1. 死に戻ったら、五分遅かった
最後に聞いたのは、処刑の朝、冷たい空を渡る鐘だった。
なのに鼻へ届くのは、シャンデリアの蝋と葡萄の匂いだ。甘さにむせそうになり、息が喉の奥でつかえる。
頬を冷たいものが伝った。目を開けると、ハイノ殿下が空のグラスを持ち、私を見下ろしている。
殿下は蜂蜜色の前髪をかき上げ、グラスを卓に置いた。硬い音が、まだ耳に残る鐘の響きを押しのける。
聖女マヌエラの亜麻色の長い髪が、殿下の腕から私の右手にかかる。
私の指は、聖女の袖を掴んでいた。自分の手なのに、ひどく遠く見える。
白金の縦巻きの先を左手でつまむと、灯りを映した赤い滴が落ちる。ワインだ。ドレスの胸元まで濡れ、冷たい布が肌に貼りついている。
大広間の時計は、八時五分を指している。
破棄の宣言は、八時の鐘と一緒だった。
宣言も、私の叫びも、このワインも、もう済んでいる。周りの顔には笑みが残り、誰も私から目を離さない。
「……間に合っていませんわね」
聖女の袖から手を離し、潰れた皺を指先で伸ばした。
「失礼。皺になりますわね」
「……もう、離してくださるんですの?」
「ええ。握ったままでは、皺が増えるだけですもの」
私はルツィエ、十八歳。公爵家の娘で、一年後に処刑される。
戻るなら、破棄の前がよかった。五分前の私は、叫ぶだけ叫んで、袖まで掴んでいる。濡れた胸元が重い。やり直しの入口にまで、こんな顔で立つなんて。
「君との婚約は破棄した。今さら何を言おうと遅い」
殿下は顎を上げる。
「殿下。取り消していただきたいとは、申し上げておりませんわ」
「泣いて縋るかと思ったが」
前の私は、ここで泣いて縋った。八時十分には、広間から出されている。同じことをもう一度するには、あの一年は長すぎる。
「泣きましたわ。一年後に、たっぷりと」
「訳の分からないことを。君は、私の言葉が分かっているのか?」
マヌエラが半歩引き、殿下の袖の後ろへ隠れた。
「ルツィエさま、どうかお気を確かに……」
「確かですわ。聖女さまの袖なら、もう離しておりますでしょう?」
「その手で、この方を虐げておきながら!」
「殿下。お言葉は、一度で足りますわ。皆さまも、最初からここで聞いていらっしゃいます」
私は右手を開いて見せる。指先には、まだ冷えが残っている。握る物は、ほかにある。
広間の端で、父が角張った顎を背けた。
娘より先に出ていく背が、人の間に消える。こちらへ戻る足音はない。呼び止めかけた息を、私は飲み込む。
手首に提げた小さな鞄から、母の形見の懐中時計を取り出し、蓋を開いた。
八時七分。私を出すはずの時まで、まだある。蓋の縁を握り、浅くなっていた息を整える。
審問では、罪状を読み上げるだけで半日が過ぎた。
最初の三行は、破棄の夜の出来事だ。白馬車の車軸を折り、財務卿に辞表を書かせ、翌週、空いた金庫から金貨千枚を消し、雨を呼んで聖女の奇跡を流したという。
原因はどれも、私の呪いと書かれていた。
いつ、どこで、何が起きるかは覚えている。なぜ起きたのかは、あの長い読み上げにもなかった。
遅い。――でも、ここから先は全部知っている。
「では殿下、三つ当てますわ。今夜、馬車の車軸が折れます」
「はは。馬車にまで泣きつくつもりか? 私が聖女と乗る馬車だぞ。君の声などで壊れはしない」
殿下の笑いに、広間の笑いが重なった。耳に刺さる響きまで、覚えがある。今度はうつむかず、殿下の顔を見ている。
「二つ。財務卿が今夜のうちに辞表をお出しになります。三つ。聖女さまの奇跡は、雨で流れます」
「聖女の前で、よくもそんなことを言えるな!」
「殿下、わたし、怖い……」
「ご安心くださいませ、聖女さま。降るのは、ただの雨ですわ」
