第232話:世界の軋む音
――ギィ……ン。
金属が軋む音じゃない。
骨でもない。
“世界”が鳴っている。
視界は、黒い。
いや、黒じゃない。
黒い“何か”が、俺の視界を塗り潰している。
爪。
黒い爪が、
目の前の“何か”に食い込んでいる。
グシャ。
柔らかい。
熱い。
赤い。
……誰だ。
誰のだ。
分からない。
分からないのに、
胸の奥だけが――痛い。
「ォオオオオッッッ!!」
声が出た。
俺の喉から出たのか、
俺じゃないものが出したのか、
もう区別がつかない。
爪が、裂く。
肉が裂け、
石が裂け、
影が裂け、
――世界が裂ける。
ーーーーー
――波の音。
潮の匂い。
眩しい。
白い砂。
青い空。
浜辺に、
黒い髪の女の子がいた。
笑っている。
歯が見えるほど、笑っている。
俺は――
その笑顔を、知っている。
喉が熱い。
呼吸が詰まる。
名前が、喉の奥で引っかかる。
(……っ)
言え。
呼べ。
――呼べよ。
なのに。
口が開くのに……、
出たのは、声じゃない。
「――――――――――」
音にならない。
笑顔が、遠ざかる。
砂浜が、黒く滲む。
波が、黒く濁る。
影が、海を飲む。
ーーーーー
――ガン。
衝撃。
背中が砕けた気がした。
でも、痛みは“途中”で消えた。
影が、
肉の代わりに――埋めていく。
骨の代わりに――組み上げていく。
血の代わりに――流れていく。
俺は倒れない。
倒れる意味がない。
視界の端に、赤い刃。
厄災。
あいつが、
俺を見ている。
俺も――見ている。
目が合った瞬間、
“考え”が死んだ。
代わりに、
衝動だけが残った。
……殺せ。
……壊せ。
……引き裂け。
胸の奥の穴を、
そいつの中身で埋めろ。
ーーーーー
舌打ちの音。
「チッ」
その音だけが、やけに鮮明で。
次の瞬間、
腹の奥に“石”が刺さった感覚が来る。
血が飛ぶ。
喉が裂ける。
なのに――
リュカの顔が笑った気がした。
「……お前がな!!」
言ってる。
言ってるのに、
声が聞こえない。
聞こえないまま、
俺の視界が黒く染まる。
ーーーーー
叫び。
「リュカァァァ!!」
その叫びで、
世界が割れた。
割れた世界の破片の中で、
シアが走っている。
無防備に。
まっすぐに。
俺は――叫んでいる。
「やめろ!! やめろォォォ!!」
なのに足が動かない。
動かないんじゃない。
もう“人間の足”が、そこにない。
ーーーーー
瓦礫。
焦げた土。
熱。
臭い。
黒い腕が、俺の左から伸びている。
左腕じゃない。
腕の形をした――影。
関節が逆に折れている。
爪が、骨みたいに尖っている。
俺はそれを――気持ち悪いと思わない。
それが普通だと思っている。
だって、俺の中身はもう――
空だ。
空っぽの穴を、
影が満たしてくれる。
傷が増えるほど、
影が増える。
壊れるほど、
形が“整って”いく。
(あぁ、そうか……埋めてるんじゃない……
……これは俺が前から“持ってたものだ”)
ただそれがまた、
……溢れ出ているだけ。
厄災が、剣を上げる。
赤い刃。
俺は笑った。
笑ったつもりだった。
口が裂けて、
牙みたいな影が覗く。
「――――――」
言葉じゃない。
咆哮が出た。
影が羽ばたく。
俺は地面を蹴った。
石を砕き、
瓦礫を跳ね飛ばし、
痛みを置き去りにして――
厄災へ。
ただ、厄災へ。
(……戻れ)
どこかで、誰かが言う。
(戻れ、アーク!!)
誰だ。
知らない。
知ってる。
浜辺の笑顔。
舌打ち。
叫び。
全部が混ざって、
俺の中で“濁って”いく。
濁ったまま、
黒い爪が――赤い剣へ叩きつけられた。
ガァンッ!!
