表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/76

元傭兵の、粗野な笑み

 星光の月、十八日目の午前。

 雨が上がった翌朝アウリオン王宮の西の門の前に、一人の男が立っていた。

 身の丈は六尺を超え肩幅は広く、日焼けした皮膚は荒れていた。髪は漆黒で、後ろで一つに結わえていた。左頬に、鋭い古傷が一本。顎から鎖骨に向かって、細い切り傷の跡。着ているのは傭兵が好んで用いる濃緑の革鎧だが、古い。磨き込まれているがあちこちに補修の跡があり、大陸の四方を渡ってきた装備だと一目で分かった。腰には剣、背には弓。

 年齢は、二十代後半から三十代前半。

 門番の衛兵が男の前で、明らかに警戒していた。王宮の正面ではなくわざわざ西門に現れ、しかも身分証を持っていないという。しかし男は礼儀正しく大声も立てず、ただ門の前で立ち止まって待っていた。

 大陸の、傭兵という職業。千年前、アウレリアが属国となる以前、この大陸には六つの王国が乱立していた。戦が絶えず兵を雇う需要が、大陸各地に満ちていた。その時代に生まれた傭兵団は王朝の興亡を横目に、独自の掟と矜持を育てた。雇い主の命令に従うが、雇い主の悪行は拒む。命を売るが、名誉は売らない。剣を振るうが、同じ故郷の者には刃を向けない。こうした暗黙の決まりごとが、大陸全土で緩やかに共有されていた。しかし千年の間に帝国が興り、共和国が勃興し王国が併合を繰り返す中で、傭兵団の役割も変質した。今では傭兵と名乗る者の半数以上が単なる荒くれ者か、あるいは帝国の諜報員の隠れ蓑だった。本物の傭兵──古い掟を守る者たちは大陸の北と西に、数えるほどしか残っていない。そしてその数少ない本物の一人が今、西門の前に立っていた。

 傭兵の矜持の変質について、冥書庫には、一冊の興味深い書が残されていた。『大陸傭兵団変遷史』──四百年前に、当時のアウレリアの学者が、大陸全土の傭兵団を調査して書き残した書物。稜は先月、マテウス院長から借りて、一夜で読み切った。書物は、千年の傭兵団の変遷を、三つの段階に分けていた。第一段階、六王国時代(千年前)。傭兵は独立した職業集団であり、王国と対等に契約を結んだ。契約書の冒頭に、必ず「命より名誉を優先する」と書かれていた。第二段階、帝国勃興期(六百年前〜四百年前)。帝国が大陸を統合するにつれ、傭兵団の独立性は失われていった。帝国軍の下請け化が進み、名誉より契約が、契約より金が、優先されるようになった。第三段階、属国条約期(四百年前〜現代)。大陸が帝国とその属国に再編される中で、本物の傭兵団はほぼ消滅し、残ったのは古い掟を守る少数派の傭兵と、荒くれ者に堕した多数派だった。その書物の最後の章には、こう書かれていた。「本物の傭兵を見分けるには、彼が雇い主を選ぶかを見るべし。雇い主を選ぶ傭兵は、千年の掟を知っている」。西門に立っているブラン・ゼグラルという男は、オルヴァンの話を聞く限り、雇い主を選んできた男だった。十年の傭兵生活で、彼が仕事を断った回数の多さは、大陸の傭兵ギルドで、一種の伝説として語られていた。稜はその伝説を、冥書庫を閉じた後に、港湾区のリリアから間接的に聞いていた。だから今日、ブランに会いに行くことに、稜はある種の期待を、感じていた。

