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瞳の契約者2

ダークブラウンの戸を開けると、来客を告げる鐘がカランカランとロビーに鳴り響いた。

落ち着きのある小さなロビーは幾つものランタンによってオレンジに彩られ、どこかノスタルジックな雰囲気に満ちている。

そんなロビーの隅にしゃがみ込んで何かの仕事をしていたらしい中年の女性が、鐘の音に振り返り穏やかな微笑で彼女を迎えた。


「あらあらいらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました。私はこの宿でお世話をさせていただきますマリーと申します。」


淑やかな所作で立ち上がった女性はそう言うと、小さく腰を折りお辞儀をする。

彼女もそれに倣いお辞儀をして用件を告げた。


「夜分に申し訳ありませんが、まだ空いている部屋はありますか?」

「はい、もちろんですよ。少しお待ちになってくださいね。」


マリーはロビーの奥のカウンターに入っていくと、古ぼけた一冊の帳簿を取り出してきた。

栞の挟まったページを開くと、そこにはたくさんの名前が記載されている。

マリーは帳簿の向きを変えて彼女の前に出すと、羽ペンを差し出しながら言う。


「こちらの最後のところにお名前を書いて頂けるかしら、すぐにお部屋へご案内しますね。」

「わかりました。」


彼女は頷き、長年連れ添った自らの名前をこの宿の歴史ともいえる本の末端に記入する。

マリーは書かれた彼女の名前を見て、嬉しそうに手を合わせた。


「エルステリア=サマースノーさんね、綺麗なお名前ですこと。」

「えっと、ありがとうございます。名前を褒められたのは初めてです。」

「うふふ、とても綺麗な響きだと思いますよ。旅人さんかしら?」

「はい、各地を旅しながら見聞を広めています。」

「うふふ、素敵な旅ですね。でも女性一人での旅は大変でしょう?この宿にいる間、是非ゆっくりと疲れを癒してくださいね。」

「ありがとうございます、そうさせてもらいます。」

「じゃあ早速お部屋にご案内しますね、お疲れでしょうから。」


優しい笑みを浮かべているマリーは奥の棚から鍵を取り出すと、ロビーの脇にある階段を上っていく。

エルステリアもそれに続き、二階の角部屋へと案内された。

部屋はそれほど広くもないが綺麗にされていて、ふかふかのベッドには真っ白なシーツが敷かれ、脇には木製の机にランタンが置かれている。

エルステリアは久し振りのベッドを見て飛び込みたい衝動に駆られたが、すぐに自らの状態を見て思い直す。

森の中を彷徨い、何日も野宿を繰り返した身なりは酷く汚れてしまっている。

こんな格好でベッドに飛び込めば、ふかふかの至福と引き換えにシーツを泥だらけにしてしまうだろう。

エルステリアが服を見て渋い顔をしているのに気づいたマリーが、おかしそうに笑った。


「うふふ、良かったらすぐに着替えてください、お召し物を洗っておきますよ。温かいシャワーの準備もしておきますからね。」

「あ、すみません気を遣わせてしまって。」

「あなたはお客様なのだから気にしないでいいのですよ。着替えたら一階通路の奥にシャワー室がありますからそちらにおいでくださいね、ブーツも一緒に綺麗にしておきますから。」


気恥ずかしくなって苦笑するエルステリアを見てなんだかとても嬉しそうにそう言ったマリーは、部屋の鍵を机の上に置きながらサンダルをエルステリアの足元に置いた。


「暫くはこちらを使ってくださいね、それではごゆっくり。」


恭しいお辞儀をして部屋を出て行こうとしたマリーは、しかし何かを思い出し申し訳なさそうな表情を作った。


「ごめんなさい、実は今日はあなたがいらっしゃるまでお客様がいなかったものですから、お客様のための食事を準備していないの。これから用意するとなると遅くなってしまうのですが、外へ食べに行きますか?」

