14話「ダンディお怒り」
何度も何度も肉を裂いていた少年は、急にぴたりと止まった。
小さな死体をずたずたにした腕が、だらりと落ちる。手元のナイフが光の粉瘤のように溶けていく。光を纏う女性に姿を変えていた。
先ほど、兄さんだったものの周りを飛んでいた光。イサの背で見えなくなってしまった後は、見当たらなかった。
「………………ゼロ、ネズミの気配がする」
低い、仄暗い声が響いた。
全身が固まる。
怖い。見つかる。やばい。
頭の中で不穏な単語が次々と浮かび上がる。
その間、黒い衣服を血に染めた背がゆらりと起き上がる。肩が上下していた。興奮が収まらないようだった。
ガスマスクがゆらゆらと、揺れるように辺りを見渡す。
「誰も居ないよ」
「…………」
長い沈黙が訪れた。緊張して、自分の呼吸も止まってしまう。
隣のヒツジは、私の手で口を塞いだままだ。泣き腫らした目を、不安定に揺らしていた。
「俺は……俺は、やっと……ははは、あ゛は、ははは」
掠れた声で、邪悪な笑い声が響く。時折途切れては、また響く。
ゼロは機械的に、イサを手術台から下ろした。片腕で抱き上げる。その間も、イサは痙攣して笑い声を漏らしていた。
「ネズミか」
ゼロは、イサに視線も向けない。代わりに、先ほどの言葉を繰り返す。
私たちの方へゆっくりと此方に近づいて来る。一歩一歩、硬質な足音が床を叩く。
ばくばくと心臓が弾けそうなほど早鐘を打つ。背中を冷たい汗が伝う。だめだ。終わりだ。確信した次の瞬間。
白熱電球のように、丸い光が大きく広がった。驚いて反射的に目を閉じる。
「ミラ、勝手に飛び回っちゃダメだよ。君は運用個体だ」
ゼロの無機質な声がする。
……見つかって、ない?
「ごめんなさい、ゼロ。あたしって、生まれて間も無いでしょう。何だか、もう少しここに居たいの。これがセンチメンタルかしら」
「そうかい。君は自我が強いね、少し抑えようか」
「わかったわ、今だけ許してちょうだい」
「うん」
上擦っているが落ち着いた声と、ゼロのやりとりが聞こえる。眩しすぎて目を開けられない。様子がわからない。
ガチャガチャと手術台辺りから音が聞こえた。
ぐちゃ、と粘質な音が続く。
「13番は休ませないとダメだ……よいしょ、……この死体を処理してくる、片付ける時迎えにくるよ」
「はあい、またね」
止まっていた靴音がまた歩き出す。今度は遠ざかっていくのが分かる。
光に慣れ始めて、ゆっくり瞼を開いた。人の気配はしない。
ゼロとイサは立ち去った後のようだ。
ぶわっと酸素が流れ込んできた。やっと呼吸ができる。怖かった、怖かった怖かった、やばい、まずい、最悪。
色々な感情が溢れ出して止まらない。気付いたら目元が熱くなっていた。頬を涙が伝っている。
兄さん、兄さんが、あいつらに殺されちゃった。
「兄さん……にいさん、にい、さん……」
譫言のような声が聞こえて来る。
凄まじい光景を前に、ヒツジにまで気を回せなかった。ばっと顔を上げる。
真っ青なヒツジが、浅く乱れた呼吸を繰り返していた。はらはらと涙を流している。瞳には悲しみと絶望と、何より、
「……イサに……ころされた……!」
絞り出すような声がする。
初めて、ヒツジの憎々しげな声を聞いた。噛み締めた唇から、微かに血が滲んでいる。
「ヒツジ……」
「あいつが、アイツが兄さんを……!!」
「…………」
「あいつが兄さんを、殺した……! くそ、くそ……あの野郎……!!」
口を挟めない剣幕だ。
怒りに満ちた声は、次第に荒くなっていく。ぼこ、ぼこ、とヒツジの肩から泡立つ音がした。嫌な音だ。あの発作を思い出す。
ヒツジが犬歯を覗かせ一際強く叫ぼうとする。
「あの野郎、絶対にころ」
「オラァァ!!!!」
殺意を孕んだ声が、野太い声に掻き消された……野太い? 男? なに?
気付く前に、パァンと小気味良いビンタの音がする。
ビンタ?
さっきの妖精が、ヒツジの頬をビンタしていた。
「い゛っっったぁぁ……!?」
「大丈夫!? ちょ、流石に今のは」
「うるせぇ! ざけんじゃないわよ!! 怒りに染まったら意味ないでしょうが!!」
「えっ、えっ? は、なに、痛い……」
「泣き言ぉ!? だまらっしゃい!!」
長いウェーブの髪、スラリと伸びた手足とドレス、大きな虹色の羽根。手のひらサイズの小さな身体。
よく見かける妖精の姿が、目の前に浮いていた。
「助けてやったんだから、まずはあたしに感謝しなさい!」
ただし喋る姿は初めて見た。
しかも、ダンディな声帯で金切り声を上げて。