私は濡れたドレスの裾を整えた。湿った布が、指にまとわりつく。微笑むのに、乾くまで待つ必要はない。
「三つとも当たりましたら、破棄の証書に一行、わたくしの望む言葉を書いていただきます」
「占い遊びか。よかろう、三つとも当たれば一行くらい書いてやる」
周囲の扇が、ぴたりと止まった。
「皆さま、今のお言葉をお聞きになりましたわね」
「聞いたとも。君が三つとも外して泣くところまで、皆で見届けてやる」
殿下は笑みを浮かべたまま、聖女の肩を抱き寄せる。
「泣く支度でしたら、今夜は要りませんわ。数える支度を、お願いいたします」
言い終えるより先に、菓子の卓の掛け布が、下からふわりと持ち上がる。
薄紅の二つ結びを揺らして、小さな顔が這い出てきた。
「占い師なの!? ねえ、わたくしのも占って!」
「ロッティ、なぜここにいる?」
第三王女ロッティ殿下は、菓子をくわえたまま胸を張る。卓の下へ戻すには、王の末の娘という身分が大きすぎる。
「いないわ。わたくし、寝てることになってるもの」
「そこから出ているではないか!」
王女は急いで菓子を飲み込んだ。
「なら、お兄さまが見なければいいのよ!」
「寝室へ戻れ。今はお前の遊びを見ている暇などない!」
「遊ぶのは占い師とよ! お兄さまは、一行書くお約束をしただけでしょ?」
誰も掛け布を下ろさない。殿下の指が妹から私へ向き直った。
「副長、この女をつまみ出せ!」
八時十分。近衛副長アンスガーが、人々の間から進み出た。
左眉の傷の下から、私の手と濡れたドレスへ目が動く。小柄な私は、顔を見るだけでも見上げることになる。
前の一年、私を広間から出し、処刑の場でただ一人反対してくれたのも、この人だった。
副長の手が上着の内へ動く。そこから黙って差し出された白い手巾を、私は覚えている。
「手巾は、お借りしますわ」
副長の手が、上着の内で止まった。
「……ルツィエ嬢」
白い手巾が出てくる。差し出した私の掌に、副長は黙ってその布を載せた。
「ありがとう存じます、副長」
前の夜には言えなかった一言を、今度は先に言う。糊のきいた布から、石鹸の匂いがする。喉の奥が熱くなり、私は唇を結んだ。
「馬車を回せ。聖女と乗って見せてやる!」
副長は私から目を離し、玄関へ顔を向ける。
「殿下。馬車は一度、空のままお回しください」
「怖じ気づいたか、副長?」
副長の肩が私と扉の間にある。殿下はその肩越しに、車寄せを指す。
「警護の務めです」
「私の馬車だぞ。女の占いに怯えて、私に待てと命じる気か!」
殿下が手を上げた。副長は動かない。
「殿下が乗られる前に、車寄せで確かめます。御者には私から伝えます」
「勝手なことを。では、ここで見ていろ!」
「一つ目、もう来るの? 占い師、わたくしも見たいわ!」
「王女殿下は、扉のこちらでご覧くださいませ。馬車のそばへは、おいでになりませんように」
近衛が扉を開いた。
大広間と車寄せは、扉一つでつながっている。人々はグラスを持ったまま、玄関へ首を伸ばす。夜の冷気が流れ込み、蝋と葡萄の匂いを薄める。
私は手巾で頬を拭い、扉の前へ移った。
誰も乗っていない白馬車が、車寄せの灯りの中へ回ってくる。石畳を叩く車輪の音が近づいた。乗るはずの二人は、まだ私の後ろにいる。
「ほら見ろ、回っているではないか。車軸のどこが折れると言うのだ!」
「まだ止まっておりませんわ、殿下。あと少し、お待ちくださいませ」
時計の長針は四を指した。八時二十分。車寄せの御者が手綱を引き、殿下が足を踏み出す。
白い車体が片側へ沈む。殿下の笑みが止まり、広間の扇が一斉に下がった。私は手巾を握る指を、そっと緩める。
「……私の馬車が……おい、止めろ!」
玄関で、乾いた音がした。
「一つ目ですわ、殿下。残りも全部、存じております」




