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古樽屋の、四十二年

 霜月の月、四日目。午後。

 七人は月の庭に、到着した。

 山の稜線を越えて北東の、小さな平地。古い石造りの庭がそこに、ひっそりと在った。

 十畳ほどの、石の庭。中央に一つの、古い盤石。盤石の表面には古代アウレリア語の刻印が薄く、残っていた。「千年、変わらず」と、読めた。盤石の周りに小さな石のベンチが、四つ。北側に清水の湧き出る、小さな石の泉。南側に一本の、古い杉の木。千年同じ場所で、風を受けてきた杉だった。

 この月の庭の由来は冥書庫の最も古い記録層に、断片的に残されていた。千年前、初代王アドレアンが独立の決意を固める前に七日間、ここで瞑想したと伝えられている。王宮の北東、山脈の麓、徒歩で二日半の距離。王都から離れた場所であることに意味があった。千年の王たちは王国の行く末を根底から変える決断の前に、王宮を離れこの庭で瞑想した。王宮の静寂は政務の雑音が堆積した静寂だった。王宮に居る限り王の心は、その雑音から自由にはなれなかった。しかしこの月の庭は千年の雑音を、一度も受け入れていなかった。ここに訪れた人の数は千年で、おそらく百人に満たない。初代王アドレアン、七代王クリス、十一代女王シビル、百五十年前のルドヴィク。四人の王の他には歴代の宰相の、数名のみ。四十年前のカスパルと、その先代の宰相。さらにその先代。宰相の系譜は、二百年ほどしか遡れなかった。二百年以上前の宰相は、この月の庭を訪れていなかった。あるいは訪れた記録が、冥書庫からも失われていた。

 庭の全体が深い静寂に、包まれていた。

 王宮の庭とは、違う静寂。

 アウリオンの書記官室の静寂とも、違う。

 この静寂は千年の時間が、堆積した静寂だった。

 いや、千年の静寂は堆積ではなかった。千年静寂が、磨かれ続けたのだった。訪れた人の数が少なければ少ないほど静寂は、純度を増す。稜はこの庭に入った瞬間、その純度を肌で感じた。そしてこの庭には、一つ興味深い特徴があった。風の音が聞こえるのだった。王宮の庭では風の音はほとんど聞こえない。高い石壁と密集した建物が、風の音を吸収してしまう。しかし月の庭は山の稜線の中腹にあり、四方に開かれていた。杉の葉を揺らす風、遠くの山の谷間を渡る風、地面の石を撫でる低い風。三種類の風の音がこの庭では、独立した音として聞き分けられた。王宮の静寂が「音の不在」だとすれば、月の庭の静寂は「音の純度」だった。杉の葉の風、谷間の風、石を撫でる風──三つの音だけが他の雑音なしに、純粋な形で耳に届く。その音の純度が千年、王たちの決断の前の、心の底の音を浮かび上がらせてきた。稜はこの場所の設計思想を今、理解した。千年前アドレアンがこの庭を選んだ理由が、風の音の聞こえ方にあった。四十年前カスパルがここに来た時も、同じ風の音を聞いていたはずだった。そして今日二度目のカスパルが、四十二年ぶりに同じ風の音を聞いていた。

 七人は庭の入り口で、足を止めた。

 誰もすぐには、中に入ろうとしなかった。

 ヘルムート老兵が深く頭を下げしばらくここを離れる、と告げた。彼は王の許可を得て、月の庭への案内役を任されたが、庭そのものには立ち入らない役目だった。六十八歳の老兵は庭の外の岩場で七日間、野営をする。

 六人だけが月の庭に、入った。

            ─── ─── ───

 カスパルが先に中央の盤石に、近づいた。七十二歳の手が盤石の表面の刻印をそっと撫でた。四十年前先代の宰相と同じ場所に、立ったことがあった。その時の師の温度が、指先にわずかに、蘇った気がした。