火花。
影が散る。
散った影が、俺の身体に戻る。
痛みはない。
あるのは――
穴。
埋まらない穴。
埋めろ。
埋めろ。
埋めろ。
「ォオオオオオオオオオオ!!!!!」
ーーーーー
影の化物は、止まらない。
叩きつける。
裂く。
噛み砕く。
赤い刃が弾かれ、
肉と影が絡まり合い、
地面が抉れ、空気が悲鳴を上げる。
「アーク!!」
エレナの声が、背後から飛ぶ。
叫び。
必死な呼びかけ。
「やめろ! 戻れ!!」
だが――
影の化物は、振り向かない。
聞こえていないわけじゃない。
分かっていないわけでもない。
意味がない。
爪が厄災の肩を引き裂き、
牙が喉元に食い込む。
厄災は、抵抗を続けていた。
剣を振るい、
距離を取り、
致命を避ける。
しかし、影の化物はどんどん膨れ上がるように大きくなる。
――ある瞬間。
厄災は、影の化物を見つめたまま、
ふっと目を細めた。
その口元が、わずかに歪む。
笑ったのだと、分かる程度に。
そして。
ゆっくりと、目を閉じる。
「……やはり」
厄災が初めて音を発した。
その声は、静かだった。
「お前も……同類だ……」
厄災は、剣を落とした。
音を立てて、赤い刃が地に転がる。
両腕を、広げる。
防御も、回避も、ない。
抵抗を――やめた。
次の瞬間。
影の化物が、跳んだ。
噛みつく。
裂く。
包み込む。
影が、厄災を覆い隠す。
叫びはない。
悲鳴もない。
あるのは――
喰われる音。
肉が千切れ、
骨が砕け、
赤が影に溶けていく。
そして。
厄災は、消えた。
ーーーーー
世界が、少しだけ静かになる。
影の化物は、その場に立ち尽くしていた。
荒い呼吸。
胸が大きく上下する。
しばらくして。
影の化物は、ゆっくりと――首を動かした。
嗅ぐ。
獣のように。
焼けた土。
血の匂い。
焦げた空気。
そして――
シア。
瓦礫の影に、倒れている身体。
影の化物は近づき、
鼻先で、そっと触れた。
一度。
二度。
反応は、ない。
影の化物は、動かなくなった。
数秒。
いや、もっと。
そして。
「――――――――――――」
咆哮。
空気が震え、
瓦礫が跳ね、
遠くの山肌が崩れる。
悲しみの音だった。
影の化物は、シアの身体を抱え上げ――
丸ごと、呑み込んだ。
噛まない。
裂かない。
ただ、消す。
続いて、リュカのもとに。
影が、彼女を包み、
その姿も、消える。
影の化物は、顔を上げた。
視線の先。
旧魔王城。
黒く、歪み、
すべてを呼び寄せる場所。
一歩、踏み出す。
「――待て!!」
エレナが、前に立つ。
剣を構え、
震える腕で、影の化物を睨む。
目の前にいるのは、コールだった。
けれど――
もう、違う。
ほぼ、厄災と同じ。
否。
厄災だったものより、さらに深い闇。
「……止める」
エレナは、そう言った。
影の化物は、ゆっくりと首を傾ける。
理解しているのか、いないのか。
そして。
影が、さらに膨れ上がった。
ーーーーー
静かだ。
音が、ない。
影も、熱も、痛みも――遠い。
代わりに、土の感触がある。
草の匂いがある。
空が、低い。
――いや。
これは、昔の空だ。
村。
木造の家。
踏み固められた土の道。
笑い声。
俺は、子供だった。
隣にいるのは――
マルナ。
黒い髪。
日に焼けた頬。
少し気が強くて、よく笑う。
「ねえ、これ……」
彼女が、地面を指さす。
割れた殻。
大きな卵だったらしい。
中身は、まだ温かい。
「拾っていいかな……」
迷う声。
俺は、うなずいた。
殻の奥で、何かが動く。
ひび。
音。
白い、小さな――
ドラゴンだった。
羽はまだ短く、
爪も柔らかい。
それは、震えながら鳴いた。
俺たちは、顔を見合わせた。
そして――笑った。
ーーーーー
日々は、穏やかだった。
ドラゴンは大きくなった。
マルナは世話を焼いた。
俺は、いつも守る役だった。
畑。
川。
