第221話:化物の目にも涙
――熱だ。
影に引っ張られる中で、残った理性が警告を発した。
空気が、重くなる。
吸い込んだ息が、肺の奥で焼ける。
喉の奥が、ひりつく。
呼吸一つで、体温が引き上げられていくのが分かる。
「サウナみてぇだな?……、……いや……まてっ」
笑おうとして、失敗した。
足元の土が、じわりと沈む。
柔らかくなったわけじゃない。
力を失っていく感触だ。
厄災の眠る、山の土が、じわりと赤黒く変色し始めている。
石が鳴る。
一つじゃない。
小石、岩、地中の層――
押し潰されるみたいな音が、重なって聞こえる。
湿気が、一気に蒸発する音。
霧が、消えた。
逃げる間もなく、視界から削り取られる。
遅れて――分かる。
厄災が、起きる。
ただ、目を覚ましただけ。
それだけで、
世界が耐えられなくなる。
「まずい……!」
言葉にした瞬間、地面が低く唸った。
揺れじゃない。
震動でもない。
大地そのものが、息を吸ったみたいな感覚。
遠くで、何かが崩れる音。
近くでも、何かが割れる音。
どこから来ているのか、判断できない。
空気が、歪む。
視界の端が、わずかに曲がる。
熱で霞んでいるんじゃない。
“押されている”。
戦うとか、
勝つとか、
そういう段階じゃない。
ここにいたら――
全員、焼かれる。
(……やべぇ)
影越しでも分かる。
空気が、明らかに変わった。
騒ぎすぎたか?
……いや、まだ分からん。
ただ―― 『起きてもおかしくない』ラインを、
踏み越えかけてるのは確かだ。
(チッ……運が悪けりゃ、ここで終わりだな)
判断は、一瞬だった。
俺は、即座に銃を抜いた。
狙わない。
構えない。
ただ、空へ。
腕が、妙に重い。
金属が熱を持ち始めている。
パン。
パン。
パン。
三発。
乾いた音が、熱の中を切り裂く。
音が、途中で歪む。
遠くまで飛ばず、押し潰されるみたいに消えていく。
合図だ。
船へ。
撤退。
「走れ!!」
叫ぶ。
声が、思ったより通らない。
熱に削られて、広がらない。
「厄災と逆だ! 船に向かえ!!」
迷いはない。
反論もない。
全員、理解している。
これは撤退じゃない。
生存行動だ。
次の瞬間には全員が走り出していた。
リュカが歯を食いしばる。
息を吸うたび、肩が大きく上下する。
今の厄災を目の当たりにして本能が叫んでいる。
シアが彼女の腕を引く。
引っ張るというより、倒れないように支えながら。
ミラが最後尾に回る。
振り返りながら、距離と人数を確認している。
俺も、反転しようとした。
その瞬間――
影の流れが、ひっかかった。
足じゃない。
身体でもない。
影そのものが、何かに触れた感触。
「……チッ」
来る。
感覚より先に、
空気が裂けた。
押し返される。
音じゃない。
圧だ。
横合いから――
黒い影。
狙いは変わらない。
一直線に、俺。
「邪魔すんなってんだ!」
剣を振る。
影で受ける。
だが、勢いが殺しきれない。
その時――
――ガンッ!!
横から、光。
エレナの剣が、入った。
ヴァルセリクス。
迷いのない一撃。
アヴィルの身体が、半歩――弾かれる。
「コール!」
「構うなッ!!」
叫ぶ。
喉が、焼ける。
「行け!! 今すぐだ!!」
エレナが、歯を食いしばる。
一瞬。
本当に、一瞬だけ――迷う。
その背後で、
地面が、鳴った。
熱が、さらに一段――上がる。
「……っ!」
俺は、怒鳴った。
「クランダを飛ばせ!!」
エレナの肩が、びくりと跳ねる。
理解した。
納得じゃない。
でも、理解した。
「……生きて戻れ」
短く、それだけ言って、
エレナは身を翻した。
走る。
仲間の背中を追う。
俺は――
振り返らない。
前にいるのは、
まだ、俺を見ている化け物だ。
裂けた口。
剣。
次の瞬間――
地面が、踏み抜かれた。
世界の下から、叩かれた感触。
衝撃が遅れて走り、
岩盤が悲鳴を上げる。
厄災が……動き出す。
こっちは、見ていない。
ただ――動いた。
それだけ。
……一歩。
それだけで、
地面が耐えきれず――割れる。
亀裂が走り、
赤黒い光が、内側から漏れ出す。
足場が、崩れた。
「……?」
化け物の足元が、消える。
身体が、傾き、
そのまま――落ちかけた。
下は、熱。
触れたら終わりの距離。
(……チッ)
考えは、そこまで。
剣が――必要だ。
