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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第235話:夕暮れの審判


男は、ためらった。


だから――

俺は、手を伸ばした。


掴んで、

引っ張り上げた。


力任せだ。

優しさなんて、考えてない。


ただ――

落ちきる前に、引き戻した。


次の瞬間。


世界が、変わった。


音が消え、

潮風が吹いた。


気づけば、

足元は――砂だった。


夕暮れの浜辺。


赤く染まる空。

波が、静かに寄せては返す。


俺達は、立っている。


……覚えがあるような。

でも、はっきりと思い出せない。


それなのに。


懐かしい。


胸の奥が、

理由もなく、きゅっと縮む。


「……どこだっけか……」


誰に向けたでもない言葉が、零れた。


その時。


少し離れた場所に――

一人、女が立っていた。


逆光。


輪郭だけが先に目に入る。


長い髪。

細い肩。

波打ち際に立つ、影。


近づくにつれて、

顔が見える。


俺は、何も感じなかった。


綺麗だとか、

懐かしいとか、

そういう感想は――浮かばない。


ただ、

隣に立つ男の呼吸が、

ほんの一瞬、止まったのが分かった。


彼女は、立ち止まらない。


砂を踏む音が、

やけに静かに響く。


波の音に、

溶けるように混じりながら――

まっすぐ、こちらへ歩いてくる。


距離が縮まる。


逆光が薄れ、

表情がはっきりする。


穏やかな顔だ。

でも、笑ってはいない。


泣いてもいない。


ただ、

長い時間を越えてきた人間の目をしている。


彼女は、

俺ではなく――


男の方を見た。


視線が、

正確に、隣へ向く。


そして、

ゆっくりと口を開いた。


「……エイン」


名前だけだった。


責めるでもなく、

問い詰めるでもなく、

懐かしさを装うでもない。


呼んだ、というより――

確認した、に近い声音。


エインの身体が、

わずかに強張る。


返事は、ない。


俺は一歩、引いた。


会話の輪から外れるためじゃない。

邪魔をしないためだ。


これは、

俺の時間じゃない。


千年分、

止まったままだった二人の時間だ。


マルナは、歩みを止めた。


手の届く距離。


それでも、

触れようとはしない。


「……やっと、話せるね」


ようやく、

感情が混じる。


責める声じゃない。

許す声でもない。


生きている人間が、

生きている人間に向ける、

当たり前の声だ。


エインの喉が鳴る。


音だけが、出た。


「……俺は……」


言葉にならない。

それでも、無理やり押し出す。


「選ばれなかったんだと思った」


声が、低く震える。


「世界に……お前にとって、

 一番に必要とされなかったんだって」


拳が、握られる。

砂が、指の隙間から零れ落ちる。


「だから……壊せば、戻ると思った」


吐き出すように言った。


「世界が間違ってたって、

 全部、嘘だったって……

 そうじゃなきゃ、俺が……」


声が、詰まる。


マルナは、

それを遮らない。


ただ、

一歩だけ近づいた。


逃げられない距離。


「エイン」


名前を呼ぶ。


今度は、

確認じゃない。


「あなたは、選ばれなかったんじゃない」


静かな声。


「あなたが、選ばなかったの」


エインの肩が、跳ねた。


「……何を、だ」


「信じることを」


即答だった。


「私を。

 世界を。

 そして――あなた自身を」


「ふざけるな……!」


掠れた声が、荒れる。


「俺は……信じてたから……!

