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中継ぎを生きた宰相、涙する

 霜月の月、五日目。昼下がり。

 月の庭の中央の盤石の前に六人が、集まっていた。

 カスパルが盤石の西側に、座っていた。稜がその対面東側に、座った。四人の弟子は盤石から、少し離れた石のベンチに分かれて、座っていた。今日の話は近くで聞くには、重すぎる話になると稜は前夜、伝えていた。四人はそれを、理解していた。

 秋の空は高く、澄んでいた。雲がわずかに、流れていた。

 盤石の、「千年、変わらず」の刻印が午後の光に薄く浮かんで、見えた。

 千年前、初代王アドレアンがここで独立の決意を固めた。五代後の王がここで、王妃の死を嘆いた。七代王クリスがここで、狂気の淵を覗いた。十一代女王シビルがここで、議会創設を決意した。そして百五十年前独立戦争の敗戦の後、ルドヴィク王がここで属国条約への調印を決意した。千年の、王たちの決断の場。この盤石の前に座ることは、その千年の決断の系譜に、自分の決断を、加えることを意味した。アドレアンは独立を、シビルは議会を、ルドヴィクは属国条約を、それぞれの時代の王国の形を、根底から変える決断だった。全ての王が、同じ盤石の前に座った。その盤石は千年、同じ場所にあり、同じ角度で、同じ高さで、歴代の王を迎えた。盤石自体は、何も判断しない。ただ、王の決断を、受け止める。千年の重さは、そこに堆積したのではなくそこから、王たちの決断を、支え続けた。

 今その場に、四十年の宰相カスパルが自分の最深の失敗を打ち明けに来ていた。王ではなく宰相。決断の主体ではなく支えた男。しかし千年の記録の中でカスパルは、王に最も近い距離で四十年仕え続けた宰相として、盤石の前に座る資格を得ていた。稜はその構図を、理解していた。

            ─── ─── ───

 カスパルはしばらく盤石を、見ていた。

 四十年前先代の宰相と同じ場所に立った時のことを、思い出していた。あの時の師は、六十五歳だった。今、自分は七十二歳。師より七年長く、生きていた。

 ようやく、口を開いた。

 「稜殿」

 「はい」

 「──三つ目の話を、始めさせていただきます」

 「どうぞ」

 カスパルは一度深く息を、整えた。

 それから語り始めた。

 「五年前前王ヴィルフレッド陛下が病で、臥せられました」

 「陛下は六十七歳。病は進行が早く、回復の見込みは、ありませんでした」

 「陛下の崩御の、三日前」

 「私は陛下のお部屋に一人で、呼ばれました」

 「陛下はベッドの上で私に、仰いました」

 カスパルの声がわずかに、震えた。

 しかし彼は続けた。

 「『カスパル。次の王を、選んでくれ』」

 「『私にはもう時間が、ない』」

 「『お前の判断を、信じる』」

            ─── ─── ───

 稜は深く頷いた。

 そして静かに問うた。

 「カスパル殿。後継の候補は何人、いらっしゃいましたか」

 「二人でございます」

 「兄のアルデス公当時三十三歳。弟のレオン当時二十八歳」

 「アルデス公は先王の長子。レオンは次子」

 「継承順位ではアルデス公が、上でございました」

 「──しかしあなたはレオンを、選ばれた」

 「はい」

 「理由は、何でございましたか」

 カスパルは長く、沈黙した。

 盤石の刻印を、撫でた。

 そしてゆっくりと答えた。

 アルデス公について。アルデス・ヴィルフレッド・アルヴェリアは、前王ヴィルフレッドの長男。三十三歳で家督を継ぎ、アウリオン北方の領地を治めていた。若い頃から独立戦争の継承戦略を批判し、『父王の独立戦争は五百の兵を無駄に殺した』と公の席で発言したことが王宮内で、静かな波紋を広げた。独立戦争を指揮した前王ヴィルフレッドを、息子アルデスが公然と批判する──それは、王家の継承戦略において、父王の遺志の否定を意味すると、当時の宰相カスパルは判断した。

