3. 雨を呼んだ罪
星は、前庭へ出ても消えなかった。見上げる私へ、澄んだ光が冷たく降ってくる。
白薔薇の植え込みの前に、夜会の客が集まっている。夜風に衣擦れと低い笑い声が混じる。締めくくりは、聖女の祝福だ。
薄紅の二つ結びの上で、門番の大きな傘がばさりと開いた。
「門番のおじいさんは、膝が痛むと雨が降るって言ったのよ!」
王女は一人で柄を握っている。傘の端が、背丈の倍ほども向こうにある。握り直すたびに、傘がゆらゆら揺れる。
「ロッティ、閉じろ。星が出てるのが見えぬのか?!」
「見えるわよ? 占い師だって、見てるもの! くふふふ……」
殿下は蜂蜜色の前髪をかき上げた。傘を見上げ、今度は私へ視線を寄こす。
「三つ目が外れたら修道院だ。悔いても遅いぞ、ルツィエ?」
「存じております。修道院の朝は、五時に鐘が鳴りますの」
私は王女の隣で足を止めた。前の一年、朝を数えた鐘は、今度はまだ遠い。けれど、耳の奥にはあの響きが残っている。懐中時計のある胸元へ、指が伸びかける。
「修道院って、お菓子は出るの?」
「ロッティ! 菓子の話などしているのではない!」
王女が傘を持ち上げ、私の顔をのぞき込んだ。
「出ないのなら、行っちゃだめよ! 占い師、三つ目も当てて!」
「王女殿下。もう少し、こちらへお傘を寄せていただけますか?」
王女はすぐに傘を傾け、私をその隅に入れる。私は白金の縦巻きの先を手で押さえ、懐中時計を取り出した。すぐ隣で、傘の柄がきしむ。そこへ入っただけなのに、息が少し深くなる。
白薔薇の匂いが、夜露と一緒に足元から上がってくる。甘さの奥に、湿った土の冷たさがある。
十一時の鐘が鳴った。余韻が前庭を渡り、客の話し声を薄くする。
マヌエラが白薔薇の前で祈った。亜麻色の長い髪が、差し出した両手の間へ落ちる。
聖女が触れた花は、青白く光った。
客の息を呑む音が重なる。花へ視線が集まる。空には、まだ星がある。
「女神さまのお光だ!」
「見ろ、星空だ。やはり三つ目は外れだな!」
「降らないじゃない! 腕が疲れたわ!」
私は時計の蓋を開けた。殿下の声より、針の刻む音を近くで聞く。
罪状の三行目は、十一時の鐘ののち、としか言わない。何分あとかは、ここで確かめるほかない。針は進むのに、待つほど指先が冷えていく。
「お兄さま、傘を持ってよ!」
「なぜ私が。君もよく見ておけ、ルツィエ。これが聖女の奇跡だ!」
聖女が殿下の胸に両手を添えた。
私は時計を傘の外へ少し出す。西の空で、星が一つずつ見えなくなる。傘の縁を撫でる風に、湿り気が混じった。
ぽつっ――――。
硝子に、一滴。
十一時五分。雨は、鐘の五分後に来た。
西から来た雲が、前庭を覆う。にわか雨が白薔薇を叩き、傘の上でたちまち音を増す。
花びらの光が細い筋になって、流れ落ちた。
「きゃぁ! たいへん! こっちまで濡れちゃうわ!」
客が傘へ駆け込む。十歳の王女の傘に、大人が六人入ろうとしている。濡れた裾が、私の靴をかすめる。
傘の縁が、押し合う肩の上で斜めになった。私は時計を胸へ戻し、王女のそばから離れない。
「押さないで! これは、わたくしの傘なの!」
「王女殿下、ほんの端だけでも、どうか!」
「端は占い師の場所よ! お兄さまは入れてあげない!」
殿下だけが雨の中に立った。聖女はその腕から離れ、両手を見ている。雫が袖から落ちても、傘へ迎える声は上がらない。
マヌエラは光る両手を背中へ隠した。
「聖女さまのお手々、光ってる!」
客の顔が花から聖女へ向く。殿下の上着の胸には、手の形が青白く光っている。
「まあ、聖女さまのお手が……」
隣の夫人が、扇の先を殿下へ向ける。傘の下を、ささやきが渡っていく。
「殿下のお胸にも、手の形が!」
「女神さまが……お怒りに……」
