第222話:喰われた名、戻る腕
船が、見えた。
黒煙と熱の向こう。
歪んだ空気の隙間に、ようやく――“逃げ場”が浮かび上がる。
甲板が騒がしくなる。
誰かが叫んだ。
誰かが、息を呑んだ。
それも当然だ。
俺は――
あの“化け物”を抱えたまま、戻ってきた。
翼をはためかせ、
甲板に降りる。
その瞬間、空気が一段冷えた。
視線が、集まる。
武器を構えかける者。
言葉を失う者。
一歩、距離を取る者。
シガは、動かなかった。
灰狼の獣眼が、まっすぐそとに向けられていた。
そしてこちらに振り返る。
そこにあるのは、怒りじゃない。
――恐怖でもない別の感情。
「……あれを、本気で相手にするのか?」
低い声。
揺れてはいないが、硬い。
「……あれ、どうやってもあたしらだけじゃ無理じゃない?」
シェアラも、つづいた。
戦場を見る目じゃない。
“見てはいけないものを見た”顔だ。
俺は、答えなかった。
今は、答える段階じゃない。
「離せ」
短く言って、落とさないように抱いていた腕を離し、甲板に下ろす。
化け物は、抵抗しない。
暴れもしない。
ただ、そこにいる。
「……こーるちゃん?……それ」
ミラの声にも不安が見て取れる。
船が、異様に静かだ。
全員が――俺と“それ”を見ている。
「あとで話す……」
嘘じゃない。
ただ、今じゃない。
「先に、逃げる」
背を向ける。
影を――解く。
その瞬間、違和感が走った。
やっぱり、“足りない”。
(……そうか)
影の人数が、戻らない。
集まらない。
そこにいたはずの一部が――欠けている。
(食われた…)
喉が鳴る。
胸の奥が、遅れて冷えた。
だが、立ち止まらない。
今ここで止まれば、
それだけで終わる。
俺は、そのまま舵へ向かった。
操舵輪を掴む。
木が、熱を持っている。
手のひらが、ひりつく。
それでも、離さない。
「全速だ……野郎ども!」
短く告げる。
「厄災から離れる。風を切れ!」
誰も、異を唱えない。
船が、軋む。
帆が張る。
背後で、何かが吼えた。
振り返らない。
今は――
振り返るときじゃない。
俺は、舵を切った。
失ったものを、数えるのは――
その後だ。
―――――
船は、ようやく安全圏まで出た。
帆鳴りが一定になり、
熱の圧が、背中から抜けていく。
甲板の中央に――
それは、立っていた。
動かない。
縛ってもいない。
抑えてもいない。
ただ、そこにいる。
「……おい」
声をかける。
反応は、ない。
目は開いている。
こっちを見てもいる。
だが、
“聞いていない”みたいな顔だ。
「剣を、よこせ」
一歩、近づく。
甲板が、きしんだ。
それでも、そいつは動かない。
「……聞こえてんだろ」
返事はない。
俺は、そのまま手を伸ばした。
剣の柄に、触れる。
――軽い。
拍子抜けするほど、
抵抗がなかった。
力を抜いたわけでも、
譲ったわけでもない。
最初から、
“持っているだけ”だったみたいに。
俺は、そのまま剣を持った。
だが……。
「ッ?!」
次の瞬間。
手の中で、違和感が弾けた。
“保持できない”。
剣が、
するりと――指の間を抜けた。
落としたわけじゃない。
弾かれたとも、少し違う。
手から、
拒まれた。
誰かが、息を呑む音がした。
剣は、そのまま――
静かに、戻る。
元の場所へ。
そいつの手の中へ。
そいつは、
何も言わない。
何も、していない。
ただ、剣を持ち直して、
また――立っている。
俺は、自分の手を見た。
「……チッ」
舌打ちが、漏れた。
奪えない。
力の問題じゃない。
理由は、分からない。
だが――
少なくとも今、
その剣は、
俺のものじゃない。
「……全員、並べ」
短く言った。
命令口調でも、怒鳴り声でもない。
ただ――確認だ。
甲板に、足音が揃う。
誰も文句を言わない。
今は、それどころじゃない。
一人。
二人。
三人。
視線で数える。
……足りない。
「……ゲールか」
名前が、口から落ちた。
返事がない。
誰かが、視線を伏せる。
誰かが、ゆっくり首を振る。
「……いない? まさか、こいつが!?」
誰の声だったかは、覚えていない。
ただ――
確定した。
ゲールは、いない。
――喰われた。
目の前にいる、
この“化け物”に。
胸の奥で、何かが弾けた。
ただ、
苛立ちだけが、
無音で膨れ上がる。
俺は、ゆっくりと――
目の前の“それ”を見る。
人の形をしている。
剣を持っている。
だが、
中身が、ない。
その目は開いてこっちを見てもいる。
それなのに――
何も、映っていない。
憎しみも。
後悔も。
恐怖も。
命を喰ったあとの目じゃない。
――殺意が、湧いた。
気づいた時には、
身体が前に出ていた。
右手が、伸びる。
胸ぐらを――掴もうとする。
だが。
