第227話:切り札の居場所
夜明け前には動く。
まだ日が昇らないうちに、残っている国へ向かう。
ドワーフの足を考えれば、それが限界だった。
俺の処遇や、罪状は後回しにされた。
会議は、そこで打ち切られた。
今は――生き延びることが先だ。
俺は、船に戻る。
自分の部屋。
ミラから降ろされ、シガの肩を借りて戻った。
ベッドに横になった途端、
意識が、すとんと落ちた。
―――――
夜の森だった。
湿った土の匂い。
葉の擦れる音。
月も星もない。
ただ暗い。
その中央に――男が立っている。
燃えていない。
巨人でもない。
人の形をした、
静かな影。
俺は、一歩踏み出した。
「……おまえは」
声をかけようとした瞬間。
男の腕が、伸びた。
一直線に――俺の左手へ。
次の瞬間、
激痛。
噛み砕かれた記憶が、
一気に蘇る。
骨。
肉。
引き裂かれる感覚。
だが――
それを左腕が、弾いた。
(……アヴィル?)
内側から、波が広がる。
衝撃でも、熱でもない。
“拒絶”そのものみたいな波動。
男の手が止まる。
男は、俺を見ていない。
睨んでいるのは――左腕だ。
「……今は、ここがいいんだとよ」
理由は分からない。
だが、確信だけはあった。
その時――
森が、動いた。
闇の奥から、
魔獣が現れる。
一体。
二体。
十体。
獣。
虫。
歪な影。
男を、囲む。
牙を剥き、
唸り声を上げ、
今にも――襲いかかろうとする。
だが。
男が、ゆっくりと一歩踏み出した。
その瞬間。
男の足元から、
見えない力が、波のように広がる。
魔獣たちの目が――変わった。
敵意が、消える。
次の瞬間、
すべてが同じ方向へ走り出した。
男の進む先。
俺の横を、
俺に一切の関心を示さず、
ただ通り過ぎていく。
俺は、立ち尽くしたまま、
それを止めることもできない。
波が、広がる。
森を越え、
魔獣を越え、
――俺に、届く。
胸の奥が、
ぎゅっと締め付けられた。
―――――
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
息が、戻らない。
胸が焼ける。
喉が鳴る。
俺は跳ね起きて、反射的に頭を押さえた。
視界が、わずかに揺れる。
夢――
いや、ただの夢じゃない。
今のは、
“来る”という感覚そのものだ。
(……遅い)
すぐじゃない。
だが、確実に。
左腕が、じくりと脈打つ。
疼きでも、痛みでもない。
そこに“ある”という主張。
――アヴィル。
あいつは何も言わない。
だが、選んだ。
あの男を拒み、
今は、俺の中に留まることを。
理由は、聞かない。
聞く必要もない。
厄災は、止まらない。
説得もしない、無駄だ。
迷ってもいない。
自分で選び、
自分で進んでいる。
だから――
(俺がやるしかねぇ……か……)
誰かに任せる話じゃない。
英雄でも、裁きでもない。
あいつを止められるのは、
あいつと同じ場所まで行ける奴だけだ。
胸の奥で、
何かが静かに沈む。
怒りでもない。
憎しみでもない。
もっと冷たいもの。
――殺す、という選択。
感情じゃない。
必要だからやる、という決断。
拳を、ゆっくり握る。
(来い……)
夢の森で見た背中を、思い出す。
歩いてくる。
魔物を連れて。
止まらずに。
「やってやるよ……」
声は、低く。
誰にも聞かせない。
俺は立ち上がり、外に向かった。
―――――甲板。
防壁の内側に停泊させたままの船。
騒がしい。
剣の音。
魔術の炸裂音。
叫び声。
「……は?」
視界の先。
防壁の向こうが、もう動いている。
影。
牙。
跳ねる魔物。
既に――戦っていた。
「おいおい……」
防壁の上。
リネアが、銃を撃っている。
反動も気にせず、連射。
弾幕で魔物を押し返している。
ネラも弓を連射し、
ナイとシン、アスハが連携して間を埋める。
ドワーフたちは壁際を固め、
ミラは一人で魔物を叩き潰していた。
(……待て)
俺は、思わず声を出した。
「おいおい!
