第230話:崩壊の朝
地上に戻った瞬間、
空気の重さが、まるで違った。
血の匂い。
土の焦げ。
悲鳴と怒号が、混ざって押し寄せる。
「……やっぱ、下は地獄だな」
着地と同時に、剣を振る。
魔物が一体、首から崩れ落ちた。
「戻ったか」
横から声。
振り向くまでもない。
エレナだ。
剣を引き抜く音。
半歩、並ぶ位置。
言葉はない。
だが、呼吸の間隔が揃った。
「――よぉし!!押し返したぞ!」
誰かの叫び。
事実だ。
魔物は、もう数が足りない。
強い個体もいるが、散発的だ。
「全員、下がれ!」
俺は声を張る。
「街に人たちを整理しろ!怪我人を優先だ!
急いでこの街から――」
そこまで言って。
止まった。
エレナも、同時に動きを止める。
剣先が、わずかに下がった。
(……おかしい)
魔物の動きが、鈍った。
違う。
“止まった”んじゃない。
――逃げている。
地面を這っていた魔物が、向きを変える。
負傷している個体すら、後ろを気にして距離を取る。
まるで道を開けるように……。
「……何だ?」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
空気が、冷えた。
音が消えたわけじゃない。
だが、戦場の雑音が、一段“遠く”なる。
俺は、視線を上げた。
――遅かった。
人影。
武器を持たない。
鎧もない。
歩幅は、一定。
速くもない。
遅くもない。
ただ、歩いている。
「……来やがったか」
叫んだ、その瞬間。
エレナが、俺の横で小さく息を吸う。
「……コール」
次の瞬間。
俺は、左腕を水平に伸ばしていた。
「――アヴィル」
呼びかけ。
空気が、裂ける。
剣が現れた。
黒い刃。
重さが、戻る。
「俺が行くッ」
言い切るより早く、
俺は踏み込んでいた。
――特攻。
地面を蹴り、
一気に距離を詰める。
厄災は、こちらを見ない。
だが。
地面が――蠢いた。
ドン、という鈍い衝撃。
次の瞬間、
“腕”が生えた。
地面から巨大な拳が、俺の体を厄災から遠ざける。
大地そのものがぶつかるような衝撃。
「ッ――!」
影をまとっていたおかげで死にはしなかった。
だが、視界が裏返る。
俺は空中で意識を取り戻した。
――落ちる。
そう思った瞬間、
背中の感覚が戻った。
(……生きてるッ)
影が、反応した。
羽が、勝手に開く。
空気を掴む感覚。
身体が、ぎり、と止まる。
俺は空中で体勢を立て直した。
視界が、戻る。
(……遅かった)
地面から生えた“腕”が、
拳を開いていた。
巨大な五指が、
防壁に向けて、伸びる。
「……ッ!!」
叫ぶ暇はなかった。
――轟音。
手が防壁に叩きつけられる。
石が、砕ける。
破片が、飛び散る。
家屋よりも高い壁が、
簡単に――割れた。
粉塵が舞い、
地上の視界を塞いだ。
その隙を――待っていた。
魔物たち。
動きを止めていた魔物の残党が、
一斉に向きを変える。
割れた防壁へ。
開いた“穴”へ。
「退けぇえええ!!なだれ込むぞぉお!!」
誰かの悲鳴。
獣が走る。
爪が地面を裂く。
巨大な影が、瓦礫を踏み潰す。
小型が先に。
中型が押し。
その後ろから――
「まずい!デカいのが……」
瓦礫の向こう。
割れた防壁の隙間から、
大型の魔物が姿を現し始めていた。
盾役が押し潰され、
槍が折れ、
人が弾き飛ばされる。
俺は、空中で身を翻す。
羽に力を入れ、
地上へ降りようと――
その瞬間。
空気が、引き裂かれた。
――違う。
引き裂かれたんじゃない。
“引かれた”。
地面が、もう一度蠢く。
ズン、と鈍い振動。
次の瞬間、
地面から“何本も”生えた。
腕。
一本じゃない。
複数。
指の形をしているが、
人の腕じゃない。
大地そのものが、
俺を掴みに来ている。
「……チッ!!」
回避。
影を引き、
軌道をずらす。
一本が、空を切る。
だが――
別の腕が、合間から追ってくる。
逃げ場を塞ぐように。