 カスパルが語る。

 「アルデス公を王にすれば、父王の遺志が否定される。だからレオンを選びました。レオンは父王を尊敬しておられた」

            ─── ─── ───

 稜はカスパルの目を、見ていた。

 四十年の宰相の、青い目の奥で、五年前の判断が今も、動き続けていた。

 稜は静かに応じた。

 「カスパル殿。あなたの判断には、理がございます」

 「前王の遺志を守るための、後継選定。それは宰相として、正しい判断です」

 カスパルは首を、振った。

 「しかし稜殿。後からわかったことが、ございます」

 老宰相の目が、潤んだ。

 アルデス公が独立戦争を批判していたのは、父王を憎んでいたからではなかった。五百の兵の家族を思いやっていたからだった。戦後、アルデス公は、五百の兵の遺族を、個人的に訪問していた。二十年毎年一軒ずつ、遺族を訪ね続けた。誰にも、言わずに。父王の名誉のためではなかった。ただ、一人の王家の男として、民の悲しみに向き合うためだった。カスパルがそれを知ったのは、アルデス公が王位継承から外された後のことだった。

 稜の胸の奥が、冷たくなった。

 ──つまりアルデス公こそが、民の心を、最も深く理解していた。

 アルデス公の批判は父王への憎しみではなく、民への愛から出ていた。表向きの「父王批判」という姿の下に、民と王家の間を繋ごうとする最も真摯な男が、隠れていた。カスパルはその真摯さを見抜けなかった。いや、見抜けなかったというより見ようとしなかった。父王の遺志を守る、という一つの基準で、後継を判断した。その基準の下では、アルデス公の批判は、ただの批判にしか、見えなかった。

 しかしこれはカスパル一人の失敗では、なかった。王宮という場所は個々の家臣の真の動機を見抜く構造を、持っていない。表向きの発言の記録、公式の立場家系図、所領の規模。そうした定量化できる情報で人を評価する仕組みが、王宮の意思決定を千年動かしてきた。定量化できない情報──アルデス公が誰に言わずに二十年続けた遺族訪問のような情報は、王宮の意思決定の外側に常に、置かれていた。

 稜は前世でも、同じ構造を、何度も見てきた。大企業の昇進人事で、数字には出ない、誰も見ていない貢献を続けていた人が、評価されずに、去っていく。数字に出る派手な業績を挙げた人が、昇進していく。その構造を、稜は十五年の間何度も、苦い思いで、見てきた。