俺だけ仲間外れかよ!」
返事はない。
全員、必死だ。
――その瞬間。
身体が、勝手に動いた。
俺は防壁に向かって走り、
石積みを蹴って一気に駆け上がる。
視界が開ける。
魔物の群れ。
数は多いが――押し切れる。
(行ける)
そう思った、瞬間。
「――待て!!」
横から、衝撃。
俺の肩を掴んだ腕が、
強引に引き戻す。
「コール!!」
聞き慣れた声。
リュカだ。
防壁の上に立ち、
牙を剥いたまま、俺を睨んでいる。
「お前、何やってんだよ!
まだ寝てろって!」
「いや、もう動け――」
「これぐらい!」
リュカが、前を指差す。
「これぐらい、あたしらで十分だ!」
同時に、もう一人。
「そうです」
落ち着いた声。
シアが、俺の前に立つ。
剣と弓、構えたまま。
視線は外さない。
「コール様は、切り札です」
登ってくる魔物を斬りながら、言う。
「今は、出る場面ではありません」
「……は?」
俺は思わず笑った。
「いやいや、もう始まってるだろ」
「始まったから、です」
シアは、はっきり言った。
「今、あなたが倒れたら――
本当に終わります」
リュカが、舌打ちする。
「そういうことだよ。
あたしらが前で削る」
「お前ら――」
一瞬、言葉を探してから。
「最後に出てくりゃいいんだよ!」
防壁の外で、魔物が吠える。
衝撃が、壁を揺らす。
俺は、歯を食いしばった。
(……くそ)
正論だ。
分かってる。
でも――
左腕が、静かに熱を持つ。
(近寄って来ている)
だが、まだだ。
今じゃない。
俺は、防壁の縁を掴みながら、
一歩、引いた。
「……分かった」
二人を見る。
「任せる」
その言葉に、
リュカはニッと笑った。
「最初からそうしろっての!」
シアは、短く頷く。
「ダメそうな時には、呼びます!」
俺は、防壁の内側へ戻る。
戦いの音を背に、
拳を、ゆっくり握った。
(頼んだぞ――その先は、俺がやる)
―――――
体は、少しだけ動く。
会議のときよりは、ずいぶんマシだ。
(刃の拡張……)
脳裏に、あの感覚が蘇る。
ミラの魔道具で無理やり通した一撃。
外殻を斬った瞬間、世界が白くなって――
そのまま、動けなくなった。
一発だ。
あれは、完全に一発限り。
次も同じことをやったら、
今度は立てなくなるどころじゃ済まない。
(……その後、どうする)
俺が落ちたら、船は誰が動かす。
影は前に出す。
不死身で、時間を稼げる。
それしか役割がない場面も、確実に来る。
リュカは操縦できる。
――できるが、ぶつける。
生き残るための操縦で、精密さはあまり期待できない。
他に誰がいる。
「……ネラか」
空間の把握が早い。
判断が遅れない。
魔力の流れも読める。
感情で動かない。
逃げない。
(事故らせないのは、あいつだ)
選択肢として、自然にそこへ行き着く。
俺は、天井の抜けた上を見ながら、息を吐いた。
(奴が来れば……俺が前に出る……)
それでも、船は動いていなきゃならない。
逃げ道は、一つじゃ足りない。
目を閉じる。
夜は、まだ深い。
だが――
厄災も、止まっていない。
燃える外郭を失ったあいつは、歩いてくる。
その道中で出会った魔物は、
あいつの“意思”に当てられて、同じ方角を向く。
(……怖いな)
俺が倒れることでも、
俺が死ぬことでもない。
防壁の向こうで剣を振ってる、
あいつらが――
いなくなることだ。
リュカ、シア、リネア……。
今、笑って戦ってる連中が。
(……耐えられねぇ)
一度、全部失った。
それでも、もう一度――
この世界で、生きてる。