進路を限定するように。
(……戻らせる気が、ねぇ)
厄災は、まだ歩いている。
歩幅も、
速度も、
何一つ変えずに。
ただ、街との距離だけが――縮んでいく。
(……クソ)
視界の端で、
防壁の内側が見える。
逃げ惑う人影。
押し合う兵。
倒れた仲間。
そこへ――
さらに魔物が、流れ込もうとしている。
「……エレナッ」
呼ぶが、
声は届かない距離だ。
次の瞬間。
地面から生えた腕が、
俺の進路を――完全に塞いだ。
拳が、構えられる。
“殴る”ためじゃない。
――叩き落とすため。
(……ッチ)
衝撃。
空気が爆ぜる。
咄嗟に影を前に出し、
羽で受け流す。
だが、完全には殺しきれない。
身体が、
後ろへ弾かれる。
地上との距離が、
一気に開く。
「……ッ!」
歯を食いしばる。
その間にも、
厄災は――
止まらない。
歩く。
魔物も、
人も、
瓦礫も、
全部“同じ地面”として踏み越えて。
(……分かったよ)
俺は、剣を握り直した。
戻れない。
戻らせない。
「俺が…ここで止めるしかねぇだろ!」
影が、静かに応える。
狂気はない。
高揚もない。
ただ――
覚悟だけが、残っている。
俺は、空中で身を正面に向けた。
防壁でも、
街でもない。
“厄災”そのものへ。
地上では、
まだ戦いが続いている。
ーーーーー
防壁が砕けたことで、
街は一瞬で“戦場”から“崩壊”に変わった。
瓦礫。
粉塵。
悲鳴。
どこが前線で、どこが退路か――
誰にも分からない。
「押し返せ!!」
「無理だ!横から来てる!!」
「子供が――!」
叫びが重なり、命令が潰れる。
その中で、
ひときわ低く、通る声が響いた。
「城へ退け!!」
ドワーフの戦士だった。
血に塗れた槌を地面に叩きつけ、怒鳴る。
「ここは捨てろ!防壁はもう終わりだ!!
城に入れ!門を閉じろ!!」
一瞬の迷い。
だが、次の瞬間には理解が広がる。
ここで粘れば、
全員死ぬ。
「退避!退避!!」
「走れ!子供を先に!!」
人が流れる。
押し合い、転び、立ち上がる。
――その中で。
一人の子供が、
瓦礫に足を取られた。
「っ……!」
前の流れに弾かれ、
地面に転ぶ。
泣く暇もなかった。
影が、落ちた。
球核機より、少しだけ大きい。
二足。
肩から棘のような突起。
鈍く光る牙。
大型魔物。
「――っ!!」
子供が顔を上げた時には、
既に遅い距離だった。
振り上げられる腕。
だが――
「どけぇえええ!!」
割り込む影。
シンの球核機が、
魔物の腕を正面から受け止めた。
衝撃。
地面が割れる。
「走れ!!」
怒鳴る。
子供を、背後へ蹴り出すように。
「後ろ!!」
別方向から、
さらにもう一体。
「チッ!」
アスハとナイが、即座に展開する。
挟撃。
ナイの機体が横から斬り込み、
アスハが正面から押さえにかかる。
だが――
重い。
一撃が、違う。
大型魔物の腕が振り抜かれ、
二機まとめて吹き飛ばされた。
「ぐっ……!!」
「くそっ……!」
瓦礫に叩きつけられる。
立ち上がろうとするが、
脚部が、うまく反応しない。
その間にも――
新たに現れた大型魔物が、
子供たちの方へ向きを変える。
シンは、動けない。
今、抑えている一体を離せばやられる。
「アスハ!ナイ!……っ!」
歯を食いしばる。
間に合わない。
その瞬間。
赤い球核機のハッチが、開いた。
「アスハ!!何やって――」
「ッ!!」
答えず、アスハを追ってナイも外に飛び出す。
二人は機体を降りた。
迷いはない。
アスハが、子供を抱き寄せる。
ナイが、その前に立つ。
武器もない。
鎧もない。
ただ、腕を広げて。
「ッッッ下がって!!」
誰に向けた叫びか分からない。
次の瞬間、
魔物の影が、二人を覆う。
――衝撃が、街を揺らした。
だが。
誰も、痛みを感じなかった。
砂埃が舞い、
瓦礫が転がり、
空気が震えただけで――
死の感触が、来ない。
「……?」
