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2. その辞表、わたくしがお預かりします

 白馬車が片側へ傾き、車輪が一つ、石畳に転がった。乾いた音が、祝宴のざわめきを裂く。


 中には誰もいない。殿下と聖女は、玄関の段をまだ下りていない。胸に詰めていた息を、細く逃がす。


 御者は手綱を握ったまま、石畳に膝をついた。


「だから申し上げたのです! ひびが入っておりますと、三日も前に!」


 副長が折れた車軸のそばに屈む。左眉の傷を近づけ、木屑の浮いた裂け目を指でなぞった。


「ひびは古いものです。今夜できたものではありません」


「三日も前でございます! 三日も前に、申し上げたのです!」


 御者は同じことを二度言う。二度目には、殿下の後ろに立つ侍従へ顔を向けている。


 折れた、とだけ聞かされた車軸に、初めて理由がついた。私はその裂け目から目を離せない。


 前の一年の罪状には、古いひびの話がどこにもない。


 夜気が、濡れた胸元を冷やした。布が肌に貼りつき、息を吸うたび冷たさが戻る。石畳には、車輪の跡が白く残っている。


「偶然だ。車軸など、年に何本も折れる」


 殿下は蜂蜜色の前髪をかき上げた。


「……呪い、ですの? ルツィエさまが、馬車を……」


「呪う者が、先に教えて差し上げますの?」


 マヌエラの亜麻色の長い髪が、殿下の袖に隠れる。


「黙れ。偶然当てただけで、私に口答えするな!」


「偶然でしたら、お疑いも不要ですわ。殿下はどちらにお決めになりますの?」


 聖女は私の手を見て、唇を噛んだ。私はその手を、濡れた胸元から静かに下ろす。


「わたしには、まだ何も分からなくて……」


「でしたら、御者の話もお聞きくださいませ。三日前には、ひびがあったそうですわ」


 王女の薄紅の二つ結びが、段の上で跳ねた。運び出された祝いの大皿へ手を伸ばし、砂糖菓子を一つ取るところだ。


「くふふふ……一つ目!」


 殿下が妹を睨んだ。


「今、食べるな!」


「もう取っちゃったもーん! 戻したらお行儀が悪いですわよ? きゃははは」


 王女はその場で菓子を口に入れる。近くの廷臣が、殿下に背を向けて口元を隠した。


「占い師、二つ目はいつ?」


「今夜のうちに、と申しましたわ。お菓子は、もう一つ取っておいてくださいませ」


「取っておくわ! お兄さまに食べられないところに!」


 私は白金の縦巻きの先を手巾で押さえる。湿った布の冷たさが、指先にまで移ってくる。


「馬車など、新しく作らせる! 聖女の祝いには、金庫から金貨三千枚を出そう!」


 ざわめく廷臣の間で、誰かのグラスが、口へ届く手前で止まった。


「殿下、そんなに……わたしのために……!」


 マヌエラが殿下の腕を抱き直す。指は、その袖に深く掛かっている。


「そのくらい、私にはたやすい。今夜の祝いを、車輪一つに邪魔されるものか!」


 御者は膝をついたままだ。祝いへ戻る足音が、その傍らを過ぎていく。折れた馬車の向こうで、大広間の灯りが待っている。


       ◇


 夜九時前、広間へ戻った殿下の前へ、ギーゼルヘア卿が進み出た。


 財務卿の鼻眼鏡が、殿下と祝いの大皿を順に向く。


「二十年のお勤めも、今夜限りにございます」


 財務卿は懐から辞表の封書を出した。


「ようやく分かったか? これで君の席が空く。金庫を祝いに役立てよう」


 封書が殿下の手へ向かう。その間へ、私は入った。


「その辞表、わたくしがお預かりします」


 封書の端へ、殿下の指が伸びる。私の目の前で、その影が紙を横切る。


「止めても遅い。辞表は出た、この私が受け取る」


 私は封書の表を読み、殿下の指より先に受け取った。紙の角が、掌に当たる。


