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……なつかしい、匂いがする。
ハチミツと、白豆をすり潰した代用乳の匂いだ。
安心できるような、なにかを思い出させてくれるような、やさしい匂い。
…………いや、……待て。
なぜ、僕はこれを懐かしいと判断した。
おかしい。
僕に、そんな匂いに関する記録は存在しないはずだ。
僕に馴染みのある匂いといえば、火薬とオイルと、血と硝煙の混じる戦場のそれだ。
そもそも。
僕は今なにをしている。今までは……なにをしていた。
記憶領域を漁ろうと意識を頭部に集中させると、頬の辺りにわずかな刺激を受け取る。
くすぐったい。という表現が相応しいだろうか。眩しすぎない光を目蓋の隙間から感じる。
そこでゆっくり目を開けると、僕の頬を小さく突っついていたその子が、咲いたばかりの春の花のような笑みを広げた。
「あ、やった……やったぁ……起きた、起きたァアッ‼︎」
その子は何度も何度も両手をあげて喜びを全身で表して、跳ね返るような笑い声と共に僕の首筋を抱くように倒れかかってきた。
「もうさあッ! 起きないかと思ったよ! ああ、でも起きてくれてよかった、嬉しいよ! ぼく、ほんとうに嬉しい!」
まるで、古くからの親友か。家族に対するような口ぶり。そこでなんと返せば良かったのか。そもそも、僕はこの子を知らない。僕の記録領域に、欠片もデータが存在しない。
つまり他人――初対面の相手ということになる。
それはきっと間違いない。記録が書き換えられていなければ、の話だが。
知らない相手のはずなのに、こんなふうに親しげに話しかけられ、擦り寄られれば、誰でも困惑するものだ。少なくとも、僕の処理速度は一瞬ばかり遅延した。だからこう言うしかなかった。
「君は誰?」
「おっ、喋ったァ! きみはだれ? だって、すごいすごい! お喋りもできるんだね!」
質問への回答は望めなかった。代わりに、腹部の上で小さな体が跳ねている。まるで、停止していた旧式家電が再稼働したかのような喜びよう。
「なあ。質問に答えてくれ……あと、そこからどいてくれ」
「おっと、ごめんごめん、ごめんよ。どくからさ、そんかしちょっと、ぼくんこと持ち上げて、車椅子に座らせてもらってもいい?」
言われるまま腹の上にいたその子を抱き上げると、その子が今まで座っていたであろう、小さな手動タイプの車椅子が真横にあることを知った。
どうやら、僕はベッドに寝かされていたらしい。柔らかな寝具から身を起こし、その小さな体をひょいと抱え直して、車椅子へ静かに座らせる。
「オーケー。いいよ、センキュー、お兄さん」
礼はいい。それよりも、まず質問に答えてもらえないだろうか。
「わかったよう。名前でしょ名前、ぼくのことが知りたいんでしょう? 言うよ言う言う、教えてあげちゃう」
手をぱんぱん叩いて、その子はにっこり笑う。
「ぼく、ノルニル。ノルンって呼んで。そいで、お兄さんのお名前は?」
典型的な自己紹介の流れ。聞かれたからには、まあ返すべきか。
「僕は、クロガネシリーズ、モデル・ライジン。機体識別番号315677」
「ん、む、むっ? くろがね、らいじん……さんいち、……ナンテ?」
久々に口にした正式名称は、人には馴染みがなさすぎるものだったのだろう。
「ずいぶん長い名前だね、じゃあ……これからは、ライ君って呼ぶね」
早々に諦められてしまった。
「もう一つ聞いていいか」
いや。一つどころか、いくつか質問させてほしい。
煤けた暖炉に湯気の立ち上るカップ。煮え立つ鍋の音、温かみのある丸太の壁。部屋の隅には古びた木箱や、ランタン、箒、無理やり詰め込んだり、引っ張って雪崩させたような無秩序な本棚。壁には乾燥させた草の束やドライフラワーが吊るされ、窓辺には野花が挿されたひび割れたグラスが置かれていた。
人の気配は薄いのに、随分長く使い込んだような色濃い生活感が染み付いている。現状を把握するには、これ以上の情報を要する。
「うん、いいよ、言葉を喋れる相手なんて、ほんっっっとうにひさびさだから、たくさん話そ!」
「じゃあ、まず。ここはどこ」
「ここはぼくの山小屋さ、あっ、正確に言うと、ぼくのおじいちゃんの山小屋ね、あっでも、おじいちゃんは随分昔に死んじゃったから、今はぼくの山小屋なんだけど……」
「君が僕をここに運んだのか」
「そうだよ。野菜を運ぶ荷車に乗せてね、ずるずるーって。いやー、下り坂じゃなかったら無理だったよ。きみ、すっごい重いんだもん」
「君が見つけた時、僕はどうしていた」
「丘の上に立ってた。動かないままね、ビックリしたよ、最初オバケかと思って」
「僕は、どれくらい眠っていた」
「かれこれ、うーん……そうだね。三百年……くらい、かな?」
さっ――。
「三百年だと⁉︎」
寝耳に水、いやオイルもいいところだった。




