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王の憂鬱と、泥の中の観察者

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

 王の私室には、重苦しい空気が澱んでいた。

 宰相は手元の報告書を整理しながら、慎重に言葉を選ぶ。

「陛下。……第一、第三師団壊滅の惨劇以降、リリアナ団長が生還してより、カイラスが登城しておりませぬ」

 王は玉座で深く眉をひそめた。その眼差しには、隠しきれぬ困惑が宿っている。

「カイラスが? ……リリアナは何と申しておる」

「『帰還の際、既に姿がなかった』。それの一点張りでございます」

「……行方不明、ということか」

 王の言葉には、隠しようのない苛立ちが混じった。軍の要であり、何より優秀な手駒であったカイラスの喪失。それは、この国の均衡を崩しかねない失策だった。

「それだけではございませぬ、陛下」

 宰相は、さらに声を潜める。

「リリアナ団長について……ご帰還以降、団員たちの間で不穏な噂が立っております。以前のような冷静さが薄れ、何につけても苛烈で、団員たちも困惑しているようでして」

 王は呆れたように鼻を鳴らした。

「……夫……いや、腹心が突然消えたのだ。精神的に余裕がないのだろう。少し休ませてやれば良い」

「そうであれば良いのですが……。とにかく、軍部も落ち着かぬ様子。カイラスなき今、我が国の防衛の要が揺らいでいるのは事実です」

 王の溜息が、静かな部屋に深く沈んだ。

――◇――

 スラムの路地裏。酒場帰りの酔っ払いや、日雇いの連中が集まる場所で、いつも通りガラの悪い噂話が飛び交っていた。

「おい、聞いたか? 騎士団長のリリアナ様のことだよ」

「ああ、あの魔族との敗戦のあとか? 最近、団内の空気が最悪らしいな」

 ダンはあえてその輪の近くを通り過ぎながら、聞き耳を立てる。

「旦那さんが魔族に拐われたって噂だろ? それ以来、団長はヒステリーを起こしてばかりで、部下の団員たちも辟易してるってよ。あんなんじゃ、俺たちの街を守るどころじゃねえな」

「まったくだ。第一、第三師団の壊滅に団長のあのザマだ。この国も、とうとうおしまいかもしれねえよ」

 ダンは表情一つ変えず、泥にまみれた路地を歩く。

 ……なるほど。

 王城で何が起きているかまでは知らずとも、街の連中はそこにある「綻び」を肌で感じ始めているわけか。

 俺が去っただけで、脆い均衡は勝手に崩れ去る。

 実に滑稽だ。

――◇――

スラムの、湿ったカビの匂いが充満する小屋の中。

 殴られた傷が癒えるはずもなく、マリはまだ寝台から起き上がれずにいた。飢えと痛みで、その顔色は土気色に濁っている。

 俺は、たった一つ手に入れた林檎の皮を淡々と剥いていた。ナイフが滑らかに皮を削ぎ落とし、果肉を露出させる。

「……ねえ、お兄ちゃん」

 マリが掠れた声で俺を呼ぶ。その瞳には、すでに気力すら残っていない。

「……また、変な顔してる」

 俺はナイフを止めず、淡々と答える。

「気のせいだ。ただ、考え事をしていただけだよ」

 『お兄ちゃん』。

 その呼び名を聞くと、記憶の奥底で少しだけ胸の奥が痛む。だが、それも一瞬だ。

 俺は、薄く削ぎ落とした林檎の欠片を、マリの口元へとそっと運んだ。

「食え。……少しずつでいい」

 マリが、力なく口を開く。飢えと痛みで、うまく力が入らないようだ。

 王城の連中が混乱し、軍が迷走し、リリアナが焦燥に駆られている。……俺には関係のない話だ。俺が消えただけで、この国は勝手に自滅の道を突き進んでいる。

 ただ、この世界が少しだけ面白くなってきたな、とは思う。

 ――俺の復讐が終わるまで。この『ダン』という衣装を、汚さずに使い潰してやる。

 外では雨が降り始めた。

 この泥沼が、さらに深く、暗く沈んでいく音がした。



ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!


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