4. 勘当状は、こちらで書いておきました
昨夜、私は財務卿の書付に、自分の名を書いていただいた。
「受取人は、わたくしの名に。明日の七時には、もう公爵家の娘ではございませんから」
その七時まで、あと五分。母の時計の針を確かめ、蓋を閉じる。朝食の鐘より先に、父の書斎の扉へ手をかけた。
父は破棄を聞くなり帰邸し、それから書斎へ籠もりきりだ。廊下には朝の冷えが残り、扉の向こうだけがひっそりしている。
誰も通すな、と言ったきりだ。賭けのことも、証書に足した一行も、ここにはまだ届いていない。
私は一晩かけて、勘当状を三通書いた。父が書き足せるよう、余白まで残してある。
前の朝は、朝食の席で、使用人の前で勘当を言われた。門を出たとき、持っていたのは着ている物だけだ。何も掴めずに握り込んだ指の感触は、今も掌に残っている。
書斎の扉を開いた。蝶番の音が、廊下の静けさを薄く裂く。
インクと蝋の匂いが、冷えた鼻先にまとわりつく。机の上には、書きかけの紙が一枚ある。
父は机で印章を握っている。角張った顎がこちらを向いても、椅子からは動かない。私を座らせる言葉もない。
窓硝子に映る白金の縦巻きを、私は指で整えた。
ワインの染みは、まだ髪の先に残っている。指で撫でても、そこだけは引っかかる。紙は汚れないよう、鞄に入れてある。
「勘当状は、こちらで書いておきました」
父の目が、鞄から取り出した紙へ落ちる。差し出す私の指は見ず、紙の端を値踏みするように見ている。
「先に書けば許されるとでも思ったか。泣いて詫びても遅いぞ」
私は三通を、父の机に並べた。紙の端だけは、きちんと揃える。
「誰に物を言っておるか、分かっておるのか?」
「存じております。お父さまは朝食の席で、皆の前で仰るおつもりでしたもの」
父は印章を机に置いた。硬い音が机に響き、父の目が私の顔から紙へ移る。
「そこまで分かっておるなら、なぜ呼ばれるまで待たん!」
「鐘まで五分ですわ。お父さまのお食事を書き物のせいで冷ましては、申し訳ありませんもの」
父は勘当状の最初の紙を引き寄せた。紙の角が机を擦る音だけが、妙にはっきり聞こえる。
「よく書けておる。『二度と敷居を跨がせぬ』とは、ようやく己のしたことが分かったようだな」
「王太子妃になるために、書面は十年、習いました。お読みいただけて何よりですわ」
父のペンが余白を指す。私の書いた文に、もっと厳しい言葉を足すところだ。習ったとおりに空けた余白が、きちんと役に立つ。
「ここは『不届き』では弱い。『家名を汚した』と書け」
「まあ。お父さまのお書きになりかけの紙と、まったく同じお言葉ですわね」
父は自分の書きかけを、肘で脇へ押しやった。紙が重なり、私にも読めていた文が隠れる。
「持ち出す物も書け。公爵家の物を、一つたりとも運ばせぬ、と」
「母の時計だけは、わたくしの物ですわ。ほかは家令に、この鞄の中を見ていただけます」
家令が扉の前から進み出た。
小さな鞄に入れてきたのは三通の紙と、時計を包む布だけだ。家令は底まで見て、父へ頷く。
「三行目に一句、足してもよろしくて?」
「負うものまで、私に残す気か?」
私はペンで、空けておいた行を示した。父のペン先がそこへ寄っても、私の手は退かない。
「公爵家は、ルツィエの負うもの・得るものの一切に関わらない。この一句ですわ」
「『得るものの一切に関わらぬ』か。欲のないことだ、足しておけ」
家令が机の脇に立った。父は私の足した一句の下へ、さらに線を引く。
七時の鐘の直前、父が印を捺した。
朱が乾かないうちに、朝食の鐘が鳴る。窓硝子がかすかに震え、父は三通を揃えてこちらへ押し返す。
「これで済んだ。二度と、家の名を使うな」
「母の形見の時計だけ、持って出ますわ」
私は紙を受け取った。朱に触れないよう、紙の端を持つ。
朱の匂いが、朝の冷えた空気に混じる。十八年いた家は、紙三枚の重さになった。指の間に収まる軽さなのに、すぐには鞄へしまえない。
家令の目が、紙の朱と、私の鞄を行き来した。朝食を告げる足音に、別の足音が重なる。
七時五分、家令が王家の使いを通した。
殿下の侍従だ。手には、証書の写しと財務卿の書付がある。
「昨夜の婚約破棄につきまして、証書の写しをお届けに上がりました」
父は椅子に座り直す。侍従の手には封を開いた書付がある。
「償い金は金貨三千枚。受取人は、ルツィエ嬢ご本人にございます」
父の指が、印章の上で止まった。鐘の余韻は、もうどこにもない。
「償い金だと? 咎があって破棄された娘に、何を払うというのだ!」
「証書には『咎によらない』と、殿下がご署名なさっております」
侍従が写しを机に置いた。父は文字より先に、侍従の顔を見る。
「つきましては公爵閣下、この償い金は、王家と公爵家の間で……」
「それは公爵家の金だ! 娘の物は、家の物だろうが!」
私は朱の乾かない勘当状を持ち上げた。窓から差す光が、父の印を照らす。
家に属する娘の金は家長へ入る。目の前の印が、その娘を家から切っている。父がわざわざ引いた線まで、はっきり見える。
「五分、遅うございましたわね、お父さま」
父の親指が、捺したばかりの印をこする。朱が指へ移っても、私の持つ紙の印は消えない。
「渡せ! その紙を、ここへ戻せ!」
私は三通をずらし、家令にも見えるように広げた。紙の端が擦れ合い、さらりと鳴る。
「写しは三通ございます。一通は家令に、一通は財務卿へ。残る一通は、わたくしが持ちますわ」
「今のは無しだ! 戻してやる、戻してやるから!」
父の指には朱がついている。家令は差し出された一通を受け取り、父の手の届かない胸元へ収めた。紙の端が見えなくなるまで、私はその手を見ている。
「家令! それを返せ、主人は私だぞ!」
「印は、閣下ご自身がお捺しになりました」
「では、殿下は本当に三千枚を……」
侍従は書付を私へ差し出した。財務卿の署名も数字も、昨夜確かめたとおりだ。
「はい。受取人は、ここに記された者ですわ。今朝はもう、公爵家との間でお話しになることはありません」
王家と公爵家の間で、という話だけが机の上に残る。侍従の手には、持ち帰れる返事がない。
前の一年、父は審問で娘に不利なことを言った。今もその声を思い出すと、言葉より先に喉が狭くなる。
今朝の印は、その口より先だ。私は財務卿に渡す一通を鞄へ入れた。鞄が閉じる音を、自分で聞き届ける。
◇
七時十分を過ぎて、門を出た。頬に当たる風が、書斎にこもった蝋の匂いをさらっていく。
前の朝は、ここで足が動かなかった。今朝は、鉄の門が朝日で白いのを見る余裕まである。靴底の下で、石畳の感触が確かだ。
持っているのは小さな鞄と、母の時計だけだ。蓋を開いて、時計の針をまた確かめる。門番が振り返る先で、小さな馬車が止まった。
乳母の制止より早く、王女が飛び降りる。
「姫さま! お寝間着の上に、外套だけで!」
薄紅の二つ結びが跳ねる。私は時計を閉じ、こちらへ駆けてくる王女を迎えた。
「先生、たいへん! 眉に傷のある近衛が、明日の朝、北へ飛ばされるんですって!」