 俺はオルヴァンと二人で、門に向かった。

 三日前、オルヴァンが稜に話を持ってきた。

 「稜殿。俺の古い知人がアウリオンに戻ってきているらしい。傭兵として、大陸を渡っていた男だ。二十八歳。剣も弓も、一流。何より──この男言葉が、恐ろしく速い」

 「言葉が速い」

 「交渉の場で相手が何か言い終わる前に次の三手先を読んで反駁する。傭兵でありながら、交渉役を任されることが多かった」

 「名前は」

 「ブラン。ブラン・ゼグラル」

 「会ってみたい」

 「稜殿がそう仰ると思って、今朝使いを出させてもらった」

 そして今朝、ブラン・ゼグラルが、西門に現れた。

            ─── ─── ───

 門に近づくとブランが俺たちに気づき、わずかに片眉を上げた。

 オルヴァンが先に声を掛けた。

 「ブラン」

 「オルヴァン将軍。お久しぶりでございます」

 「将軍はやめろ」

 ブランはにやりと笑った。粗野な。しかしどこか人懐こい笑みだった。左頬の古傷が笑みに合わせて、わずかに引き攣った。その笑みを見た瞬間、稜は一つの奇妙な既視感に、襲われた。前世、どこかで、似た笑みを、見たことがあった。しかしそれが誰だったのか、稜はすぐには思い出せなかった。この既視感は、この先の物語で、何度か、稜に立ち戻ることになる。十年の傭兵生活を経た男の笑みが、前世のある人物の笑みと、重なっていた。誰か。いずれ、思い出す時が来る。

 「元将軍に敬称を付けずに、どう呼びましょうかねオルヴァン殿」

 オルヴァンも少し笑った。

 十年ぶりの再会と、オルヴァンは言っていた。

 ブランがアウレリアを出て北の大陸を渡り始めたのが、十年前。その前の二年彼はアウレリア軍の補助兵として、オルヴァンの下で訓練を受けていた。十八歳だった。

 今、二十八歳。

 オルヴァンは俺をブランに紹介した。

 「稜殿。王国の戦略顧問。高木稜」

 ブランの視線が、俺に向いた。

 この男の目は、強かった。強いというのは、敵意があるという意味ではない。見ている、という強さだった。十年大陸の四方を傭兵として渡り、多くの雇い主を見てきた男の値踏みの目。しかしそれは失礼な目ではなく相手の本質を見抜こうとする、誠実な目だった。

            ─── ─── ───

 「ブラン・ゼグラルでございます」

 「高木稜です」

 「お噂は聞いております」

 「オルヴァン殿からの使いが三日前に届く前に既に港湾区であなたの話は、広まっておりました」

 「どんな話ですか」

 ブランはまた笑った。

 「『セレスキア商人ギルドの先代の契約書を、覆した男』」

 「『オルヴァン将軍を二十年ぶりに、王宮に戻した男』」

 「『冥書庫の夜の門を開けた男』」

 俺は少し、苦笑した。

 「港湾区の噂は派手ですね」

 「派手でしょう」

 「しかし三つとも事実だそうですな」

 「事実でございます」

 ブランは頷いた。

 「では噂通り本物だ」

 本物という言葉を、ブランは軽くしかし重く発した。

 この男は軽い言葉で重い判断をする男だ、と俺は理解した。それは、傭兵という職業の習性だった。戦場で雇い主の質を、瞬時に見極めなければならない職業。重々しい前置きの後で判断する余裕は、戦場にはない。

            ─── ─── ───

 門の内側に、三人で入った。

 王宮の西庭は、朝日が差し込む静かな場所だった。雨上がりの石畳から湯気が、僅かに立ち上がっていた。春の雨で濡れた葉が朝日で乾き始め、その境目から微かな蒸気を放っていた。

 この西庭は元々、王宮の警備兵の訓練場として百五十年前に造られた場所だった。やがて訓練が北の練兵場に移った後も石畳は残り、石のベンチは残りそして壁際に古い剣立てが、一つだけ、残された。剣立ては長く使われず今は、そこに若い蔦が絡み始めていた。武器が眠る庭。これから武器を置くと宣言する男と話すには、悪くない場所だった。

 稜は西庭の古い石のベンチを、指した。

 「立ち話では、何ですから。座りましょう」

 ブランはベンチに座った。

 その座り方がただ座るのではなく、いつでも立ち上がれる姿勢だった。重心は、やや前。両足は、地面を掴むように置かれていた。十年の傭兵生活が、この男の体に染み付いた座り方。

