5. 一年早いお礼
前の一年、副長の左遷は破棄の三日後だった。
今度は二日後だ。王女が持ってきた知らせは、暦より一日早い。待っていれば、またあの人は北へ行く。
昨日のうちに、王女は離宮の王へ一筆をねだった。
私の手には、財務卿の机から借りた車軸の修繕の願い書がある。前の一年、修道院で聞いた左遷の理由と、同じ車軸だ。紙の折り目を指でなぞる。今回は、話を聞くだけでは終わらせない。
昨夜は、財務卿の屋敷の客間を借りた。
今朝は六時五十五分に、近衛の詰所の中庭へ立つ。石畳の冷たさが靴底を通して上がってくる。時計を確かめる。鐘まで五分。返事より先に、紙を出すための五分だ。
結い直した白金の縦巻きを手で押さえ、すぐに紙を出せるよう、鞄の口を確かめた。
近衛が四十人、整列している。声のない列の脇へ、薄紅の二つ結びを揺らして王女が来る。
王女は紙の三角帽をかぶり、硝子の玉を両手で大事そうに抱えた。
「先生、これは水晶よ! わたくし、ちゃんと持ってきたわ!」
「……扉の握りに見えますわ、王女殿下」
玉の根元には、扉に留めるための金具がついている。朝日を受けて、金具までぴかぴかだ。
「弟子の心得よ! 先生みたいになるには、こういう物がいるでしょ?」
「まず、両手を空けていただけますか? 今日はその手で、紙をお広げになるのですもの」
王女は玉を小さな鞄へぐいと押し込んだ。
「たいへん! 帽子が曲がっちゃうわ!」
「お帽子より、お父さまの紙を大切にお持ちくださいませ」
三角帽を傾けたまま、王女が大きく頷く。正面の近衛は、その帽子から目を離さない。
七時の鐘が鳴った。
鐘の音が石壁に返る。ハイノ殿下が列の前に立ち、蜂蜜色の前髪をかき上げた。手には、署名の入った辞令だ。
「近衛副長アンスガー。車軸の件の責めにより、北の砦へ赴任を命じる」
副長が列の端から進み出た。靴音が、鐘の余韻を切る。
左眉の傷の下の目は辞令を見ている。唇がわずかに開く。この人は、辞令に必ず拝命しますと答える。
前の一年、その一言で北へ行った人だ。
また聞くのか、と喉の奥が狭くなった。今度は、その一言が出る前に。
「殿下」
私は副長の隣へ足を進める。
「辞令はもう書いた。誰が何を言おうと遅い」
副長の唇が動く前に、私は鞄から願い書を取り出す。冷えた指でも、折り目の位置は分かる。
「お返事の前に、理由をもう一度お聞かせくださいませ」
殿下は、見せつけるように辞令をこちらへ向けた。
「車軸の件だ! 私の馬車を壊した責めを、副長に負わせる!」
「修繕の願いは五日前。差し止めたのは、殿下の侍従の一筆ですわ」
広げた紙には、修繕費の申請と日付がある。費用を認めぬ、と書いた一筆は、財務卿の名ではない。殿下の声がどれほど大きくても、紙の文字は動かない。
「それが何だ! 馬車を回させたのは、その男だぞ!」
私は願い書の端を、副長にも見えるように向けた。
「乗られる前に、空で回させたのですわ。殿下も、聖女さまも、車寄せで足を止めていらっしゃいました」
「私の命令に逆らったと、言っている!」
近衛の列がざわめく。前にいる副長の背は、列から動かない。私はその隣で、紙をまっすぐ保つ。
「逆らった日付は一昨日。修繕が止まった日付は、その三日前ですわ」
列の一人が、空の馬車、と低く繰り返した。
「副長が先に、空で回させたんです。殿下は乗られていません」
四十人の目が願い書へ向く。私は時計を見てから、殿下の指が隠している辞令の日付に目を留める。
「誰に許されて口を開いた! 列を乱すな!」
「でしたら、皆さまにもお聞かせくださいませ。修繕を止めた紙と、この責めはどうつながりますの?」
殿下は願い書から顔を背けた。
「理由などどうでもよい! 私の近衛だ、私が飛ばす!」
四十人の目が、殿下から離れる。列の先から、副長のほうへ顔が向いた。命じる声の大きさだけが、中庭で浮いている。
「じゃあ、わたくしがもらうわ! お父さまのお許しは、昨日いただいたもの!」
横から、王女が王の一筆を広げた。
王女付きの護衛を、王女に選ばせる許しだ。下には王の署名と、昨日の日付がある。王女の手の下で、紙が朝の風に鳴る。
「昨日の日付ですわ。殿下の辞令は、一日遅うございました」
殿下の手にある辞令は、今朝の日付だ。列の視線が、王の署名へ流れた。
「ロッティ!」
王女は空いた手の指を、順に折っていく。
「お兄さまは一昨日、馬車も金貨も奇跡も失くしたでしょ! 近衛まで失くすの?」
王女は折った指をほどき、紙を副長へ差し出した。
「私の辞令を先に読んだだろう、副長!」
「陛下のご署名を、確かめます」
副長の目が王の名を辿る。王女は三角帽を直し、空いた手で副長を指した。
「なら、決まりよ! わたくしの護衛に――」
王女が言い終える前に、副長の口が動く。私の息まで、そこで止まる。
「拝命します」
副長が答え、王女の後ろへ一歩移った。胸の奥へ、ようやく息が入る。
「早い!」
殿下の叫びに、近衛の列が笑いを噛む。さっきまで固く結ばれていた口が、次々に横へ伸びる。殿下が差し出した辞令の前には、ただ朝の風だけが通る。
「お兄さま、護衛は早くなくちゃだめなのよ!」
「アンスガー! 私の辞令には、一言も答えていないぞ!」
「陛下のご署名が、先でしたので」
王女が副長の影へ入った。
殿下の辞令は、受け取る手のないままだ。王女の持つ一筆の下で、副長がこちらへ向き直る。私の立つ石畳へ、その影が伸びる。
朝礼が終わり、固かった列がほどけた。
王女が近衛に三角帽を見せて回る間に、私は中庭の隅へ移る。副長は王女の姿を確かめてから、私のそばに来た。近づいてくる靴音を聞きながら、鞄の中の布に触れる。
鞄から、洗った白い手巾を取り出した。指に触れる布は、紙よりずっとやわらかい。
「副長。お借りした物を、お返ししますわ」
「まだ、髪に染みが残っている」
私は手巾を開いた。赤い色は、こちらにはもうない。石鹸の淡い匂いがして、折り目を押さえる指の力が少しゆるむ。
「こちらは、きれいにいたしました」
「王女殿下の護衛は、菓子の毒見もするのだろうか?」
「砂糖菓子の数えすぎを、お止めするお役目ですわ」
差し出す指が、一度止まった。
返せる。そう思っていたのに、空になる手が急に頼りない。
「……一年、持っており……」
副長の目が、私の指へ下りる。私は手巾を畳み直して、その手に載せた。
「礼を言われる覚えがない」
「存じております。一年ほど、早いお礼ですもの」
副長は受け取った手巾を見てから、私を見下ろす。空いた指先には、まだ布の感触が残っている。
私はその影の中で見上げる。王女の声が、列の向こうへ遠ざかる。その目から、視線を外せなくなった。
「……一つだけ聞く。あの夜、なぜ俺が手巾を出すと分かった?」