「辞表は出た、と仰いますのね。では二つ目も当たりですわ」


「出ていない!」


 財務卿の手は空だ。殿下の手も、何もつかめないまま宙に残っている。


「では、財務卿は明日もお勤めですわね。祝いの金貨も、この方にお頼みくださいませ」


「出た!」


 王女が大皿へ駆け戻った。


「二つ目! お兄さまが言ったのよ? やったぁ!」


「ロッティ、菓子で数えるな!」


 王女の指には、次の砂糖菓子がある。一つ目はきれいにお腹の中だ。


「くふふふ……。口で数えたら、二つ目は消える? 消えないわよ? きゃははは!」


 妹に向けていた手を、殿下は封書へ伸ばした。


「遊びは終わりだ。その辞表を、私によこせ!」


「宛名は国王陛下ですわ。殿下のお手には渡りませんわね」


「お前に預ける理由などない!」


 財務卿が封書の宛名を確かめる。宛名を隠さぬよう、私は紙の端へ指をずらす。


「私が、お嬢さまにお預けします。宛名を替えるつもりはございません」


 殿下の伸ばした手が、空のまま下がった。封書の角には、触れることさえできない。


「……覚えておけ、ギーゼルヘア。その席が、いつまでもあると思うな」


「二十年、毎朝そう思って座っております」


 破棄された身に、これで失う席はない。私は封書を鞄に収めた。それでも、鞄を抱える腕には力が入る。


 財務卿は私のそばへ寄り、声を落とした。祝いのざわめきに紛れるほどの声だ。


「お嬢さま、なぜお止めになるのでございます?」


 首元に金庫の鍵が下がっている。鎖はまだ、この方の首にある。私は光る鍵から、目を逸らせない。


「鍵を置いて、お帰りになるおつもりでしょう?」


「……なぜそれを?」


 前の一年、殿下の侍従はその鍵を首に下げ、審問の証言台に立った。


 財務卿が去った翌朝から預かっている、と、その口で述べるのを聞いている。その声を、忘れられない。


 罪状の二行目には、翌週、空いた金庫から金貨千枚を消したとあった。


 誰の手で消えたのかは、読み上げにもない。


「存じております。その鍵が殿下の侍従の首に掛かれば、来週、金庫から最初の千枚が消えますの」


 財務卿にだけ届く小声で言った。私は鍵に触れず、鞄の口を閉じる。


 財務卿の指が首の鎖を握った。鎖の光が、握り込んだ指の間へ隠れる。


「……この辞表は、今夜、お嬢さまの手に」


「ええ。金庫は、財務卿のお手に」


 老いた指が、鎖の上で一度だけ震える。二十年を今夜で終えるつもりだった人の手だ。私はその震えから、そっと目を外す。


 財務卿は鼻眼鏡を押し上げ、殿下へ向き直った。


「署名のない金貨は、一枚も出ません。鍵は、この首に掛けておきます」


 廷臣たちが顔を見合わせる。衣擦れだけが、やけにはっきり聞こえる。


「私の祝いだぞ! 三千枚が出せないと言うのか!」


「署名がございません」


「私は王太子だぞ!」


「はい。国王陛下では、ございません」


「くっ!」


 廷臣の一人が、扇の陰で咳をした。今度は、誰も殿下へ祝いの言葉を掛けない。


 財務卿の手は鎖から離れない。殿下の後ろの侍従にも、鍵は渡らない。


 王女は二つ目の菓子を食べ終えた。空いた指が、また大皿の縁に掛かる。


 時計の蓋を開く。十時過ぎ。窓の外には、星が並んでいた。あと一つは、雨だ。ガラスの向こうは、まだ暗く澄んでいる。


 私は時計を閉じ、前庭へ続く窓辺に立った。閉じた蓋の冷たさが、指の腹に残る。


 王女の手が私の袖を引いた。小さな重みに、時計を握る指の力がふっと緩む。


「ねえ占い師、三つ目は? 雨なんて、星がこんなに出てるのに!」

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