 俺はその対面に座った。

 オルヴァンは少し離れた位置で、見守る側に立った。

 「ブラン殿。率直にお伺いします」

 「どうぞ」

 「なぜアウリオンに戻ってこられた」

 ブランは少しだけ視線を、下に落とした。

 ベンチの脇の小さな雑草を、見ていた。

 それから顔を上げた。

 「──父が昨年亡くなりました」

 俺は頷いた。

 「母と妹が、残っています。母は六十歳、妹は二十歳」

 「父の借金があります」

 「私が十年、傭兵として稼いだ金では足りなかった」

 「そこで大陸で、最後の大きな仕事を受けました」

 「南方のカルシウム鉱山の採掘権を巡る、三国間の交渉。私はある一国の交渉人として、雇われました」

 「──三ヶ月で纏まりました。私の取り分は、五百銀」

 「借金は返しました」

 「そして母と妹の残りの人生の、生活費も残りました」

 「それは何よりでございました」

 「しかし稜殿」

 「はい」

 「傭兵としての生き方は終わった」

 「もう剣を振るう気も、弓を引く気もありません」

 「残り半生をアウリオンで静かに過ごそうと、帰ってまいりました」

 「──それで西門の前で待っておられた」

 「はい」

 「十年前、追われるように出た門です」

 「戻る時もこの門から入りたかった」

 「オルヴァン殿が私を見つけて、王宮へ呼んでくださったのは偶然でございます」

             ─── ─── ───

 俺はしばらく、ブランを見ていた。

 この男は、嘘を吐いていない。それは傭兵の姿勢と、声の抑揚と視線の動きから明らかだった。しかし、全てを語ってもいなかった。語らなかったもう一つの層が、確かにこの男の中にあった。

 稜はあえてその層には、触れなかった。

 代わりに一つだけ、別の問いを投げた。

 「ブラン殿」

 「はい」

 「傭兵の仕事では交渉人を、任されることが多かったそうですね」

 ブランの目が少し広がった。

 「オルヴァン殿にお聞きに」

 「はい」

 「なぜ交渉人だったのですか」

 「……」

 「剣が振るえるなら剣の仕事の方が、稼げる。しかしあなたは十年のうち、七年を交渉人として過ごしてこられた」

 「なぜですか」

 ブランは長く、黙っていた。

 西庭の朝日が少しずつ、高くなり石畳の色を明るく変えていった。

 彼はようやく答えた。

 「──剣を振るうと誰かが死にます」

 「交渉で纏めれば誰も死なない」

 「それだけでございます」

 俺は深く頷いた。

 剣を振るうと誰かが死ぬ、という一行。

 この男の十年の全てが、この一行に凝縮されていた。

 稜はこの男を欲しい、と感じた。

 しかしまだ話す時ではなかった。

            ─── ─── ───

 「ブラン殿」

 「はい」

 「もう一つお伺いします」

 「どうぞ」

 「南方のカルシウム鉱山の交渉で三ヶ月で纏めた、と仰いましたね」

 「その時の決定打は何でしたか」

 ブランは少し、考えた。

 「──三国とも本当に欲しかったのは、鉱山そのものではなかった」

 「鉱山は表向きの争点でした」

 「本当の争点は鉱山の南にある、海運路でした」

 「三国は海運路を巡って、鉱山の権利を争っていた」

 「私は各国の、本当の目的を聞き出した」

 「そして海運路の使用権を三国で分けて鉱山は一国に集中させるという案を、出しました」

 「三国とも喜んで同意しました」

 俺は深く頷いた。

 この男は本当の問いを、見抜くことができる。

 表の争点と真の争点を分けて考える技術は前世のコンサルの世界では、イシュー設定と呼ばれた。目の前の議題が本当の問いかどうかを、常に疑う。クライアントが「売上を上げたい」と言った時本当に解決すべきは売上ではなく、利益率の構造あるいは組織の意思決定の遅さ、あるいは経営陣の世代交代の不在──という具合に、表の課題の裏に潜む真の課題を見抜く。それができる人間とできない人間の間にコンサルタントとしての実力の、最大の差があった。稜は十五年この技を磨いた。高樹さんから叩き込まれ、何十件もの失敗を経てようやく身体化した技だった。

 その技を今目の前の男が、十年の傭兵生活の中で独学で、身につけていた。

 大陸の傭兵の世界に、本当の争点を見抜くという訓練があったとは思えなかった。ブランは戦場の現実の中でこの技を、磨いたのだった。交渉を纏めなければ、誰かが死ぬ。表向きの争点だけを議論していては、纏まらない。だから、本当の争点を探す。その切迫感の中で、彼はこの技を体得していた。