マヌエラの声が途切れた。空いた間を、雨音が埋めていく。
殿下は光る胸を張り、こちらへ指を突き出した。雫が指先から飛ぶ。
「呪ったな、ルツィエ! お前が雨を呼んだのだろう!」
「奇跡が流れる、と申しただけですわ。何が流れたかは、皆さまの目でどうぞ」
雨を呼んだ罪。前の一年、私はそれで数えられた。誰も空を見ず、私の顔だけを見ていたことを、今も覚えている。
「雨を呼べるのは、お前だけだ!」
「雨を呼べるのでしたら、ワインを浴びる前に呼んでおりますわ」
殿下の指は、私から動かない。その先を遮る傘の縁で、雨粒が跳ねた。
「黙れ! さっきまで星が出ていたのだぞ!」
左眉の傷を雨に濡らし、副長が傘の脇へ進み出る。
「雲は西から参りました。門番は半刻前から傘を出しております」
「副長、お前はいったいどちらの近衛だ!」
副長は殿下と同じ雨の下にいる。花から流れた光が、二人の足元を横切る。外套へ雨がしみても、副長は身じろぎしない。
「殿下の近衛です。ですから、見たままを申し上げます」
傘の下で、客たちが殿下の胸を見た。指を突き出された私へは、誰も目を向けない。
「三つ目も当たり! ねぇ、弟子にして!」
王女の声が雨を突き抜ける。傘の内側まで弾むような響きに、私は時計を持つ手を少し下ろす。
「ねぇねぇ、先生? わたくしも占い師になるわ! お父さまに言うの!」
「その女を先生などと呼ぶな!」
王女は柄を握り直した。揺れる傘が、私の上からはずれない。
「お兄さまは、三つとも聞いたでしょ! 一行書く番よ!」
十一時半。客は回廊の軒下へ移り、殿下の周りに残る。濡れた石に灯りが伸び、雨だれが軒先から糸を引く。馬車、辞表、雨。聞いた言葉を、今夜のうちに全部見届けている。
破棄の証書が運ばれてきた。
婚約を解くとある紙には、理由の欄がない。咎は口で言っただけだ。その口を信じた人たちの前で、今度は文字を残させる。
「何を書けというのだ。くだらぬことなら許さんぞ」
「『この破棄は、ルツィエの咎によらない』。それだけですわ」
殿下がペンを取った。広間からここまで、私を笑った客も同じ紙を見ている。
「たかが一行だ。書いてやる」
副長が外套を広げて雨を遮った。
「紙が濡れます。お早く、殿下」
その下で、殿下が一行を書き、署名する。私の指は、母の時計の蓋にかかっている。
前の一年、私の手に届いた紙には、咎でない証など一行もなかった。雨の音の下で、ペン先が紙を掻く音だけを聞く。息を吸い直すだけのことが、ひどく難しい。
財務卿が鼻眼鏡を押し上げ、十年前の誓紙を開いた。
「咎なく解く側は、金貨三千枚を払う。十年前、陛下がご署名なさった誓紙にございます」
「そんな話は聞いていないぞ!」
殿下のペンが紙の上で止まる。止めても、署名はもうそこにある。
「お読みにならなかっただけですわ。わたくしは、婚約した日から読んでまいりました」
「そのために、あの一行を……!」
殿下の顎が下がった。ペンを持つ指に、力が入る。
「くふふふ……お兄さま、三千枚って、お菓子ならいくつ分?」
「ロッティ、黙っていろ!」
聖女の祝いには出なかった三千枚が、同じ金庫から私への償い金として出る。財務卿は支払いの書付を重ねる。濡れた靴の音のなかで、その紙の音だけが乾いている。
「数は三千枚。殿下の署名も、今、確かめました。明朝、お届けに上がらせます」
殿下は署名の上へ手を置きかけ、外套を支える副長を見る。手は紙へ届かず、途中で止まる。
客が咳払いをした。光る手形が、まだ殿下の胸に残っている。誰も、それを拭わない。
財務卿のペンが受取人の欄で止まった。紙から目を上げた財務卿が、私を見る。
「お嬢さま。このままでは三千枚は、明日の朝、公爵閣下の金庫へ入ります」