夕焼け。
肩にドラゴンを乗せて、
マルナの手を引いて歩く。
怖いものなんて、
何もなかった。
ーーーーー
その夜。
炎。
悲鳴。
村が、燃えていた。
魔物。
数が多すぎた。
「走って!!」
マルナの手は、震えていた。
俺は、彼女の手を握る。
強く。
ドラゴンが、肩で鳴く。
俺は言った。
「俺が守る」
声が震えていたのは、
きっと俺の方だ。
「何に代えても、いつまでも」
ーーーーー
逃げた。
生き延びた。
それだけが、救いだった。
俺は、強くなった。
剣を振り、
血を浴び、
魔物を斬った。
理由は、一つ。
彼女を守るため。
いつの間にか、
人は俺を――
勇者と呼んだ。
ーーーーー
仲間ができた。
笑った。
酒を飲んだ。
背中を預けた。
でも、心の奥はずっと――
失うことが、怖かった。
ーーーーー
魔王城。
最後の戦い。
仲間もみんな居なくなった……。
俺は――負けた。
剣が折れ、
身体が崩れ、
立てなかった。
視界の端で、
マルナが、こちらを見ていた。
泣いていなかった。
笑っても、いなかった。
ただ――決めていた。
「……ごめんね」
それだけ言って。
彼女は、前に出た。
光。
熱。
叫び。
世界が、白く染まる。
そうして俺は……すべてを失くした……。
だが、そこに闇が現れた。
形はない。
声も、温度もない。
ただ――
事実だけを並べてくる。
俺に結論だけを出させる。
闇は言う。
――お前の守っていたものは、女神の分体である。
映像が挿し込まれる。
マルナの輪郭が、
光の構造の一部として組み込まれている。
人ではなく、
秩序の“器”として。
闇は続ける。
――その魂は、死後に女神へ回収される。
回収される。
「死」ではない。
消滅でもない。
“戻る”。
マルナの笑顔が、
ひとつの光として引き抜かれていく。
闇は言う。
――世界の秩序が存在する限り、その回収は成立する。
成立する。
止められない。
闇は言う。
――世界を壊せば、その秩序は崩れる。
崩れる。
崩れれば、回収は成立しない。
闇は最後に言う。
――秩序が崩れれば、女神から取り戻せる。
取り戻せる。
俺は、考える。
考えるしかない。
世界は回っている。
マルナがいなくても。
(彼女がいなければ意味がない……)
それを支えるのが、秩序だ。
なら。
(……マルナは)
マルナは、世界に戻る。
女神に戻る。
俺が死んだ後も、
世界は回り続けるから。
秩序がある限り、
回収は成立するから。
(……俺じゃない)
俺じゃなく。
世界が選ばれた。
女神が選ばれた。
俺は――選ばれなかった。
闇は何も言っていない。
だが、俺は結論を出す。
――彼女は、世界(女神)を選んだ。
その瞬間。
胸の穴が、言葉を持つ。
冷たさが、形になる。
選ばれなかった。
置いていかれた。
そして、その“理解”は、
取り返しのつかない等式を作る。
世界を壊す=マルナを取り戻す。
俺の中で、
それが正義になる。
正義にするしかない。
じゃないと俺は、
この穴のまま消える。
――彼女のいない世界を守る理由はない。
――なら、この世界に意味はない。
俺は、世界を否定する。
感情ではない。
判断だ。
結論だ。
選び直せないままの、結論だ。
ーーーーー
壊すことが目的じゃない。
取り戻すことが目的だった。
だが。
世界は――俺の目的を知らない。
世界は俺を、
“壊す者”として認識する。
女神は外側にいる。
闇を観測できない。
俺の中で何が成立したのか、
何を根拠に結論を出したのか、
見えない。
見えないから――
世界に映るのは結果だけだ。
剣が振るわれる。
都市が裂ける。
秩序が崩れる。
だから世界は言う。
厄災だ。
狂った。
壊れた。
――止めなければならない。
ーーーーー
俺は動き出した。
世界を壊す。
秩序を壊す。
回収を止める。
マルナを取り戻す。
等式は揺るがない。