 まさか異世界で同じ技を持つ男に出会うとは、思っていなかった。

 稜はブランに深く一礼した。

 「ブラン殿」

 「はい」

 「あなたは傭兵ではありません」

 「本物の交渉人でいらっしゃる」

            ─── ─── ───

 ブランが驚いた顔をした。

 しかしその顔は、すぐに少し寂しげな笑みに変わった。

 「稜殿」

 「はい」

 「交渉人と呼ばれるのは初めてでございます」

 「傭兵の世界では交渉が上手くても、剣が抜けない男と呼ばれます」

 「大陸の流儀ですね」

 「はい」

 「しかし私は違う評価をします」

 「ブラン殿。私の下で剣を振るわずに、王国を守る仕事をしていただけませんか」

 ブランは長く、俺を見た。その目は、先ほどの値踏みの目ではなかった。何か、別のものを、見ようとしている目だった。自分自身の十年を、見直している目だった。大陸を渡り歩いた十年の、無数の情景が、ブランの脳裏を通り過ぎているのが、稜には分かった。北のサンミール渓谷で初めて剣を抜いた日。東のペンドラゴン湿地で、三日三晩の野営。西のカルシウム鉱山の、三国間交渉の長い夜。そして故郷アウレリアを出る前夜、幼馴染の娘に告げた「必ず帰る」という言葉。その十年の全てが、今、北の小庭に立ち戻ろうとしていた一人の男の中で、再編成されようとしていた。剣を振るう生き方を、言葉で守る生き方に置き換える。それは、十年の経験の全てを、一度、否定することではなかった。十年の経験を、別の文法で読み直すことだった。稜の申し出は、ブランに対して、その読み直しを、許可していた。いや、促していた。ブランはそれを、肌で感じていた。この十年を否定せずに、新しい道へ進める。そのことの稀有さを、この元傭兵は、知っていた。