 信じてたから、壊れたんだ……!」


マルナは、

小さく息を吸う。


そして――


「ううん」


否定は、それだけ。


「あなたは、壊れたんじゃない」


告げる。


「私を、置いていったの」


その言葉が、

はっきりと刺さった。


エインの膝が、

砂に落ちる。


声が、出ない。


マルナは続ける。


責めない。

でも、逃がさない。


「私は、あなたを信じすぎた…」


波の音が、強くなる。


「信じるって言葉を盾にして、

 何も話さなかった」


「一緒に悩むことも、

 一緒に選ぶことも……

 全部、あなたに背負わせた」


視線が、

ほんの一瞬、揺れた。


「だから……同罪」


短い一言。


「あなたは、私を取り戻すために

 世界を壊した。


 私は、あなたを生かすために

 あなたを置いていった」


夕暮れの光が、

二人の影を重ねる。


「だからこそ――」


マルナは、はっきりと言った。


「今の私は、

 あなたを愛さない」


エインの息が、止まる。


「認めない。

 赦さない」


冷たいわけじゃない。

逃げ道を塞ぐ声。


「あなたが壊した世界と、

 私が壊したあなたの心…。


 それを背負わない限り、

 私たちは、やり直せない」


エインの顔が、

崩れた。


嗚咽が、漏れる。

千年分の後悔が、

今になって溢れ出る。


「……どうすれば……」


絞り出す声。


マルナは、

答えを急がない。


泣き切るまで、待つ。


そして――


「生きて」


短く、逃げ場のない声。


「この世界で。

 逃げずに。

 選び続けて、誰かを守る……私の知っている、カッコいいエインとして」


マルナは少しだけ微笑んだ後、

わずかな笑みとともに目を閉じて告げる……


「それが、あなたの罪滅ぼし」


エインは、何も言えなかった。


口を開こうとして、

喉が鳴って――

音にならない。


拳を握りしめたまま、

指先が震える。


否定も。


覚悟も。


言葉にすれば、

どれも嘘になる気がして。


マルナは、続ける。


「もし、それが出来たなら」


ほんの一瞬だけ、

声が揺れた。


「その時にだけ、

 私があなたを“見る”かどうかを選ぶ」


約束じゃない。

希望でもない。


「それまでは――」


視線を逸らす。


「私は、あなたを愛さない」


エインの肩が、

大きく跳ねた。


息を吸おうとして、

肺が言うことをきかない。


「……っ」


声にならない音が漏れる。


膝が、

砂に落ちた。


耐えるように俯いて、

それでも顔を覆えず、

涙だけが――落ちる。


嗚咽は、出ない。


泣き声も、出ない。


ただ、

呼吸が壊れていく。


千年分、

止め続けてきた後悔が、

今になって、

身体だけを通って流れ出す。


マルナは、

それを見届ける。


慰めない。

近づかない。


それが、

彼女の選んだ距離だった。


しばらくして――


エインは、

何度も息を吸って、

ようやく顔を上げた。


濡れた目で、

何かを言おうとして――

やめる。


代わりに、

小さく、首を振った。


肯定じゃない。

否定でもない。


「……」


何も言えないまま、

ただ、俯いた。


マルナは、

その背中に背を向けた。


去るでもなく、

消えるでもなく。


ただ、

夕暮れの浜辺に立ったまま。


それが、

赦しではないことを、

はっきりと示すように。


波の音だけが、

二人の間を行き来していた。


そして。


マルナは、

そのまま――エインの横を通り過ぎた。


振り返らない。

足を止めない。


泣き伏した背中に、

一切の視線を与えず。


砂を踏む音だけが、

静かに近づいてくる。


俺の前で、

マルナは立ち止まった。


距離は一歩分。


近すぎず、

遠すぎない。


俺は、

特別な感情も込めずに言った。


「……これで望み通りか?アーリア?」


マルナは、

ほんの少しだけ目を伏せた。


考えるように、

間を置いて。


それから、

小さく頷く。


「ええ」