「あぁ、そうなんですね。どうしましょう。」


シャワーを浴びて着替えてしまうと、流石に外へ出るにはそぐわない格好になってしまう。

かといって食事を摂らないのは体力的にも避けるべきだ。

何よりも宿に着いた安心感からか、今は疲労感が増してしまっていた。

思い悩むエルステリアに、マリーは本当に申し訳なさそうに頭を下げる。


「本当にごめんなさいね。私たちが食べるような簡単な物でしたらすぐに用意するのだけれど、流石にお客様に出すようなちゃんとした料理ではないのよ。」

「……それはいわゆる家庭料理というものですか?」


一転してマリンブルーの瞳を輝かせたエルステリアに、マリーは驚いた表情で頷く。


「え、えぇそうですけど、本当に簡単な料理ですよ?」

「構いません、寧ろそういった物の方がありがたいんです。ご迷惑でなければ、私もその家庭料理を味わわせてください。」


エルステリアのその言葉にマリーは驚いて、しかしすぐに気合を入れるように袖をまくり、嬉しそうな笑みを浮かべた。


「うふふ、それなら今日は腕によりをかけて家庭料理を作らせてもらいますね。」

「はい、楽しみにしています。」

「そうと決まれば急がないといけませんね。シャワーを温めておきますから、エルステリアさんも旅の疲れを洗い流してください。」


笑顔で頷くエルステリアを残し、気分の良さそうなマリーは部屋を後にする。

一人になったエルステリアは暫く閉じた扉を眺めた後、鼻歌を歌いながら汚れた服を脱ぎ始めたのだった。





ショートパンツとタンクトップという軽装に着替えたエルステリアは、汚れた服とブーツを持ってシャワー室へ向かっていた。

裸足に履いたサンダルがペタペタと音を立てて、その音が妙に心地よい。

道中野宿する時も含め、こうしてブーツを脱ぎ無防備になることの少ないエルステリアにとっては、こういった感覚さえも嬉しいものだ。

シャワーを浴びるために下ろした髪が、彼女の内心を現すようにふわふわと揺れている。

いつも腰に下げているダガーがないからだろうか、軽い足取りで階段を下り廊下を進んでいく。

幾つかある扉を横目に角を曲がると、浴場と書かれた部屋を見つけた。

男性と女性とに分かれた二つの扉を見て戸を開けばそこは脱衣所になっていて、衣服を入れる籠やタオルが積んである。

部屋には湯気が立ち込めていて、奥にある扉の向こうから何かの物音が聞こえてきた。

その扉が開くと中からマリーが出てきて、エルステリアの姿を認め微笑んだ。


「お待たせしましたね、そろそろ丁度いい温度になっているだろうから、少しずつ出して火傷しないようにしてくださいね。」

「はい、ありがとうございます。」

「ただここのタンクはそれほど大きくないの、だから申し訳ないけれどあまり長時間は浴びることができないけれど。」

「いえ、温かいシャワーを浴びれるだけでも満足ですから。」

「ごめんなさいね。じゃああなたがシャワーを浴びている間に食事の準備をしてきますね。選択する物は籠に入れて隅に寄せておいてください。」


マリーは優しい笑みを浮かべると、すぐに浴場を出て行った。

一人になり大きな鏡台の鏡に映った自分の姿を見て、エルステリアは思わず苦笑した。

普段から旅人にしては軽装過ぎるが、今の自分は一段と軽い。

やはりこの宿で食事を出してもらえることになって良かったと安堵する。

自分自身を意識することは少ないが、流石にこれでは襲ってくれと誘うようなものだろう。


「っと、それよりもそろそろいいのでしたね。」


タンクに水を貯めてそれを加熱する仕組みであれば、放置すればどんどん熱くなってしまう。

エルステリアはさっと服を脱ぐと、汚れている服とブーツを言われた通り籠に入れて隅に寄せ、シャワー室に入った。

小さな室内は天井にシャワーの蛇口があり、壁から飛び出した棚には石鹸が置いてある。

少しだけ蛇口を捻ると、丁度いい温度のお湯が頭上から降り注ぐ。


「あぁ、気持ちいいですね。」


久し振りに浴びるシャワーに思わず目を閉じる。

こうした物が必ずしもあるわけではないからこそ、この町自体が豊かなことがうかがえた。

小さな村や集落などでは、お湯が出るシャワーなど贅沢品だ。

エルステリア自身、何度も森の中の泉などで水浴びをしてきた。

森で彷徨っている間は泉さえ見つからず、何日も水浴びすらできなかったのだ。


「やはり湯浴みというのは良いですね、心まで洗われるようです。」


汚れた体を石鹸で洗いながらつい呟いてしまうほど、彼女の心は踊っていた。