 そしてカスパルの後継選定もまた、定量情報と定性情報の、千年の断絶の中で、行われていた。

 カスパルが続けた。

 「父王陛下が崩御される三日前、私が呼ばれた日、陛下は仰いました」

 「『私がやり残したことを次の王に、引き継いでほしい』」

 「『私は、独立を勝ち取った。しかし独立後の民の痛みを十分に、癒せなかった』」

 「陛下はアルデス公を、選ぶことを、期待しておられたのかもしれません」

 「しかしはっきりとは、仰らなかった」

            ─── ─── ───

 稜は深く息を、吐いた。

 そして静かに問うた。

 「カスパル殿。──なぜ陛下ははっきりと仰らなかったのですか」

 カスパルの目が、揺れた。

 「……わかりません」

 「推測は、できます」

 「陛下は私に、選ばせたかったのかもしれない」

 「王が後継を指名するのではなく宰相が後継を選ぶ」

 「その判断そのものが王国の未来への、宰相の責任の、証になる」

 「陛下はそれを私に、与えられたのかもしれません」

 「しかしあなたは、間違えた」

 「はい」

 「私は、間違えました」

 カスパルの目から涙が、落ちた。

 今度は、一筋ではなかった。

 五年抑え込んできたものが、堰を切ったように、流れた。

 盤石の上に涙が次々と落ちた。

 「稜殿」

 「はい」

 「私は……中継ぎの宰相を、生きてきました」

 「先代の宰相からレオン陛下までの、三十七年」

 「その間私は四代の王に、仕えた」

 「しかしどの王にも完全には、仕えきれなかった」

 「ミケランジュ王には、若すぎた」

 「アドラム王には、距離があった」

 「ヴィルフレッド王には独立戦争の陰で、五百の兵を、見落とした」

 「レオン王には選ぶべきでなかった王を、選んでしまった」

 カスパルの声が、震えた。

 「私は中継ぎを、生きてきました」

 「繋ぐだけの宰相。本物の宰相にはなれなかった」

 「──それが私の四十年の、真実でございます」

            ─── ─── ───

 稜は長く、黙っていた。

 盤石の千年の刻印を、見ていた。

 四人の弟子が離れたベンチから、カスパルを、見ていた。

 誰も言葉を発さなかった。

 秋の風が月の庭の杉の葉を揺らした。午後の光が盤石の表面を淡く、照らしていた。カスパルの涙が石の上に小さな水溜まりを、作っていた。千年前アドレアンが決意の涙を流したかもしれない同じ盤石の上に今、七十二歳の老宰相の涙が、溜まっていた。千年の盤石は、王たちの決断だけでなく、宰相たちの、決断できなかった後悔もまた、受け止めていた。いやむしろ、この盤石が本当に受け止めてきたのは、決断の栄光ではなく、決断できなかった重さだったのかもしれなかった。アドレアンの独立の決意も、シビルの議会創設も、ルドヴィクの属国条約も、その背後には、決断できずに苦しんだ時間があった。盤石が受け止めたのは、決断の瞬間ではなくその前の、長い逡巡だった。カスパルの四十年もまた、同じ逡巡の系譜の中に今、加わっていた。

 四人の弟子の反応は、四人それぞれに、違っていた。

 セレネは盤石の隣で姿勢を正したまま、王族として老宰相の涙を見ていた。王女としての教育が十六歳の彼女に、涙を見る姿勢を教えていた。目を逸らさず、言葉を挟まず、ただ受け止める。

 ロッテは目を潤ませていた。書記官助手として四年、カスパルの執務室の書類を、毎日見てきた。その書類の全ての背後に今、告白された四十年があったことを初めて、理解した。

 クロヴィスは帳面を閉じていた。昨夜、稜が「記録するな」と告げたからではなかった。今日の話は、記録するものではないと、十六歳の少年が自分で、判断していた。記録する少年の、記録しない決断。それは、クロヴィスの成長の、一つの節目だった。

 ブランは離れたベンチの端で、カスパルではなく盤石を見ていた。十年の傭兵生活でブランは、多くの老兵の告白を聞いてきた。戦場で死んでいった仲間を思い出せない夜、老兵たちは暖炉の前で、同じように泣いた。ブランはその涙の扱い方を知っていた。黙って隣にいる。それだけだった。傭兵の世界には涙の文法があった。泣く者の涙を、慰めようとしてはならない。涙の理由を、尋ねてはならない。涙の後の言葉を、期待してはならない。ただ隣にいる。涙が止まるのを、待つ。涙が止まったら何事もなかったように翌日の行軍を、始める。それが大陸の傭兵団の千年の、暗黙の掟だった。ブランはその掟を、北のサンミール渓谷で初めて学んだ。十八歳の春、老兵オルゴスが戦場で息子を失った翌朝暖炉の前で、泣いた。ブランは何も言わなかった。ただ隣に座っていた。オルゴスは二時間泣き、それから静かに立ち上がり「ブラン朝飯は食ったか」と聞いた。それが傭兵の、涙の扱い方だった。今月の庭でブランは同じ姿勢で、老宰相の涙を受け止めていた。十年の傭兵生活で学んだ一つの技術が、今日別の文脈で役に立っていた。

 ようやく、稜は口を開いた。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「──中継ぎというのは野球の投手の役割をご存じですか」

 カスパルは首を、傾げた。

 「存じません」

 「前世の私の国の、球技の話でございます」

 「先発投手が序盤を、投げる」

 「抑え投手が最終盤を、投げる」

 「その間の中盤を中継ぎ投手が投げる」

 「……はい」

 「中継ぎ投手は先発の勝ちを、守る」

 「同時に抑え投手にバトンを、渡す」

 「中継ぎが失敗すれば試合は負ける」

 「中継ぎが成功すれば試合は勝つ」

 「しかし中継ぎの名前は歴史に、残らない」

 「先発投手と抑え投手の名前が残る」

            ─── ─── ───

 カスパルは静かに稜を、見ていた。

 「稜殿。なぜ、その話を」

 「あなたの、四十年は」

 「はい」

 「──完璧な中継ぎ、でございます」

 カスパルの目が、広がった。

 「ミケランジュ王という先発を、受け継ぎ」

 「アドラム王という中盤を、繋ぎ」

 「ヴィルフレッド王という独立戦争を、守り」

 「レオン王という次の時代へバトンを渡された」

 「四代の王の間の全ての接続をあなたは四十年かけて行われた」

 「誰がその仕事を、評価するでしょうか」

 「先発投手の勝利と抑え投手の防衛は、華やかです」

 「しかし中継ぎの仕事は誰にも、感謝されない」

 「それでも試合は中継ぎなしには成立しません」

 稜は続けた。

 「あなたが『本物の宰相には、なれなかった』と仰るのは」

 「はい」

 「中継ぎという本物の役割をご自分で軽視されておられるからでございます」

 カスパルの涙が、止まらなかった。

 四十年の自己否定が、溶け始めていた。

 盤石の刻印の上に涙が次々と溜まっていった。

            ─── ─── ───

 稜は続けた。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「レオン王を選ばれたのは誤った判断だったかもしれません」