 「稜殿」

 「はい」

 「私は母と、妹と静かに暮らそうと戻ってまいりました」

 「分かります」

 「しかし──」

 「はい」

 「稜殿のお話は拒むにはあまりに重い」

 俺は頷いた。

 そしてもう一つ言葉を、添えた。

 「ブラン殿。返事は一週間、お考えください」

 「母上と妹さんとご相談ください」

 「一週間後もう一度ここで、お会いしましょう」

 ブランは立ち上がった。

 そして深く頭を下げた。

 「──謹んで一週間、考えさせていただきます」

            ─── ─── ───

 西門を、ブランが出ていった。

 オルヴァンが俺の隣に、歩み寄った。

 「稜殿。あの男は来る」

 「そうお思いですか」

 「十年傭兵を続けた男が、『剣を振るうと、誰かが死ぬ』と、口にするのを見た」

 「──あの男はもう戻れない場所に立っておる」

 「稜殿が新しい道を、示された。一週間後必ず、来る」

 俺は頷いた。

 オルヴァンの軍人としての、人を見る目を俺は信じていた。

 「オルヴァン殿」

 「ん」

 「ブラン殿の語らなかった、もう一つの層をご存じですか」

 オルヴァンは少し、驚いた顔をした。

 「──気づかれましたか」

 「はい」

 「十年前ブランがアウレリアを出た時、彼の婚約者がいました」

 「同じ下町の幼馴染の娘でした」

 「ブランが傭兵として出発する前夜娘は、ブランに告げました。『帰ってきてくれ。必ず、帰ってきてくれ』と」

 「ブランは『必ず帰る』と、答えました」

 「──五年後娘は別の男と結婚しました」

 「一年前娘は、流行り病で亡くなりました」

 「ブランは葬儀に間に合いませんでした」

 俺は沈黙した。

 西庭の朝日がすっかり、高く昇っていた。

 石畳の湯気はもう消えていた。

 「オルヴァン殿。ブラン殿は母と妹のためだけに、戻られたのではないのですね」

 「──はい」

 「戻れなかった過去のために、戻って来られた」

 稜は深く頷いた。

 この男のもう一つの層が、見えた。

 剣を振るうと誰かが死ぬという一行の裏側に既に死んだ一人の女性の影が、あった。

 そしてその影はブランの中で、まだ生きていた。

            ─── ─── ───

 その日の夜俺が第一の間で手帳を開いていると、扉が軽く、叩かれた。

 セレネが入ってきた。

 青いドレスではなかった。夜の、白い部屋着。髪は、寝る前の、緩い三つ編みに解かれていた。少女らしい、無防備な姿だった。しかし目は王女としての、鋭さを保っていた。

 「師」

 「殿下」

 「──昼間、西門に、ブランという男が、来たそうですね」

 俺は頷いた。王宮の情報は思っていたより、速く伝わっていた。

 「十年前、アウレリアを出た、傭兵でございます」

 「私は、今日、冥書庫に立ち寄りました」

 「マテウス院長から大陸の傭兵文化について、古い書を、借りてまいりました」

 セレネは小脇に抱えていた一冊の古書を、卓の上に置いた。

 『大陸傭兵団の掟』──古代アウレリア語で、表紙に書かれていた。

 セレネの指が古書の表紙を、そっと撫でた。

 細い指の節が蝋燭の光で、淡く浮かんで見えた。夜の風が窓から微かに入り、彼女の三つ編みの先を、少しだけ揺らした。

 白い部屋着の袖の縁から、細い手首が覗いていた。人質時代に手首を痛めた時の、古い傷が、左の手首に一筋、残っていた。普段は袖で隠されている傷。それが今夜は、古書を差し出す仕草の角度で、見えた。十二歳の夏、ヴィスカルトに扉を一時間叩かれた日の、何日か前に、同じ男に掴まれた跡だった。稜はその傷を、見ていないふりをした。しかし見たことは、セレネの目が、気づいていた。彼女は、袖を直さなかった。そのまま、古書を、稜の前に置いた。この、袖を直さなかったこと。それは、セレネが稜を、王女としてではなく、一人の弟子として、扱うことを、無言で、許した瞬間だった。

 「師の新しい弟子候補について私も、学んでおきたいと、思いました」

 俺は少し目を、見開いた。

 「殿下」

 「はい」

 「──あなたは速い」

 セレネの頬が朝焼けの色に、染まった。

 しかし今度は涙は、出なかった。

 代わりに彼女は微かに、笑った。

 師の、「速い」という一言が十六歳の少女に、今まで受けたどんな褒め言葉より、深く届いた瞬間だった。

 「師」

 「はい」

 「私速記を毎晩一時間、練習しております」

 「今夜、五十の記号を習得いたしました」

 俺は深く頷いた。

 王女が深夜に一人で、速記を練習している姿を、想像した。

 月の光の下でペンを握る、細い指。

 八年間、人質時代に日記を書き続けた手が今新しい武器を、握ろうとしていた。

 「殿下」

 「はい」

 「──本当に速い」

 セレネはもう一度、微かに笑った。

 そして、「おやすみなさい」と、一礼して、部屋を出て行った。

 俺はしばらく扉を、見つめていた。

 弟子を育てるという仕事の、報酬のようなものが、胸の中に静かに広がっていた。

            ─── ─── ───

 【同時刻、帝都ヴェルデン、皇宮】

 神崎玲は、執務室の窓を開けていた。窓の外には、ヴェルデン帝都の東地区が広がっていた。三百年前、ハーゲン帝国がヴェロニアを属国化した時、戦勝記念として建てられた「東勝塔」が、夕闇の中で、黒い尖塔として見えていた。神崎はその塔を、毎晩、見る習慣があった。塔は、帝国が千年かけて築き上げた、属国支配の記念碑だった。そしてこの帝国の中心で、神崎は属国の参謀・稜の動きを、監視していた。塔と、塔を見る男。それは、帝国の支配の象徴と、支配の中で自由に動く男の、構図だった。

 夜風が、帝都の街並みの匂いを、室内に、運んでいた。石畳の匂い、パン屋の夜焼きの匂い、遠い噴水の匂い。大陸の北の、都市の夜。

 机の上に、一枚の、新しい報告書が、置かれていた。

 「アウリオン王宮。ブラン・ゼグラル、元傭兵、王宮西門に到着。高木稜殿と面談。正式仕官は一週間後」

 神崎は報告書を、二度、読んだ。

 そして目を閉じた。

 (──稜。お前、傭兵まで、弟子にするのか)

 (──四人目の弟子は、剣を置いた男か)

 (──お前の、集め方は、前世の師と、まるで同じだ)

 神崎は目を、開けた。

 窓の外、帝都の夜空に、アウリオンと同じ月が、昇り始めていた。

 月の形は、同じだった。しかし神崎の見ている月と、稜が見ているであろう月は微かに位置が、違っていた。

 それが、二人の、距離だった。

ブラン・ゼグラル。二十八歳、元傭兵。

「剣を振るうと、誰かが死ぬ」という、この男の一行を、書きたかったのです。

粗野な笑みの裏側に、既に死んだ一人の女性の影がある。

「語らなかった、もう一つの層」──

人は、最初から全てを語りません。物語は、語られなかった層を、少しずつ、照らしていく営みだと思っています。

次話、ブランの返事が、届きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