それからお湯が出なくなるまで思う存分シャワーを満喫したエルステリアは、再び部屋着に着替えると、サンダルの音を響かせながら部屋に戻る。

そして濡れた髪をタオルで包むと、思いっきりベッドへとダイブした。

ふかふかの布団が、旅に疲れた彼女の体を優しく受け止め包み込む。

厳しい旅、時には命の危険に晒されることもある中で、こうしたひと時が彼女の楽しみになっているのだ。

石鹸の清潔な香りを吸い込んで、積み重ねた葉や枝のものとは違う柔らかな感触につい笑みがこぼれる。

窓の外からはいまだ賑やかな笑い声が聞こえてきて、先ほどのドワーフたちのように、一日の仕事を終えて良い気分になっているのだろう。

かつての自分を思い出して、寝返りを打ったエルステリアは白い天井を見上げた。


「朝早く起きて、朝食には必ずホットミルクを飲んで、支度をしたら畑を耕し、家畜たちに餌を与えて…。」


穏やかだった村での毎日。

村人たちはみな親しく、困った時には助け合い、豊かとは言えずとも幸せで満ち足りた生活だった。

思い返せばいくらでもあの頃の景色や皆の笑顔が浮かんでくる。

平原を駆け抜ける緑の匂いも、降り注ぐあの暑い日射しも。

太陽は何処で見上げても同じだが、あの村にいた時の日射しは、どこか特別なもののように感じる。


「あぁ、懐かしい記憶です。この宿だからでしょうね。」


ここに来た時に感じた帰ってきたような感覚が、きっと思い出を呼び起こしたのだろうとエルステリアは思う。

家族と呼べる人たちもいた。

今は独りだとしても、あそこはエルステリアにとっての故郷だ。

いつの日か戻ることもあるだろうと考えたところで、彼女はかぶりを振って体を起こす。

そして荷物の中から櫛と小さな瓶を取り出すと、髪の手入れを始めた。

女性らしい生活とは程遠い日常の中で、彼女が唯一続けている女性らしさだ。

櫛で梳かした背中まで伸びた髪に、小瓶から出したオイルを丁寧に塗っていく。

彼女の艶やかなライトブラウンの髪に浸み込んで、更に輝きを増した。

手入れを終え、満足げな表情をしながら道具をしまっていると、部屋の戸を叩く音が響く。

エルステリアが返事をして戸を開けると、そこには一人の女性が立っていた。

身長はエルステリアより小さく、華奢な印象を受ける。

鮮やかに煌めく銀髪とエメラルドグリーンの美しい瞳が、やや幼さの残る綺麗な顔立ちの中で目立っていた。

年の頃は判らないが、エルステリアよりも年下であろう彼女は、少女と言えるような可愛らしさだ。

エルステリアに負けず劣らずのスタイルを持つ少女は、表情を強張らせ緊張しているらしく、エルステリアの顔を見て頬を赤く染めた彼女はそのまま俯いて、何も語らない。

突然の見知らぬ訪問者にエルステリアが動けずにいると、ぎゅっと手を握っている彼女が小さな声で言う。


「あの、お食事の用意ができましたので…。」

「あ、わざわざ呼びに来てくれたのですね、ありがとうございます。」


小さく頷いた少女はもう一度エルステリアを見上げるも、すぐに顔を俯かせてしまった。

人見知りなのかもしれないと思ったエルステリアは、怖がらせないように優しく微笑みかける。


「では案内をお願いできますか?まだ中を見て回っていないので、何処に行けばよいのか判らなくて。」

「は、はい。えっと、ついてきてください。」


すぐに歩き出した少女に従って、エルステリアも後に続く。

目の前で揺れる綺麗な銀髪を眺めながら恐らくは女将の娘だろうと考えるが、しかし女将とは似ていない少女に首を傾げる。

詮索は良くないだろうと考えるのを止めて、エルステリアは少女に話しかけた。


「とっても素敵な宿ですね。なんだか懐かしいような、居心地の良さがあります。」

「……ありがとう、ございます。」

「もしよかったらお名前を聞いてもいいですか?」

「……リィズリット、です。」

「リィズリット、素敵なお名前ですね。」

「………。」


何か気に障ることを言ってしまっただろうかと、返事を返してこない少女にエルステリアは困惑する。

よほどの人見知りなのかもしれないと納得して、黙って後をついていく。

階段を下りて一階に着くと、廊下の向こうから良い匂いが漂ってきていた。

空腹のエルステリアには堪らないその匂いを嗅いで、お腹が鳴らないか冷や冷やしながら辿り着いた扉の前でリィズリットが言う。


「ここです、どうぞ。」


開かれる扉の先に待つ温かな食事を想像して、エルステリアは気持ちを弾ませながら戸をくぐるのだった。

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