その返事の直後。


マルナの輪郭が――揺れた。


逆光の中で、

“塗り替えられる”みたいに。


髪の色が淡くほどけ、

首筋が白く透ける。


服の質感が変わり、

肩口に、見えない布が垂れたような気配がする。


顔は――

半分、影に隠れる。


まるで、

見せたいところだけ残して、

あとは世界が勝手に隠したみたいに。


俺は舌打ちした。


「……やっぱそれかよ」


波の音が、遠のく。


いや――

俺の方が、現実から少しずれてる。


視界の端で、

リュカとシアが顔を見合わせた。


俺は、アーリアを見据える。


「ここまで来て、俺に女神ごっこか?」


言葉が、勝手に尖る。


止められない。


「おまえさ――俺のことを“バカ”だと思いすぎだろ?」


アーリアは答えない。


顔を隠したまま、

ただ立っている。


それが余計に腹立つ。


俺は一歩、踏み込んだ。


「バレバレだ」


吐き捨てる。


「分体がどうこうとか、そういう話に……」


言いかけて、止める。


――違う。


今はまだ、

そこまで言う必要はない。


ただ、

一番腹が立つ“疑問”だけを投げる。


「そもそもだ」


俺は指で空を指す。


「なんで、どこの誰かも分かんねぇ女神様が、

 俺なんかを転生させる?」


言葉が強くなる。


「船までくれちまってよ」


アーリアの肩が、

ほんの僅かに揺れた。


それが笑いなのか、

溜息なのか、

分からない。


次の瞬間――


彼女の姿が、

もう一度、ほどけた。


今度は、

もっと“近い”形に。


俺の喉の奥が、 熱を持つ。


髪が伸び、

頬の線が変わり、

目の形が――


“あいつ”になる。


俺の世界の、

俺の記憶の、

一番やわらかい場所に居座っていた顔。


「……え?」「ルミナ?」


二人が驚くのも無理はない。

髪と目の色が違えど、瓜二つすぎるから。


「……えへへ」


軽い声。


「バレてた?」


俺は鼻で笑う。


「なんとなくな」


視線を逸らさず言う。


「最初から、やたらめったら俺に何か持たせようとするとこ、

 面倒事押し付けてくるくせに、放っとけない顔してるとこ」


一個ずつ、思い出の片隅から出てきた。


「そのくせ……

 こっちを“よく見てる”とこ……昔から変わらねぇ」


悪びれもせずにそいつは頷いた。


「あはは〜」


笑い声が、波に溶ける。


「だって、心配なんだも〜ん」


「はぁ……」


溜息が、勝手に出た。


「なんで、とか今さら言わねぇよ」


言いながら、

視界の端に二人が入る。


リュカとシアはまだ動けない。


あいつらからすりゃ、

“ルミナが目の前に出てきた”にしか見えない。


――そりゃ固まる。


「おい」


二人がびくっと反応する。


「落ち着け。そいつはルミナじゃねぇ」


リュカが、喉を鳴らす。


「で、でも……顔が……」

「同じ……」


「同じなだけだ」


言い切ると、

リュカは口を開きかけて、閉じた。


シアは、眉をひそめたまま、

目の前の女を見ている。


――頭では分かっても、

感情が追いつかない顔だ。


俺はアーリアに戻す。


「で?」


短く問う。


「……まだ、心配か?」


俺がそう聞くと、

彼女は一瞬だけ言葉を探すみたいに目を伏せた。


「少しだけね」


軽く、でも正直な声。


それから、ふっと笑う。


「でも、そういうのはもうやめたんだ」


俺は眉を上げる。


「だってさ」


彼女は一歩近づいて、

――ためらいもなく、俺の背中を叩いた。


ぱん、と乾いた音。


「今のあんた、幸せそうだし!」


背中を叩かれて、俺は何も返さなかった。


そのまま、

彼女は俺の横を一歩だけ外れて――

視線を、後ろへ向けた。


リュカとシアだ。


二人は、まだ固まったまま立っている。

視線は揺れて、警戒と困惑と戸惑いが全部混じっている顔。


彼女は、そんな二人を見て、

くすっと笑った。


「ふふ」


それから、少しだけ照れたように言う。


「……二人ともさ」


間を置く。


「こいつのこと、好きになってくれてありがとう」