誰かが、恐る恐る目を開く。
次の瞬間。
魔物の頭部が、
“無い”。
潰れた、ではない。
爆ぜた。
骨も、牙も、
赤黒い破片になって、
後方へ飛び散っている。
そして――
その巨体の前に、
一つの影が、膝をついていた。
「……は……っ」
低く、荒い息。
球核機――いや、ちがう。
ミラだ。
巨大なハンマーを地面に突き立て、
それに体重を預けるように、
片膝をついている。
もう片方の手は――
腹部を、強く押さえていた。
抑える指の隙間から、
赤いものが、滴っている。
「……あんた……アイツの」
アスハの声が、掠れる。
ナイが、息を呑む。
子供たちは、
声も出せずに立ち尽くしていた。
ミラは、ゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫……」
声は、いつものように柔らかい。
だが――明らかに、苦しそうだ。
「……ちょっと……もらっただけですよぉ?……」
そう言って、無理に笑おうとする。
だが、
膝が、震えている。
「ちょっとじゃない!」
ナイが叫ぶ。
「おぉおおお!!」
シンは抑えていた魔物を蹴り飛ばし、
こちらへ振り向いた。
「ミラさん!下がってください!!」
ミラは、首を横に振る。
「……だめ……」
息を整えようとして、
一度、深く吸う。
だが――
そこで、咳き込んだ。
血が、口元を濡らす。
「……ここ、通らせたら……」
ハンマーを、
もう一度、強く地面に突き立てる。
「……子供たち……やられちゃうじゃないですかぁ?……」
その瞬間。
背後で、
さらに重い足音が、重なった。
瓦礫を踏み砕く音。
地面が、沈む感覚。
別の大型魔物が――
防壁の裂け目から、
次々と姿を現し始めていた。
「……ッ」
シンが、歯を食いしばる。
ミラは、
もう一歩も前に出られない。
球核機に戻る余裕もない。
今ここで倒れれば――終わりだった。
その時。
ドワーフの戦士が、
再び声を張り上げた。
「もう無理だ!!」
怒鳴るような声。
「見りゃ分かるだろ!!
前線は持たん!!」
槌を、強く地面に叩きつける。
「城へ退け!!
門を閉じろ!!
今すぐだ!!」
その言葉に、
迷いが――決壊する。
「運べ!!」
「怪我人を優先だ!!」
「子供を囲め!!」
兵が動く。
冒険者が動く。
シンが、叫ぶ。
「アスハ!ナイ!子供を連れて走れ!!」
「バカ!あんた一人でカッコつける気!?」
「シンも!」
「はやく行け!!」
ナイが、歯を噛みしめて頷く。
アスハが、子供たちを抱え上げる。
だが――
ミラは、動かない。
いや、
動けない。
ハンマーに体重を預けたまま、
その場に留まっている。
「……ミラさん!!」
シンが駆け寄ろうとする。
その時――
ミラが、はっきりと言った。
「……行って」
驚くほど、静かな声。
「……私は……最後でいいですぅ……」
「何言って――」
「……この体じゃ……走れないのでぇ……」
自分の腹部に視線を落とし、
それから、シンを見る。
「……ここは抑えますからぁ」
次の瞬間、
ハンマーが、再び振り上げられた。
血を引きずりながら。
膝が笑いながら。
それでも――
巨体は、前に立つ。
裂けた防壁の前。
魔物の進路の、ど真ん中。
「……行って」
ミラの声は、
震えていない。
「……城、閉じて」
その背中に、
影が、落ちる。
大型魔物が、
一斉に、迫る。
――ここで止めなければ、
街が、喰われる。
誰もが、それを理解していた。
そして――
空では。
厄災と向き合う、
コールが――まだ、戦っている。
「私も……退けませんねぇ」
ミラが、血の混じった息を吐きながら言った。
その言葉に、
シンの喉が鳴る。
「ミラさん!!」
叫びは、
止めるためのものだった。
――だが、止まらない。
瓦礫を踏み砕く重い足音。
新しい大型が、裂け目から這い出してくる。
一体、二体。
その奥で、
まだ“影”が動く。
