10話「狩人」
「兄さん! 兄さん!!」
ヒツジが泣きじゃくり悲鳴を上げている。イサはその声に一瞥を寄越すだけだった。
兄さんだった怪物の、凹凸に隆起した顔面に足をかける。頭部に飛び乗って、一気に長刀を引き抜いた。瞬間、毒々しい濡羽色の液体が噴水のように噴き出す。
「ちょっと! ねえ! 兄さんはどうなっちゃったの!?」
「…………」
イサの舌打ちだけが返ってくる。私の問いかけなんて無視をして、長刀を再び振り下ろした。
花瓶が落ちたような鋭いガラスの音を立てて、レンズが完全に砕け散る。球体のように膨れ上がる肉塊を裂く生々しい音が鼓膜に刺さる。
「お゛、ォ、オォ……」
兄さんの優しい声に似た呻き声が、肉を裂く度に響き渡る。
絶句してその様子を見つめていると、ヒツジが駆け出した。だらりと垂れた怪物の腕に縋り付き、イサを見上げて泣いている。
「もうやめてよ、兄さんが、兄さんが……し、しんじゃう! もう、やめて……やめてください、お願いします……!」
懇願する声は、あまりにも痛々しい。イサは一度だけヒツジを見下ろした。その瞳はどこまでも澱んでいて、何を考えているのか分からない。長い睫毛を一度伏せ、開いたときには、長刀を握る手に更に力を込めた。
捲れ上がる皮膚の裏から、黄色を帯びた白い脂肪が覗く。ぶちぶちとその肉は黒を滲ませ、奥深く突き刺さる長刀が固い何かにぶつかる音を立てた。そのまま背骨を砕くように、長刀を下から上へと振り上げる。弾けるように噴き上がる体液が、黒い雨として降り注ぐ。
獲物を蹂躙する彼は、恐ろしい狩人のようだった。
自分の血の気が引いていくのが分かる。下腹部に鈍い重たさを感じた。胃の中がひっくり返りそうなほど、鉄の臭いが充満している。
迫り上がる嘔吐感に思わず口元を押さえた時、
ぱちん、と風船ガムが弾けるような軽い音がした。
それを皮切りに、怪物のぼこぼこと膨れていた箇所がどんどん弾けていく。弾ける度に黒い液体が飛び散り、ヒツジが縋っていた腕もそのまま弾け飛んだ。彼はその衝撃に尻餅をつく。
破裂する肉塊の下から、白いセーラー服を墨で汚したように黒く染めた、兄さんの上半身が現れた。黒く汚れている以外、五体満足の少年が膝をついて固まっている。
兄さんは乱れた髪でぼんやりと虚空を見つめ、そのまま地面にどさりと倒れた。
「兄さん!!」
私は慌てて彼に駆け寄る。兄さんは、ゆっくり背を上下させ、深く安らかな寝息を立てて眠っていた。
生きている。その姿は怪物ではない、今まで穏やかに接してくれた兄さんだった。
「……良かった……」
「兄さん、兄さぁん……!」
鼻水や涙で顔をぐちゃぐちゃにして、ヒツジが眠る兄さんにしがみつく。彼を背を撫でて宥めながら、私はイサを見上げた。
ゾッとするほど冷たい眼差しで兄さんを見つめる彼に怯む。瞬間、あまりに当然のように、まるでボールを蹴るように。彼は、眠る兄さんの頭部を蹴り飛ばした。
甲高いヒツジの悲鳴が上がる。直ぐ様兄さんを守ろうと、頭部を庇うように抱きしめる。
「……っ何してんだよ、お前!」
気付けば私は、イサに掴み掛かっていた。
彼は、長い前髪の隙間から、私を静かに見下ろしている。黒色の体液が付着した肌は想像以上に白く冷たかった。
薄い唇がゆっくりと開く。
「……発作を抑えて、やる事はやった。発作後の幼児共は簡単に目を覚まさねえ。何か問題が?」
「問題しかねえだろ! 兄さんがお前に何したってんだよ!」
「魔法を暴走させて俺の手を煩わせた」
「ッ……それだけで蹴ったの!? そりゃ、……あんな、危ない怪物みたいになっちゃったけどさ。もう元の姿に戻ってるじゃん、まだ危ないって言うわけ?」
「もう危険はない」
「だったら……!」
「もういいよ!! 兄さんのこと早く見てもらおう!」
泣き出しそうな絶叫が割って入る。
足元で、ヒツジが目を真っ赤にさせて泣いていた。涙で濡れた瞳が、イサを複雑そうに見上げる。私は思わず、胸ぐらを掴んでいた手を下ろした。
「……イサ、兄さんの発作を止めてくれてありがとう」
「……」
「ごめん、モカ。兄さんのこと見ててもらえるかな。俺、ミヤのこと呼んでくる」
「……わかった。ヒツジ、あのね」
「モカ。ありがとう、本当に……発作を止める時って、結構力技なんだ。前にも見たことある。モカは初めてだから驚いたよね。ほんと、ごめんね」
私が何か言おうとする前に、申し訳無さそうに少年は笑った。悲しくて痛々しい笑みで。
ヒツジは、立ち上がって病院の方に向かって走り出す。イサは何も言わずにヒツジを見送っていた。
「100番」
抑揚の無い声が、私の番号を呼ぶ。イサはヒツジが去った方を眺めたまま突っ立っていた。
「……なに?」
「気分を害させたならすまない」
思わず顔が引き攣る。急な謝罪に困惑していると、そのまま彼は続ける。
「42番とは仲が良いみたいだな」
「……まあ、そうだけど。ヒツジのことまで悪く言うつもり?」
「いや。俺の方からも38番には声を掛けておく。じゃあな」
事務的な会話を交わして、彼は翼を広げる。彼の持った長刀が発光し、妖精の姿へと戻っていく。そのまま飛び立ってしまった。
私は2人が去っていく姿をただ眺めていることしかできなかった。兄さんの手を握る。温かい。
生きている人間の体温がした。