リュカの目が見開かれる。

シアが、息を呑む。


「え、えっと……!?」

「わ、私たちは……!」


「知ってる知ってる!」


軽く手を振って、遮る。


「最初はさ、正直どうなるかと思ってたんだよ? 。

 こいつ無愛想だし、面倒くさがりだし、自己評価低いくせに無駄に無茶するし」


俺が眉をひそめる。


「おい」


「はいはい、黙ってて」


即座に却下。


「でもね」


声が、ほんの少しだけ落ち着く。


「それでも――

 この人、ちゃんと誰かを守ろうとするでしょ?」


リュカとシアを、

まっすぐ見る。


「自分が傷つくのは後回しで、

 置いていかれるの、ほんとは一番怖いくせに」


二人は何も言えない。


彼女は、にやっと笑った。


「だからさ」


一歩よる。


「これからは、二人の番」


軽い口調。

でも、逃げ道はない。


「振り回されると思うよ?

 ムカつくことも多いし、勝手に背負い込むし。

 ……でも」


最後だけ、

少しだけ、真剣になる。


「それでも、見捨てないであげて、

 叱っていいし、引っ張っていいし、

 たまには置いていってもいい」


小さく、肩をすくめる。


「ちゃんと、帰る場所だけは残してあげて」


リュカの唇が震えた。

シアは、ぎゅっと拳を握る。


「……お願いします」


そう言って、

彼女は頭を下げた。

軽く、でも確かに――頼んだ。


それから、ちらっと俺を見る。


「ほら」


悪戯っぽく。


「こういうとこだよ、あんた」


俺は溜息をついた。


「はぁ……余計なお世話だ。

 それに今言ったこと、あらかたされてるよ…。

 …殴られるわ説教されるわ」


「ふふ、知ってる」


波の音が、また戻ってくる。


彼女は、それ以上何も言わなかった。


……と思ったのに。


ふいに、何か思い出したみたいに首を傾げる。


「あ」


間の抜けた声。


「そういえばさ」


俺の横顔を覗き込んで、にやっと笑った。


「ここにいるの、二人だけじゃないんだった」


嫌な予感しかしない。


俺が目を逸らした、その瞬間。


「ねぇねぇ」


わざとらしく、声が甘くなる。


「あんた、エレナちゃんのことガチで好きだったよね〜?」


来た。


リュカが即座に吹き出す。


「今さら? それ、共通認識だろ」


シアも、腕を組んだまま淡々と頷く。


「ええ、隠してもいませんでしたし」


「……おい」


俺の声が低くなる。


「今ここで掘り返す話じゃねぇだろ」


「え〜? いいじゃんいいじゃん」


アーリアは悪びれもせず、肩を揺らして笑う。


「だってさ、私が“この世界で幸せになれ”って押し出したのに、

 最初に全力で見つけたの、そこだったんだもん」


「……うるせぇ。お前が影に俺のネガティブ押し付けてくれたおかげでな」


顔を背けると、即座に追撃が来る。

リュカが指を立てる。


「ほら、今の完全に照れてるやつだぜ〜?」

「照れてねぇ!」


「すねてるすねてる!」

「すねてねぇ!」


即答したのに。


「……素直じゃないところも含めて、ですよね」


シアが静かに補足する。


俺は天を仰いだ。


「あー……お前ら、示し合わせたか?」


アーリアが即答。


「今はあんたをいじる時間」


リュカが楽しそうに頷く。


「こういうときだけ無駄に真面目なんだよな〜」


「……好きとかそういうのを、軽く言うな」


それだけ言って、俺は口を閉じた。


一瞬、沈黙。

――でも、重くはならない。


「はいはい」


アーリアが満足そうに頷く。


「そういうとこだよ」


シアも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「分かってます。だから、からかっているんです」


リュカは肩をすくめる。


「愛されてんなぁ、コール?」


「ッ……はぁ〜」


波の音が、ようやく自然に戻ってくる。


夕暮れの浜辺で。


俺だけが、完全に包囲されていた。

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