 稜はカスパルの少し後ろに、立った。

 四人の弟子は、庭の入り口の近くで静かに待っていた。

 秋の高原の風が杉の葉を、揺らした。

 葉の揺れる音だけが庭に、響いた。

 カスパルは盤石から、離れた。

 そして南側の杉の木の下の、石のベンチに、腰を下ろした。

 稜は対面のベンチに、座った。

 四人の弟子は稜の斜め後ろの、二つのベンチに分かれて、座った。

 六人が、揃った。

 カスパルがゆっくりと口を開いた。

 「稜殿」

 「はい」

 「二つ目の話を、させていただきます」

 「──議会制の、失敗でございますね」

 「はい」

             ─── ─── ───

 カスパルは少し、遠くを見た。

 十五年前の光景を、見ていた。

 「十五年前独立戦争が終わって、五年が経った頃」

 「私は、五十七歳。当時の王ヴィルフレッド陛下も五十七歳」

 「独立後の王国の政体を、見直す時期でございました」

 「戦時中は王の独断で動いていた。しかし平時に独断は危うい」

 「私は議会制の導入を陛下に、提案しました」

 稜は頷いた。

 大陸の他の属国では議会制が、既に導入されていた。ヴェロニア共和国は議会中心サルマティア王国は王と議会の二元制、オスタール公国は公爵議会制。アウレリアだけが王の独断の政体を、保持していた。

 「議会の構成は貴族十二家商人ギルド六家聖職者三家計二十一家」

 「各家が一名を議員として派遣し月に一度、王宮で議会を開く」

 「法案は議会で議決、王が裁可」

 「私が三ヶ月かけて、草案を作成しました」

 「陛下は提案に原則賛成を示された」

 「──しかし失敗した」

 「はい」

 「貴族十二家の六家が、反対に回った」

 「理由は、単純でございました」

 「『議会で議員一人しか出せないのは、家格に見合わない』」

 「『我が家は他家より二倍歴史が古い。議員を二人出すべきだ』」

 カスパルの目が少し細くなった。

 「十二家の中で議員一人議員二人議員三人の、家格争いが始まりました」

 「三ヶ月議論は、膠着」

 「最終的に陛下は議会制を、棚上げされた」

 「貴族の家格争いを収めるより王の独断を続ける方が楽だった」

            ─── ─── ───

 稜は深く頷いた。

 前世の日本でも似た話が、あった。

 戦後の占領下でGHQが、日本の官僚制度の改革を、試みた。しかし各省庁の縦割りの権益を、崩せなかった。結果戦前の官僚制度が、戦後にも大部分、持ち越された。

 理由は、単純だった。

 改革を邪魔する者たちのエネルギーの方が、改革を進める者たちのエネルギーより、強かった。

 改革を進める者は改革の後の、理想の状態をまだ見ていない。エネルギーは想像力から、出る。弱い。

 改革を邪魔する者は改革の前の、既存の利益を今、持っている。エネルギーは喪失への恐怖から、出る。強い。

 この非対称性がほとんどの改革を、潰す。

 アウレリアの十五年前の、議会制の失敗も、同じ構造だった。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「──議会制が失敗した後あなたは何を、されましたか」

 カスパルは少し笑った。

 寂しい、笑みだった。

 「十年前の属国契約の更新、でございます」

 「議会がなければ交渉は王の独断と宰相の補佐で進む」

 「私は四十人の貴族と商人に、個別にヒアリングを行い、全員の意見を陛下に、お伝えしました」

 「しかし四十人の意見を全て盛り込むことは、できない」

 「結果五家の貴族が契約更新に不満を抱きました」

 「五家は今も王宮に不満を、持ち続けている」

 「議会があれば五家は議会の場で議論を尽くせた」

 「議論を尽くしたという事実が不満を、和らげた」

 「しかし議会がなかったため五家は沈黙の不満を十年抱え続けている」

            ─── ─── ───

 稜は静かに、問うた。

 「カスパル殿。十年前の契約更新の時その五家の不満をどう、処理されましたか」

 「処理していないが、答えでございます」

 「五家には個別に、『陛下のご決断に、異議はございませんか』と、問うた」

 「五家は『ご決断を尊重いたします』と答えた」

 「それで処理したことに、なっていた」

 「──しかし本当は、処理されていなかった」

 「はい」

 「『尊重いたします』は、本心ではなかった」

 「しかし表向きは同意した。私はそれ以上追及しなかった」

 「十年が経ち五家の不満は地下で、成長し続けています」

 稜は深く頷いた。

 そして一つの仮説を胸の中で、確かめた。

 (──属国契約の更新日が、近づいている)