だが世界は、
俺の等式を許さない。
世界は、抗った。
結界。
聖別。
封殺。
祈りを集め、
秩序を固め、
俺の“到達”を拒む。
俺が壊すたびに、
世界は“修復”を積み増す。
俺が裂くたびに、
世界は“縫う”。
その繰り返しの中で――
俺は気づいた。
世界は、ただ守っている。
女神の秩序を。
回収の仕組みを。
俺からすれば、
それは“マルナを奪う構造”そのものだ。
世界は俺から見て――
敵だ。
だが。
その敵は、
俺の“唯一”を使ってくる。
ーーーーー
俺には、ひとつだけ
壊さないと決めていたものがある。
マルナでも、女神でもない。
あの村で、
炎の中で、
握った手の温度でもない。
――血。
俺と彼女の血が残ったもの。
自分がいなくなっても、
世界のどこかに“俺”が残るという事実。
それだけは、
壊さないと決めていた。
その“唯一”を――
世界は、見つけた。
利用した。
歪めた。
ーーーーー
ある時。
俺の前に立ったのは、
勇者でも、騎士でもない。
俺たちの子孫だった。
たしかに俺と彼女がこの世界にいた証。
顔立ちは違う。
時代も違う。
だが目だけが、
俺を刺した。
恐れじゃない。
憎しみでもない。
――“役割”だ。
背負わされた者の目だ。
そいつは震えていた。
剣を持つ手が。
祈りを唱える喉が。
それでも前に出た。
世界が、
そいつをここへ押し出したのが分かった。
そして――
封印が張られる。
俺の周囲に、
秩序が幾重にも折り重なる。
鎖。
柱。
楔。
それらは全部、
“世界の形”でできていた。
そして最後に。
子孫が――
生贄になった。
生贄という言葉が、
最も正しい。
魂が削られ、
意思が削がれ、
世界の部品にされた。
封印の“核”として。
俺は、その瞬間だけ
初めて迷った。
壊さないと決めていたものが、
俺の目の前で壊れていく。
俺が壊していないのに。
世界が壊した。
世界が使った。
世界が選んだ。
俺の血を。
俺の“唯一”を。
ーーーーー
封印は、成立した。
俺は閉じ込められる。
闇はまだ囁く。
秩序を壊せ。
取り戻せ。
だが現実は動かない。
俺は選び直せないまま、
封じ込められた。
……そして終わりじゃなかった。
封印は、
一代で終わらなかった。
世界は学んだ。
俺は壊れない。
狂わない。
死なない。
なら――
封じ続けるしかない。
維持するしかない。
維持のための“燃料”が必要だ。
その燃料に選ばれたのが――
子孫だった。
俺の血が残ったもの。
代々。
何代も。
何十代も。
封印が緩めば、
新しい子孫が呼ばれる。
祈りで縛られ、
秩序に組み込まれ、
生贄として消費される。
世界はそうして、
俺を封じ込め続けた。
俺の“唯一”だけを
壊し続けながら。
ーーーーー
そこでようやく、
俺は“核”を変える。
最初は――
世界を壊せば取り戻せる、だった。
だが封印の中で、
事実が積み重なる。
世界は、
回収の秩序を守るためなら
いくらでも犠牲を積む。
しかもそれが、
俺の血であっても。
なら。
俺の中で等式は、
さらに硬くなる。
世界は選んだ。
秩序を。
女神を。
そして――
犠牲を選んだ。
俺を止めるために、
俺の“唯一”を燃やし続けた。
闇は何も言っていない。
だが事実だけが、
俺の結論を補強していく。
世界を壊す=取り戻す。
世界を壊す=選び直す。
世界を壊す=この“生贄の連鎖”を終わらせる。
俺は、止まれなくなる。
壊れたからじゃない。
狂ったからじゃない。
俺が決めた。
ーーーーー
向こうで、
同じ穴がこちらを見ている。
俺よりも新しい穴。
俺よりも荒い穴。
だが形は同じだ。
世界を信じない者。
それでも人を信じようとした者。
世界を信じていた者。
だが世界を否定した者。
鏡のような存在。
「……」
目の前に、男が立っている。
――同じ目だ。




