深淵の玉座
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玉座に鎮座する魔王の視線が、空間を切り裂く。
無数の眼球が蠢くようなその姿は、ただ存在するだけで周囲の空気を腐敗させる。
「ゼノスよ」
魔王の地響きのような声が響く。
「なぜ、そのようなまわりくどい真似をする。我が軍勢を魔の森へ進めれば、ガレリア王国など三日もあれば灰燼に帰す。貴様のしていることは、ただの『ごっこ遊び』に過ぎんのではないか?」
魔王の苛立ち。それは、力こそが絶対である魔族にとっての正論だ。
だが、ゼノスは薄い笑みを浮かべたまま、悠然と跪いた。
「……魔王様。人間を、侮ってはなりません」
ゼノスは、優雅に指を一本立てる。
「人間という種は、極めて『耐性』が高い。外からの脅威、すなわち私たちが正面から侵攻すればするほど、奴らは結束し、団結し、そして――『英雄』を生み出します」
「英雄?」
「ええ。圧倒的な絶望の前に立たされた時、人間は奇跡を信じ、光を求める。私たちが彼らを破壊すればするほど、彼らの中に『希望』という名の信仰が生まれるのです。それは、我々魔族にとって最も排除すべきエネルギーだ」
ゼノスは玉座を見上げ、愉悦を滲ませる。
「ですが、もしその『光』が、自らの手で自分たちを殺し始めたらどうなるでしょうか?」
魔王の周囲の空気が、ピタリと止まる。
「ガレリア王国の英雄、リリアナ。彼女はあの国で最も愛され、信頼されている。その彼女が、国を守るふりをして国を食い荒らし、最後に絶望のどん底へ突き落とす」
魔王は一つ、大きな眼球をゼノスに向けて凝視した。
「……なるほど。単なる侵略ではない。人間という種の『希望の芽』そのものを焼き尽くすというわけか。……だがゼノスよ、一つ問う。あの女騎士の『変貌』についてだ」
「何でしょうか」
「貴様の仕掛けたそれは、洗脳か? ならば、状況次第では解除も可能ということか。あの器、いざとなれば別の用途にも使えよう」
魔王の問いに対し、ゼノスは「洗脳」という言葉に、吹き出すようにして笑った。
「洗脳、ですか。ふふ……残念ながら、そんな生易しい代物ではありませんよ」
ゼノスは、まるで忌々しいものを見るかのような、どこか冷めた目つきで空を仰いだ。
「あれは『反転の呪い』です。愛するものを憎み、憎悪する対象を愛する――魂の根幹を力技でひっくり返す業です」
「ほう。では、元には戻らぬのか?」
「ええ。術者が解こうとしない限り、決して……いいえ、術者である私でさえ、一度染まった魂を元に戻す術を知らない」
ゼノスはそこで一度言葉を切り、自分の手を見つめて小さく吐息をついた。
「正直に言いましょう。あのような呪いを完成させた時、私でさえ心底引きましたね。……『あ、これ、やりすぎた』とね」
ゼノスは肩をすくめ、愉快そうに、だがどこか歪んだ表情で笑う。
「愛を憎しみで塗りつぶすなど、あまりに美しく、あまりに醜い。……あいつの魂が、壊れる音まで聞こえてきそうですよ。ククッ」
魔王は沈黙し、玉座で深い闇に没した。
魔王の周囲で蠢いていた魔力が、ふっと消える。圧倒的な沈黙の後、魔王が低く笑った。
「……なるほど。貴様の描く地獄は、単なる殺戮の範疇を超えているようだ」
「その通りです、我が主よ。ガレリア王国が最も輝く瞬間、その光を最も深い闇で塗りつぶす。……それこそが、至高の芸術ではありませんか。そのための駒として、リリアナは完璧な存在です」
ゼノスは深く頭を垂れる。その表情は、愛する芸術品を語る職人のように、冷淡で、慈悲深く、そして悍ましかった。
「その影が、あの国を飲み込むとき……人間は二度と、我々に刃向かう気力を失うでしょう」
魔王は玉座から身を乗り出し、ゼノスに告げる。
「期待しているぞ、ゼノス。貴様の描く地獄が、どれほどの絶望を生むのか……見物だ」
「御意のままに」
ゼノスは深々と頭を垂れ、優雅な足取りで玉座の間を後にした。
彼にとって、この国が滅びゆく様は、人生で最も美しい劇の一幕に過ぎなかった。
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