次の瞬間、
俺は止まった。
振り上げるはずの左が、
そこに、ない。
空っぽ……なにもない……。
その“何もない感触”が、
一拍遅れて、
現実を叩きつけてきた。
――ああ、そうか。
俺には、
もう殴る腕も、
叩き伏せる力も――ない。
目の前の“化け物”は、
相変わらず、何も言わない。
何も、感じていない。
ただ、
剣を持ったまま、
そこに立っている。
「……クソ」
歯を、噛み締める。
怒りは、確かにある。
喉まで、上がってきている。
叫べば、楽だったかもしれない。
何かを叩けば、
少しは紛れたかもしれない。
でも――
目の前の“それ”に、
当てる理由がなくなっていく。
殴っても、
掴んでも、
喰われたものは戻らない。
俺は、右手を下ろした。
「……コール様」
声が、近い。
気づいた時には、
シアが、すぐそこにいた。
何も言わないまま、
身体ごと、抱きついてくる。
強くもない。
優しくもない。
ただ――
離さない。
失った左側を避けるように、
右肩に、腕が回される。
震えが、伝わってきた。
……ああ。
泣いているのは、
俺じゃない。
少し離れたところで、
リュカは、腕を組んだまま立っていた。
近づいては来ない。
声も、出さない。
ただ、
視線だけは逸らさず――
噛み締めた唇の端から、
小さく、息が漏れている。
泣いているのだと、
言われなければ分からないほどの、
小さな、それだった。
周囲の気配が、沈んだ。
誰も、声を出さない。
視線を落とす者。
目を閉じる者。
俺が何を失ったかを、
言葉にしなくても、
全員が察している。
その中で――
“化け物”だけが、動いた。
甲板を、ゆっくりと歩く。
敵意も、躊躇もない。
「ッ……!?」
「……動くな……」
ネラの声が、低く落ちる。
リネアの手はホルスターの魔導銃に、
指が掛かっている。
その前に、ネラが一歩、庇うように。
反射みたいに構えて立っていた。
だが、“それ”は止まらない。
リネアの前に立つと、
涙の残る頬に、指を伸ばす。
指先で、
一滴を、すくい取る。
しばらく、
それを見つめた――
意味を測るように。
次に、
“それ”は指先を自分の目元へ運んだ。
まぶたの下。
頬骨の上。
涙の雫を――塗る。
表情は、変わらない。
痛みも、熱も、
何も感じていないみたいに。
一拍遅れて、
透明な筋が、頬を伝った。
――泣いている。
だが、
泣いている“顔”じゃない。
落ちた雫を、
“それ”はもう一度、指で掬い上げる。
確かめるように。
ただ、それだけ。
(……再現?)
意味は分からないまま、
現象だけをなぞっている。
“それ”は、
ゆっくりと首を巡らせる。
そして――
俺を見る。
次の瞬間、
握っていた剣が、
光の霧みたいにほどけた。
音もなく、
形を失い――消える。
「なッ!?……剣が……」
“それ”は歩き出す。
俺へ。
シアが離れて、俺の前に守るように立つ。
「コール様、下がって……」
だが、俺は動かなかった。
逃げる理由がない。
逃げても、意味がない。
“それ”が、目の前に立つ。
近い。
呼吸の気配もないのに、
距離だけが、詰まってくる。
そして――
何の迷いもなく、
左肩へ、指先を置いた。
その瞬間。
“それ”の輪郭が、揺らいだ。
肌が、崩れる。
境界が、溶ける。
人の形を保っていた“何か”が、
影みたいに、曖昧になっていく。
否――影だ。
俺が、これまで使ってきたものと、
同じ“質”を感じる。
“それ”は、抵抗しない。
声も、出さない。
ただ、
自分の形を失いながら――
俺へ、流れ込んでくる。
左肩から、
胸へ。
背中へ。
喪失していた“空白”に、
それが、染み込んでいく。
息が、詰まる。
痛みはない。
だが、確かに――侵入されるような感覚だ。
それは、留まらない。
わずかに影たちと違う動きをする。
骨の形をなぞり、
筋を作り、
皮膚を張る。
形が、定まる。
そして――
左腕が、そこにあった。
生身だ。
影でかたどられた借り物ではない。
幻でもない。
指が、五本。
手のシワ。
爪の白。
俺は、反射で握った。
確かに、握れる。
その瞬間、
指に“何か”が触れた。
金属の冷たさ。
(……指輪)
喰われたはずの――
リネアと同じ指輪が、
俺の左手に、はまっていた。
周囲が、息を呑む。
だが、
俺はそれを見る前に――
頭を…打たれた。
殴られてはいない、衝撃が直接中をかき回すような感覚。
視界が、反転する。
知らない戦場。
知らない空。
知らない風の匂い。
誰かの怒り。
誰かの飢え。
誰かの――選択。
それらが、
一気に、流れ込んでくる。
そして、
喉の奥に、
ひとつの名が落ちた。
――アヴィル。
“それ”の名だ。
いや――今は、
俺の中にあるものの名だ。