もう一度、 失うのは無理だ。
俺は、
それだけは…。
防壁の外で――空気が割れる音が聞こえる。
エレナの一太刀。
魔物の列が、まとめて“消える”。
そして低い唸り。
獣化したシガが地面を裂いて突っ込む。
(……強いから大丈夫。じゃねぇ)
あいつらが前に出てる。
それだけ“押し返さなきゃいけない数”が来てるってことだ。
―――――
音が、止んだ。
剣がぶつかる音も、魔物の咆哮も、遠くへ引いていく。
残ったのは、夜の風と、火のはぜる音だけだ。
少し遅れて――
船の中に、足音が響いた。
重い靴音。
軽い足取り。
獣の爪が甲板を叩く音。
戻ってきた。
俺は、甲板の縁に立ったまま、それを迎える。
「……お疲れ」
最初に姿を見せたのはリネアだ。
銃を肩に担いだまま、軽く手を振る。
「コール?、ただいま…」
その後ろで、シアが剣を鞘に収める。
息は少し荒いが、目は落ち着いている。
「大きな損害はありません、乗り切りました」
リュカは血と泥だらけだが、牙を見せて笑った。
「ほらな。言ったろ?」
ドワーフたちも次々と街の方に戻り、ミラが最後にのそのそと船に上がる。
その背後――
「つかれましたぁ〜」
低い唸り。
「……安心しろ」
獣化したシガが姿を現し、ゆっくりと人の形へ戻っていく。
全員、いる。
俺は、胸の奥で息を吐いた。
(……失ってない)
そのまま、皆はそれぞれ持ち場へ戻っていく。
武器を置き、座り込み、誰かに声をかけながら。
ネラも、その流れに紛れて通り過ぎようとした。
「――ネラ」
短く呼ぶ。
ネラが、ぴたりと足を止めた。
振り返る。
「……なんだ?」
声はいつも通り。
疲れも、戸惑いも、顔に出さない。
「少し、いいか」
一瞬だけ、視線が俺を見る。
それから、周囲を見回して――
「……わかった」
それだけ。
ネラは他の連中に混じらず、俺の方へ歩いてくる。
誰も、特に気に留めない。
甲板の端。
風の当たる場所。
少しだけ、間が空く。
俺は、夜の外を見たまま口を開いた。
「……さっきの戦い、お前はどう見る」
「大体はなんとかなるだろうな……だが……」
即答だ。
「壁の外に、強いのが二人出てた。
だから押し返せた」
「……そうか……。
……ひと仕事の後で悪いが少し付き合ってくれ」
ネラは、短く息を吐いた。
「……今か」
「ああ。今がいい」
理由は言わない。
言えば、余計な問いが増える。
ネラは一瞬だけ俺の顔を見てから、黙って歩き出した。
二人で甲板の階段を上がる。
屋根も壁もない。
あるのは――
太い木製の舵輪。
そして、甲板の床から突き出した、前後に倒す一本のレバー。
俺は舵の横に立った。
「船を動かすのはこれだけだ」
ネラが、舵を見る。
次に、足元のレバー。
「思っていたよりも単純だな」
「単純じゃないと、生き残れねぇ」
俺は舵輪に手をかけた。
「舵は向きだ。
右に切れば船首が右。
戻しが遅れると、横流れする」
軽く回す。
木が軋む音。
「こっちは速さ」
足元のレバーを示す。
「前に倒せば前進。
半分で巡航。
倒し切ると全速だ」
ネラが小さく頷く。
「後ろに引けば後退。
止まるための動きだ。
舵は効きにくい。
レバーにあるコイツを引くと船が完全に止まって落ちる」
「……風は」
「船体で受ける。
急に切るな。
木が悲鳴を上げる」
ネラは黙ったまま、舵とレバーの位置関係を頭に刻んでいる。
視線の動きが早い。
しばらくして、ぽつりと聞いてきた。
「私が、これを使うのは……どんな時だ」
俺は、舵から手を離した。
「俺が、ここに居ない時だ」
ネラの指が、舵輪の縁で止まる。