 (──五家の不満は更新日に、表面化する)

 (──カスパル殿はそれを、恐れている)

 そして稜はもう一つのことに気づいていた。この議会制の失敗の構造は、前世の稜が十五年で何度も見てきた、組織変革の失敗の典型だった。変革を提案し表向きの合意を取り付けるが、少数派の真の不満は処理されず地下に沈殿する。五年後、十年後、その沈殿が別の文脈で爆発する。前世でも、稜は大手製造業のM&A後の統合で、同じ構造を見た。合併に反対だった幹部の数人が、表向きは協調したが十年後、別の理由で、会社を割った。表向きの合意は、真の合意ではない。この原則を、組織論では「沈黙の不満の地下発酵」と呼ぶ。稜はその原則を、十五年かけて、身体化した。カスパル殿の議会制失敗はまさに、この沈黙の不満が十年、地下で発酵し続けた結果だった。そして次の契約更新日が近づくほど、地下の発酵は発酵から、沸騰へと、変わっていく。稜はこの沸騰の兆候を、どこから感じ取るか、頭の中で、計算し始めていた。五家の貴族の、ここ三ヶ月の動き。彼らの、王宮での、小さな不在。議会を欠席する頻度の微増。書記官室への陳情書の、微妙な文言の変化。これらの全てが沸騰の、早期兆候だった。

 庭の入り口近くでセレネが、静かに稜を見ていた。王女としての教育を受けた十六歳は、カスパルの告白の政治的な重さを、既に理解していた。五家の貴族の名前をセレネは、幼い頃から王家の系譜の中で知っていた。今、その五家の名前が、四十年の宰相の告白の中で改めて、浮かび上がっていた。セレネの表情は、変わっていなかった。しかし手帳のページを繰る指が一瞬、止まった。

 ロッテはセレネの隣で、この話を聞いていた。書記官助手としての四年の経験の中で、五家の名前を、書類の中で何度も見てきた。今、その書類の背景に、四十年の宰相の沈黙があったことを、ロッテは初めて知った。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「──次の属国契約の更新日は、いつでございますか」