「新手が……!」
シンは歯を食いしばる。
抑えている一体を離せない。
離せば、背後の子供たちに流れる。
アスハとナイは、
子供を抱えたまま足が止まりかける。
背中を向けたら、
そこに残るのは死だ。
「グォオオオ!!」
大型が吠える。
牙が、ミラに迫る。
ミラはハンマーを構え直す。
膝が笑っているのに、
それでも前に出る。
「来ちゃいますぅ?……なら、私がやっちゃいますよぉ?」
その瞬間。
「――私“達”だろ?」
声。
背後から。
一拍遅れて、
空気が変わった。
ミラの脇を、
黒い影がすり抜ける。
――エレナだ。
踏み込み。
迷いなし。
「邪魔だ」
刃が走る。
一刀。
迫っていた大型の首が、
“線”で分かれた。
重い頭がずれ落ちるより先に、
胴が崩れた。
「すまない、遅くなった」
エレナは振り返らない。
血を払う暇もなく、次の敵へ視線を切る。
「……エレナちゃ〜ん」
ミラが、息を詰めて笑う。
「まったく、考えなしに突っ込む所は皆同じだな」
エレナが、淡々と返す。
――次の瞬間。
横から、影が飛び込んだ。
「ったく、何一人でやってんだよ牛!!」
リュカだ。
短い影が疾走し、
大型の脚を切り裂く。
同時に、反対側から。
「ミラさん、命は無事ですね?
後でお説教させてもらいます」
シアの声。
リュカのナイフが飛ぶ。
魔物の目を貫き、
動きを止めた瞬間に、
シアが喉元を切り落とす。
エレナが短く訊く。
「退避の進みは?」
シアが即答する。
「このあたりはまだ誘導中です。ドワーフの指示で城へ――
ただ、あの裂け目を塞がないと流れが崩れます!」
「なら、押し返せばいいだけだろ!」
リュカが吐き捨てた。
そのとき。
ミラの体が、ふらついた。
腹を押さえる指の隙間から、
赤が増える。
「……ミラさん!!」
シンが叫ぶ。
だが、次の瞬間。
「はい、どいたどいた〜!動かないで〜!」
軽い声が割り込んだ。
シェアラ。
いつの間にか近くにいた。
ミラの手を無理やり外させる。
「……うわ、これ結構深いねぇ。
痛いでしょ?」
「……へへ……痛いですぅ……」
ミラが、息を吐く。
シェアラは迷いなく布を引き裂き、
圧迫する。
「ほら、押さえて。いい?ここ。
止血する。無理に立たない」
「……えぇ……でも……」
「でもじゃない。死ぬよ?」
言い切った。
その一言で、
ミラの顔から、いつもの軽さが消えた。
「……はい」
素直に頷いた。
「よし!」
シェアラが口の端を吊り上げる。
だが――
前線は、まだ危ない。
大型が、さらに裂け目から出てくる。
「増えるぞ!!」
ドワーフの戦士が怒鳴る。
「門まで走れ!!
ここは捨てるんだ!!」
「捨てる、って言ってもよ……!」
リュカが歯を剥く。
その時。
地面が、震えた。
――重い足音。
裂け目の前に、
“ひとつ”影が出る。
大型の獣。
いや、
獣化したシガだ。
無言で、
前へ出た。
リュカが目を見開く。
「……おい、マジかよ!」
シガは答えない。
ただ、地面を蹴った。
一撃。
大型の腹を蹴り抜き、
巨体を横倒しにする。
二撃。
別の個体の顎を砕き、
吠える暇を奪う。
三撃。
瓦礫ごと蹴散らし、
裂け目の前を“更地”にする。
リュカは口を開けたまま固まった。
「おぉ……すげぇ……」
静かに、
低い声が落ちた。
「……友との約束だ」
獣の目が、
揺れない。
「……お前達は、誰も死なせん!」
その言葉に、
空気が少しだけ戻る。
逃げ道が、
“形”になった。
シアが即座に声を張る。
「退避を続けてください!!」
球核機のシンが急いでミラに駆け寄る。
「ミラさんは僕が運びます!肩を!!」
アスハとナイが、
子供を抱えたまま走り出す。
ミラは、血で濡れた唇で笑った。
「……はい……」
そして、前線では。
獣化したシガが、
ひとりで裂け目を塞いでいた。
――時間を稼ぐために。
城門が閉じるまでの、
たった数分を。