 「しかしあなたはレオン王を、育ててこられた」

 「即位五年でレオン王は、アウレリア王国の安定した王として民に、受け入れられている」

 「アルデス公が王になっていたら王国はもっと早く、改革されたかもしれない」

 「しかし改革の速度が速すぎて王国が不安定になった、可能性もある」

 「歴史のもしもは誰にも、わかりません」

 「……」

 「わかるのは」

 「はい」

 「あなたが五年レオン王を支え続けたという事実です」

 「それは中継ぎとして最後の見事な投球でございます」

 カスパルはしばらく、泣いていた。

 やがて、涙が止まった。

 七十二歳の宰相の目に新しい光が、宿り始めていた。

 五年抑えてきたものが、流れきった後の、清らかな光。

            ─── ─── ───

 「稜殿」

 「はい」

 「──あなたは私の四十年を言葉で、解いてくださった」

 「解いた、のではございません」

 「違うのですか」

 「はい」

 「あなたご自身が四十年かけて既に解いておられた」

 「ただ解いた結果を言葉にする場がなかっただけでございます」

 「私は場を、提供しました」

 「言葉はあなたご自身のものでございます」

 カスパルは深く頷いた。

 「稜殿」

 「はい」

 「──今、軽うございます」

 「昨夕の『軽うございます』とは、違う軽さでございます」

 「あの時の軽さは机が、空になった軽さ」

 「今の軽さは心が、空になった軽さでございます」

 稜は静かに、微笑んだ。

 「それは、良い軽さでございます」

 「はい」

 「この軽さで残りの人生を、生きてまいります」

            ─── ─── ───

 四人の弟子が、離れたベンチから静かに近づいてきた。

 セレネがカスパルの前に、跪いた。

 「カスパル様」

 「殿下」

 「──アウレリア王家を代表してお礼を、申し上げます」

 「あなたの四十年の、中継ぎを」

 「そして今私たち四人の弟子の前でそれを語ってくださったことを」

 カスパルは慌ててセレネを、立たせようとした。

 しかしセレネは王族の古式に則った深い跪きの姿勢を、崩さなかった。

 ロッテがセレネの隣に、跪いた。

 クロヴィスがセレネの後ろに、跪いた。

 ブランが最後に深く頭を下げた。

 四人の弟子が老宰相の四十年に敬意を、示した。

 カスパルは立ち上がろうとして足が、もつれた。

 稜がそっと彼の腕を、支えた。

 「カスパル殿」

 「稜殿。私は立つことが、できません」

 「今は、座っていてください」

 「はい」

 カスパルはベンチに、座り直した。

 そして四人の弟子を見た。

 四人はまだ跪いていた。

 「お前たち」

 「はい」

 「──お立ちください」

 「お立ちになって私に次の時代の話を、聞かせてください」

 四人はゆっくりと立ち上がった。

            ─── ─── ───

 月の庭の秋の光が六人を、照らしていた。

 盤石の上の涙の跡は既に、乾いていた。

 四十年の重荷がこの庭で、解けた。

 稜は胸の奥で一つ、確信した。

 (──明日この旅の、最後の話を、する)

 (──月の庭の古い盤を使う時が、来た)

 杉の葉がまた揺れた。

 秋の風が盤石の刻印の上を、通り過ぎた。

 千年の変わらぬ場所で、一人の老宰相の四十年が、今静かに完成しようとしていた。

中継ぎを生きた宰相。

「本物の宰相には、なれなかった」と泣くカスパル殿に、

「あなたの四十年は、完璧な中継ぎでございます」と、稜が告げる場面。

書いていて、胸が、熱くなりました。

華やかな先発でも、決定的な抑えでもなく、中継ぎを、生きてきた人。

誰にも、感謝されない役割を、四十年。

そういう人がいなければ、どんな組織も、成立しない。

次話、月の庭の古い盤。和解の最終章です。

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