 カスパルは少し驚いた顔を、した。

 「稜殿。お気づきでしたか」

 「はい」

 「……三年後でございます」

 「来年の春に予備協議再来年の夏に本協議、三年後の春に、正式更新」

 「それまでに五家の不満を、処理する必要がある」

 「しかし私にはもう時間が、ない」

 「七十五歳で引退を、考えていた」

 「五家の問題を処理せずに引退することはできない」

            ─── ─── ───

 稜は長く、黙っていた。

 月の庭の静寂が六人を、包んでいた。

 杉の葉がまた揺れた。

 秋の風が盤石の刻印の上を、通り過ぎた。

 「カスパル殿」

 「はい」

 「議会制の再提案を私と四人の弟子で、お手伝いさせていただきたい」

 カスパルの目が、広がった。

 「稜殿」

 「はい」

 「それは……十五年前に私が失敗したことを、もう一度やろうと仰るのですか」

 「はい」

 「なぜ、でございますか」

 稜は深く息を、吐いた。

 「十五年前の失敗は、あなたの失敗ではございません」

 「家格争いを避けて議会制を提案したことが失敗でございました」

 「貴族の家格争いは、避けるべきものではない。議会の内部で、処理すべきものでございます」

 「議会の第一条に『家格は議席数に影響しない』と、明記すればいい」

 「家格争いを議会の設立前に収めようとすると永遠に収まらない」

 「しかし議会の中で家格を、議題として扱えば貴族たちは、議会の内部に参加する動機を、持ちます」

 カスパルの目が少し潤んだ。

 「……稜殿。そんなことが、可能なのでございますか」

 「可能でございます。前世似た構造の改革を何度か、設計しました」

            ─── ─── ───

 稜は続けた。

 「ただし条件が、一つ」

 「はい」

 「議会制の再提案はカスパル殿のお名前で、行う」

 「私は案を裏で作る。実名は出さない」

 「十五年前の失敗を成功に変えるのはあなた、でございます」

 「私ではない」

 カスパルは長く稜を、見ていた。

 それから深く頷いた。

 「稜殿。あなたは……私に四十年の、最後の仕事を与えようとしておられる」

 「はい」

 「あなたが七十五歳で引退される時議会制が、あなたの置き土産として王国に、残る」

 「五家の不満は議会の内部で、処理される」

 「三年後の属国契約更新は議会の議論を経て、正式に、行われる」

 「あなたの四十年は、完成する」

 カスパルの目から一筋涙が、落ちた。

 月の庭の盤石の上に、落ちた。

 盤石の、「千年、変わらず」の刻印のすぐ隣に、落ちた。

 「稜殿」

 「はい」

 「──引き受けます」

 「四十年の、最後の仕事として」

 稜は深く頷いた。

            ─── ─── ───

 ブランが稜の後ろで静かに言った。

 「稜殿。議会制の裏方の草案作成は私にお任せください」

 「ブラン殿」

 「はい」

 「交渉人としての私の十年の経験がここで、役に立ちます」

 「大陸各国の議会制度を十年の傭兵生活の中で間近に見てまいりました」

 「ヴェロニアの議会サルマティアの二元制、オスタールの公爵議会」

 「それぞれの長所と短所を整理してアウレリアに適した形を設計いたします」

 稜は深く頷いた。

 ブランの申し出は稜が考えていた以上の、重みがあった。

 十年の傭兵生活の本当の価値がここで初めて、露わになった。

 「クロヴィス」

 「師匠」

 「草案の記録は速記で、取ってくれ」

 「承知いたしました」

 「ロッテ」

 「師匠」

 「十二貴族家と六商人家、三聖職家の家系図と議員候補のプロフィールを、作成してくれ」

 「かしこまりました」

 「殿下」

 「師」

 「──王族の議会への関与の形をお考えください」

 「これはあなた王族の、未来の問題でございます」

 セレネは深く頷いた。

            ─── ─── ───

 夕刻。月の庭の空が赤く、染まり始めていた。

 六人は庭の外の、山小屋に、戻った。

 夕食の前稜はカスパルに、問うた。

 「カスパル殿。議会制の件は王宮に戻ってから、本格的に、動き出します」

 「今夜は、お休みください」

 「明日三つ目の話を、お伺いします」

 カスパルは頷いた。

 そして少し微笑んだ。

 「稜殿。三つ目の話は最も、重うございます」

 「明日まで私の心を整える時間を、いただきたい」

 「もちろんでございます」

             ─── ─── ───

 その夜稜は山小屋の端で、手帳を開いた。

 二つ目の話が、終わった。

 残りは、一つ。

 前王後継選定の、失敗。

 四十年の、最深の重荷。

 手帳に一行、書いた。

 「霜月の月、四日。議会制の告白。そして再提案の約束」

 それからもう一行、書いた。

 「明日、前王後継選定の話。カスパル殿がどう、話されるか」

 ペンを、置いた。

 窓の外月がさらに、欠けていた。

 明日の話は月の庭の、真ん中で行うことになると稜は予感していた。

 三つ目の告白は庭の中心の、盤石の前で、行われるべきだった。

 千年の盤石がその告白を、受け止めるだろう。

            ─── ─── ───

 【同時刻帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎玲は執務室の机の上で、一枚の古い地図を、広げていた。

 アウレリア王国の、地図。

 地図の王宮から北東へ指を、滑らせた。

 指が月の庭の、小さな点で止まった。

 (──稜は今夜月の庭の、山小屋にいる)

 (──明日三つ目の告白を、受けるだろう)

 (──前王ヴィルフレッドの、後継選定の失敗)

 神崎は地図を、閉じた。

 そしてポケットから目薬の瓶を、出した。

 今夜も、差さなかった。

 (──稜。お前はカスパル殿の四十年を、受け取ろうとしている)

 (──受け取るということは四十年の重荷を、自分の肩に、加えるということだ)

 (──お前の肩はもう十分、重い)

 (──それでもお前は、受け取るのか)

 窓の外欠けた月が、帝都の上に、昇っていた。

議会制の、失敗。

十五年前の、家格争いで、潰れた草案。

五家の不満が、地下で、十年、育ってきた。

稜が「議会制の再提案を、あなたのお名前で」と申し出る場面。

「四十年の、最後の仕事」──

この一行を、書きたかったのです。

次話、前王後継選定の、最深の告白。

最も、重い話です。

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