ゴミ溜めの捕食者
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6話です。
空腹が、針を刺すような痛みから、重く濁った麻痺へと変わっていく。 俺とマリは、王都の華やかさが一切届かない最果て、悪臭と腐敗が支配するゴミの山を漁っていた。
あの日、斬首され、この惨めな少年の身体に宿って三日目。俺の脳は常に、生存の火を灯し続けるには、あまりにも養分が足りない 。この「掃き溜め」のようなスラムには、まともな食い物など存在しない。あるのは、富裕層が捨てた残飯の成れの果てと、それに群がる蛆虫、そして俺たちのような「動く死体」だけだ。
「お兄ちゃん! 見て、これ!」
不意に、マリの掠れた声が弾んだ。 泥を払い、汚物にまみれながらも、彼女が差し出した手のひらには、奇跡的に赤みを残した一個の林檎が握られていた。皮は萎び、一部は茶色く変色している。だが、この飢餓が蔓延る街において、それは王冠に嵌め込まれた宝石以上の価値があった。
「これがあれば、今日は……お兄ちゃんも、お腹いっぱいになれるね」
マリがひび割れた唇で笑った、その瞬間だった。
「おい。それは俺が先に目をつけていた獲物だ。返してもらおうか」
頭上から、冷酷な影が差した。 見上げれば、薄汚れた革鎧を纏い、酒と安煙草の臭いを漂わせた男たちが三、俺たちを包囲するように立っていた。自警団の崩れか、あるいはただの野盗か。どちらにせよ、この場所では力が法のすべてだ。 リーダー格の男が、マリの手から乱暴に林檎を奪い取る。
「ダメ――っ! それは、私が……私がやっと見つけたの!」
マリが悲鳴に近い声を上げ、男の太い腕にしがみついた。必死だった。それを失えば、明日がないことを彼女は知っていたから。 だが、男にとってその抵抗は、羽虫が肌に止まった程度の不快感でしかなかった。
「……チッ、汚い手で触んじゃねえよ、ガキが」
男は苛立ちを隠そうともせず、全力の拳をマリの小さな顔面に叩きつけた。
鈍い、肉が潰れるような音が鼓膜を打つ。 マリの身体は糸の切れた人形のように宙を舞い、数メートル先の瓦礫の山へと叩きつけられた。一度だけ痙攣し、そのままピクリとも動かなくなる。
……あ。
俺は、その光景を、まるで見知らぬ他人の不運でも見ているかのように、極めて冷静に眺めていた。 視界の端で、泥に汚れた妹の頬が急速に腫れ上がっていくのが見える。
――いや、待て。
脳内の深い場所で、警鐘が鳴り響く。 怒りではない。これは「計算」だ。 俺はこの世界で「復讐」を成し遂げるために、この妹を足掛かりにして「健気で善良な兄」という社会的評価を構築する予定だった。この駒がここで壊れ、使い物にならなくなることは、俺の計画における「重大な損失」に他ならない。
……つまり、目の前のこの男たちは、俺の資産に傷をつけた「害獣」というわけだ。
「なんだァ? その目は。文句があるならオメーも死ぬか? ガキ」
男たちが、獲物をいたぶる下卑た笑いを浮かべて近づいてくる。 俺の中で、何かが音を立てて切り替わった。 湧き上がるのは、熱い怒りではない。氷のように冷たく、研ぎ澄まされた「効率的な殺意」だ。
「……そうか。ならば、死ね」
一歩。 男たちが瞬きをするよりも速く、俺は重力から解き放たれたかのような踏み込みで間合いを潰した。 先頭の男が驚愕に目を見開くが、すでに遅い。
最短距離を通る右拳が、男の気管を正確に粉砕する。 「ガハッ……」と空気が漏れる音。続けざまに、左の足先で男の膝裏を刈り、体勢を崩したところへ、体重のすべてを乗せた肘を側頭部へ叩き込んだ。
ゴキッ、という嫌な音がして、男の首が不自然な角度に折れ曲がる。 隣の男が剣を抜こうとしたが、その指が柄に届く前に、俺は彼の喉仏を指先で引きちぎっていた。
「あ……が……あ……」
悲鳴すら上げられない。肺から漏れる血の泡が、彼らの最期の言葉となった。 わずか数秒。路地裏には、三つの肉塊が不規則に転がっていた。気絶などという生温い結果ではない。俺が選んだのは、二度と害をなさないための「完全な排除」だ。
俺は、自分の拳に付着した汚れた血を、男の服で無造作に拭った。 心臓の鼓動は驚くほど静かだ。罪悪感? そんな高尚な感情は、あの処刑台に置いてきた。あるのはただ、邪魔な障害物を処理したという、事務的な達成感だけ。
俺は男の死体から、泥にまみれた林檎を拾い上げる。 そして、瓦礫の中で横たわるマリを、壊れ物を扱うような手つきで抱き上げた。
「……汚れたな」
誰に言うでもなく呟く。それは殴られたマリのことか、あるいはこの場所のことか。 俺は一度も後ろを振り返ることなく、沈黙が支配するゴミの山を後にした。 この「妹」という駒を治し、次こそはもっと効率的に、この街の毒を利用してやる。
復讐へのカウントダウンは、まだ止まっていない。
ゴミの山の外縁、スラムの狭い通りに出たときだった。 一人のガキが、俺の行く手を遮るように立ちはだかった。縄張り意識の強い、いつもの顔なじみだ。
「おい、ダン! 妙なもん抱えてどこ行ってやがんだ? ……おい、返事しねえのかよ」
……ダン。
俺は足を止めず、わずかに視線を動かす。 ああ、そうか。この肉体には、そういう名前だったのか。
「……掃除が終わった。どけ」
俺は低い声で告げ、少年の肩を掠めるようにして通り過ぎる。 ダン。 ……悪くない響きだ。 ただの名前に過ぎないが、この世界で「社会」と繋ぐための値札としては、それで十分だ。
俺は、自分の名前などどうでもいい。 復讐さえ成せれば、この肉体が何と呼ばれようと、俺には関係のないことなのだから。
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次回更新も準備中ですので、ぜひお楽しみに!




