
「正直で結構」
フィオナを挟んで言い合う2人の間で、火照った頬を両手で冷やす。
「あ、お姫様。今日午後空いてる?」
ユーリを虫のように追いやり、カミュが聞いてくる。
ヴァンは午前中で今日の作業を終わらせてしまったので、午後は特に予定はない。
「一緒にお菓子作らない? クレープ、この前食べたいって言ってたろ?」
「やる!」
魅力的なお誘いに即答する。すると、ウィルが続けて提案した。
「じゃあ、そのお茶の時間が終わったら、洗濯物取り込むの手伝ってもらおうかな」
「はいっ」
喜んで返事をすると、ウィルの車椅子の後ろから、ひょこんと顔を出したリッドがかぶせてきた。
「フィオナ! 夜一緒にカードやろうぜ。オレが勝ち方教えてやるよ」
「お前、いっつも行き当たりばったりじゃないか」
「うっせーなラウ。あんなもん運なんだよ運!」
「カードは戦術だヨ」
「ユーリはイカサマ!」
「失礼な。わざわざリッド相手にイカサマする理由が思い当たらないねェ。ジーク、キミもたまには参加したら?」
「……俺はいい」
肩に置かれたユーリの腕を退け、ジークがそっけなく断る。
「ジークは強すぎんだろ。勝負になんねーよ」
「残念。お子サマよりは歯応えがあるんだけどねェ」
「お子様お子様言うな!」
掴みかかろうとするリッドを、身長差を利用してあっさりと抑えるユーリ。
――と、その傍らに立つ双子の兄を見て、ウィルが思い出したように言った。
「ああ、今日は満月か」
唐突なその台詞に、騒ぐのをやめ、全員が注視する。
「聖日祭から数えて、最初の満月――だったよね?」
「あァ」
ウィルの言わんとしたことを悟ったらしく、ユーリが頷く。
そういえば、ユーリの故郷にあるという『ウィルの花』は――聖日祭の次の満月に満開になるのだと、リッドが言っていたような気がする。
「君たちの国では、今夜はお花見かい?」
「大宴会ですね」
ウィルの問いにユーリが答え、横でジークが頷く。
「じゃあ今日は、2階のバルコニーで、皆でお月見でもしようか」
ウィルの提案に、リッドが歓声を上げた。料理担当のカミュも賛同する。
「お月見パーティ? いいね。それじゃあ、買い足したいものあるから、誰か買い出し行ってきてくんない?」
「俺が行こう」
ヴァンがいち早く名乗り出た。そしてリッド達を一瞥し、厳格に告げる。
「お前たちにはやることがあるだろう」
「うわぉ……」
カミュが苦い声で呻く。勿論、ヴァンが忘れてくれているわけがない。
「ジーク、50往復だ。不正がないよう監視を任せる」
「……了解した」
「うげーっ。マジかよーっ」
厳正な監視員がつけられ、リッドが悲鳴を上げる。
「早く行け。日が暮れるぞ」
厳しい叱責に追い出され、ぞろぞろと家を出るペナルティ組。
最後にジークが後に続き、扉が閉じられる。
「俺も出よう。ウィル、必要な物をまとめてくれ」
彼らを見送った後、ウィルと打ち合わせをして出て行こうとするヴァンを、フィオナが引き留めた。
「ヴァン、私も行きます」
「…………」
「ダメですか?」
名乗りを上げたフィオナを黙って見つめるヴァンに、臆せず許可を求める。
「いいや」
短く答え、首を振ったヴァンは、家に1人残るウィルに視線をやった。
「俺は大丈夫だよ。みんなも近くにいるしね」
「そうだな」
意外にあっさりと頷き、ヴァンはフィオナを見下ろした。
「では行くか」
「はい!」
承諾が得られ、思った以上に浮かれた声で返事をしてしまった。
慌てて口を手で覆い、上目遣いで相手を伺うと、ヴァンが視線を和げ、口元を綻ばせた。
滅多に見られない穏やかな表情に、一瞬見入ってしまう。
だが、すぐにいつも通りの精悍な顔つきに戻り、ヴァンは玄関の戸を開けた。
一歩外に出た瞬間、まばゆい光が差し込み、フィオナは眩しさに太陽を手で遮った。
「いい天気だね。今夜は月が綺麗だろうな」
庭まで見送りに出てくれたウィルの声が弾む。
「お月見、楽しみですね」
雲一つない青空を見上げ、今宵の賑やかなパーティを想像して、フィオナの心も弾んだ。
この森に咲く『ウィルの花』はもう散ってしまったけれど、きっとユーリとジークの故郷では、あの優麗な華が美しく咲き誇っているのだろう。
花が散ってしまっても、思い出は散らない。
また、次の春も、その次の春も――聖日祭の次の満月の夜、きっと今夜のことを思い出すのだろうと、フィオナは確信していた。
未来は、真実を映す鏡ですら見えないらしいが、それだけは間違いない。
「ああ」
同じく空を見上げ、短く答えたヴァンの横顔には、やはり微笑みが浮かんでいて、フィオナはその表情を目に焼き付けるように、こっそり横目で見つめていた。
ヴァンが指笛を鳴らす。甲高い音が風に流れ、木々をすり抜けて森に響いた。
間を置かず、森の奥から、美しい漆黒の馬が飛び出してくる。日に照り映えた肢体はビロードのように艶やかで、女の黒髪のようになめらかな尻尾が、躍動的な律動に合わせて滑るように翻る。
主の目の前で恭しく止まったクンツァイトの首を撫で、ヴァンがウィルを振り返る。
「――行ってくる」
「いってきます!」
そう声をかけると、ウィルがいつもの笑顔で送り出してくれる。
「いってらしゃい」
「ただいま」と帰ってくることができる。
そんな場所があることが、こんなにも幸せだと感じる。
そして今日も――
迷いの森には、1人の王女と7人の王子様が住んでいる。
第一部完
拍手御礼:第一部完結記念イラスト