それだけ。
影を、引き延ばす。
絡める。
掴む。
腕代わりに。
引き上げる。
助ける、じゃない。
あの中に“剣”を落とすと――困る。
それだけ。
次の瞬間。
厄災が、もう一歩――踏み込んだ。
衝撃。
熱。
圧。
空気が爆ぜ、
視界が、白く焼ける。
俺も、化け物も、
まとめて――弾かれた。
宙を舞う。
上下も、
距離も、
分からない。
次に感じたのは――重さ。
叩きつけられる。
背中から。
「……っ、ぐ……!」
だが上に――あいつが落ちてきた。
覆い被さるみたいに、
俺の身体を押さえ込む。
右手が、動かない。
押さえられている。
(クソ……)
左腕を――振る。
影で形作った、
偽物の腕。
拳を作り、
横から打ち込もうとした瞬間――
流された。
殴り返されたわけじゃない。
弾かれたわけでもない。
“そこに置かれた”。
腕の軌道を、
横に――ずらされる。
視界の端で、
布が――揺れた。
次の瞬間。
裂けた口が、開く。
近い。
近すぎる。
(ヤバッ)
歯。
「――ッ!!」
噛みつかれた。
左腕。
肉じゃない。
骨でもない。
影を――喰われた。
引きずり出される。
中身ごと。
痛みじゃない。
熱でもない。
“抜かれる”。
「やめろぉおおッ!!」
影が、ちぎれる。
戻らない。
そこだけ、
ぽっかりと――消えた。
化け物の動きが、
そこで――止まる。
離れない。
だが次がない。
深くもいかない。
裂けた口が、
わずかに――震えた。
厄災の熱が、
さらに――迫る。
それでも。
化け物は、
俺を押さえたまま――動かない。
ただ、ゆっくりと味わうように――
本当にゆっくり、口が動く……。
一滴。
何かが、胸元に落ちた。
汗じゃない。
血でもない。
落ち方が、違う。
もう一滴。
落ちるたび、体にのしかかる重さが抜けていく。
「……は?」
顔を上げ、混乱した。
でも、次第に――理解が追いついた。
音が、無い。
嗚咽も、息も、声も。
ただ、
震える背中と、落ち続ける水だけ。
(……泣いてる)
俺の腕を喰ったそれが、
今、泣いている。
拘束していた力が、ふっと消えた。
さっきまで、胸を押し潰していた重さが――ない。
「なんだ……こりゃ?」
身体が、動く。
右手も、脚も、自由だ。
だが――
そいつは離れなかった。
裂けた口を伏せたまま、
まるで縋るみたいに――俺の胸に、額を押しつけている。
重い。
熱い。
でも、さっきまでの“敵”の圧じゃない。
「……意味が、分かんねぇ」
俺は、剣を握ったまま動けずにいた。
理由は、分からない。
分かるのは――
こいつは、もう俺を殺しに来ていない。
その時。
――ドーン!
遠くで、雷みたいな音が鳴った。
空だ。
船の――大砲。
厄災が、反応した。
巨体が、ゆっくりと向きを変える。
視線は、俺たちじゃない。
空を行く船。
「ったく……あいつら」
低く呟いた瞬間――
大地が、厄災に掴まれた。
指が沈み、
岩盤が、赤く溶ける。
溶岩を、握り潰すみたいに固め――
投げた。
轟音。
空気が裂け、
赤黒い塊が、船の進路へ叩きつけられる。
――避ける。
船が、ギリギリ軌道を変える。
次の瞬間、
また――砲撃。
効かない。
分かっていて撃っている。
“俺から、意識を逸らすため”に。
その爆音の合間に――
「きたか……こっちだこっち!」
別の影が、空を裂いた。
影の船員。
ウィンスキーだ。
背に――クランダ。
翼を展開し、
一直線に、こっちへ。
次の瞬間。
影が、重なった。
俺の影と、
クランダと、
ウィンスキーの影が――混ざる。
視界が、跳ねる。
失われていた感覚が、戻る。
左――ある。
生身じゃない。
でも、確かに“手”だ。
指が、動く。
背中で、影が羽ばたく感触。
「……はぁ」
俺は、一度だけ――
胸に伏せたままの化け物を見た。
目が、合う。
敵意は、ない。
殺意も、ない。
ただ――混乱と、痛みと、
名前のない何か。
「仕方ねぇ……行くぞ」
返事は、ない。
だが、抵抗もない。
俺は、そいつを抱え上げた。
軽くはない。
だが、今なら――いける。
影の翼が、打ち下ろされる。
地面が、遠ざかる。
熱が、下へ落ちていく。
厄災が、こちらを向くより先に――
俺たちは、空へ跳んだ。
飛んでいく船へ。
生き延びるために。
そして――
“剣を、失わないために”。