「お前なら、判断できると思った」
それだけを、静かに続ける。
「だから教えた」
ネラは、何も言わない。
ただ、舵を一度だけ、ゆっくり回した。
「……判断基準は?」
「生き残れるかどうかだ」
俺は、迷わず言った。
「いざとなったら――俺も置いていけ」
一拍。
「全員、連れて行け」
風が、甲板を抜ける。
ネラは、しばらく舵を見つめてから、短く頷いた。
「了解した……」
俺は懐からコンパスを出した。
真鍮の蓋。
擦れた縁。
何度も開閉した跡。
「……」
ネラは黙って手を差し出した。
前にも、連絡用に預けたことがあるからだ。
だが今回は違う。
「今までは“預けてただけ”だ」
俺は、蓋を閉じたままネラの手のひらに置く。
冷たい金属が、骨に当たる音がした。
「今回は違う」
ネラは受け取ったが、すぐには開かない。
視線だけで、俺を測る。
「……持ち物を増やす趣味はない」
「知ってる」
俺は短く笑って、続けた。
「だが、この船を預かるなら必要だ……だからお前に託す」
ネラが、親指で蓋を弾く。
かちり。
針が揺れて、落ち着く。
その動きが、ネラの目に映る。
――そして、蓋を閉じる。
今度は裏側。
ネラの指が、ぴたりと止まった。
「……裏に刻みがあるな。前はなかった」
ネラの声は低い。
真鍮の裏を指でなぞり、浅い溝を確かめている。
読めない文字。
この世界の言葉じゃない。
「……これは何だ?」
俺は、はっきり答えた。
「お前の名前だ」
ネラの指が、一瞬止まる。
「……名前?」
「ああ。この世界じゃ使わない文字でな」
俺は肩をすくめる。
「読める奴はいない。意味も分からない。
だが、俺には分かる……これはお前の物だ」
ネラはしばらく黙って裏を見ていたが、やがて蓋を閉じた。
かちり。
「……随分、直球だな」
「回りくどいのは嫌いだろ」
「まあな」
短く返してから、ネラは視線を上げた。
「だがなぜ預けない、理由は?」
俺は、少しだけ言葉を選んだ。
「信頼してる、仲間として」
ネラの眉が、わずかに動く。
「リネアや、リュカたちは違う。
あいつらじゃいざって時に……俺もそうだが、感情が絡む。私情が入る……」
風が甲板を抜ける。
木の舵輪が、きしりと鳴った。
「だが、お前なら――必要な時に、俺を切り捨てられる」
ネラは、即座に否定しなかった。
コンパスを手の中で転がし、
その重みを確かめるようにしてから言う。
「……なるほどな」
それは納得の声だった。
「……確かに、理屈は分かる。
私が舵を取るなら、その判断はできるだろう」
一拍。
だが――ネラは、少しだけ目を伏せる。
「だが……」
俺は、続きを促さない。
ネラは自分で言葉を探す。
「私も……お前を“簡単に”切れるとは思うな」
声は淡々としている。
だが、どこか歯切れが悪い。
「それは……」
ネラは視線を逸らし、夜の向こうを見る。
「……リネアが悲しむ」
付け足すように、軽く言った。
俺は、口の端だけで笑った。
「まぁ、そりゃそうだ」
「……そうだ」
ネラは否定しない。
だが、その上で続ける。
「理屈では切れる。
実際は……分からん」
コンパスを懐に仕舞い、ネラは言った。
「だが……判断が必要な時は、逃げ道を選ぶ」
一瞬だけ、俺を見る。
「……そして、可能なら。
お前も、生きて連れて行く」
それ以上は言わない。
言葉にすれば、覚悟が揺れる。
俺は、ただ頷いた。
「それでいい」
夜は、まだ深い。
だが、もうすぐ動く。
俺たちは、それぞれの覚悟を、
声にしきれないまま――胸にしまった。




