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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第219話:厄災の前で


空島を離れた船は、雲を抜け、ゆっくりと高度を落としていく。

風が変わる。

冷たく、乾いた、地上の匂い。


眼下に見えてきたのは――

かつて“穴”だった場所。


……だが。


「……なんだ、あれ」


シンが、思わず声を漏らした。


地面は裂け目のままではなかった。

円を描くように、石壁がせり上がっている。


削り出した岩を積み、

外側へ向けて傾斜をつけた、防御の構え。


砦だ。


しかも、急造じゃない。

“また来る”ことを前提にした厚み。


船がさらに近づいた、その時。


壁の上が――騒がしくなった。


「……おい、あれ」「空だぞ!?」

「鳥じゃねぇ、船だ!!」


ドワーフたちが、壁の縁に集まる。

弩を構えかけ、次の瞬間――動きが止まった。


空に浮かぶ船。


帆が揺れ、

船体が、当たり前みたいに“そこにある”。


一瞬の沈黙。


それから――


「……こりゃ、たまげた」


白い髭のドワーフが、壁の上で呟いた。


「本当に……船が、空に浮いてやがる……」


誰も笑わない。

誰も怒鳴らない。


理解が、追いついていない。


その空気のまま――

船首に、影が立った。


俺だ。


風にコートがはためく。


その姿を見た瞬間、

壁の上の空気が、はっきり変わった。


「……あいつだ」

「生きて……戻ってきやがった」


武器を構える者もいる。

だが、引き金は引かれない。


空の船が、すぐそこにある。


下手に動けば、

何が起きるか分からない。


壁の横に船をつける。


「送ってきただけだ」


短く。


「こいつらをな」


背後の甲板に立つ三体の球核機、

そしてその操縦者を指さす。


少し間。


白髭のドワーフが、腕を組んだまま言う。


「……なるほどな」


視線が、船から、俺へ。


「捕まえろと言いたいところだが……」


船を見上げる。


「今は、状況が違う」


壁の上の戦士たちも、それを理解している。

砦はある。

だが、空は守れない。


「これだけ厚い壁……しかも、もう壊れてる箇所があるな?」


俺は言う。


「……また、あれが来たんだな?」


ドワーフは、ふっと鼻を鳴らした。


「ああ。一度な」


低い声。


「来たが……途中で、向きを変えた」


シンとナイが息を呑む。


「興味を失ったみてぇに、

 そのまま――別の方角へ行きよった」


ドワーフが示す方向を、俺は見据えた。

そして、背後の三人に告げる。


「降りろ」


三人が球核機に乗り込み、船を降りる。


石壁に囲まれた空間。

まだ新しい削り跡。


ナイが、そっと呟く。


「……塞がないんですね」


その声は小さい。

だが、砦の内側では、やけに響いた。


白髭のドワーフは、少しだけ視線を上げる。

壁の上。

削られた岩の縁。

まだ乾ききっていない石粉。


「穴を塞ぐのは、負けを認めたことになるからな」


言い切りだった。

迷いも、言い訳もない。


その言葉に、周囲のドワーフたちが

わずかに視線を交わす。

反論はない。


それが、この国の“答え”なのだ。


俺は、砦の外――

示された方角へ、もう一度だけ目を向ける。


「教示ってやつか……」


小さく息を吐く。


「まぁいい」


踵を返し、船の方へ半歩。


「俺は行くが……止めてみるか?」


その問いに、

白髭のドワーフは一瞬だけ目を細めた。


俺を見る。

左腕のない肩口を見る。

そして、空に浮かぶ船を見る。


「っは」


短い笑い。


「御免こうむる」


肩をすくめるような仕草。


「魔物だけでも厄介だってのに……」


ちらりと、砦の壁を見回す。


「お前さんまで相手にしておれんわい」


その言葉で、

空気が、はっきりと区切られた。


俺は何も返さない。


ただ、舵へ向かって歩き出す。


ーーーーー


穴の砦を離れ、船は化け物が去った進路を追った。


甲板の縁。

リネアとネラが、それぞれ反対側に立っていた。


「……いた」


最初に声を落としたのは、ネラだった。


指は差さない。

ただ、視線だけを固定する。


リネアも、同じ方向を見る。

一瞬、瞬きを忘れた。


「……人影」


距離はある。

だが、はっきりと“人の形”。


歩いている。

一定の速度。

迷いがない。


「……貸せ」


俺は、望遠鏡を取る。


覗いた瞬間、

胸の奥で何かが、ずれた。


白い髪。


剣を下げて歩く姿。


立ち姿。


――知っている。


だが。


「……女だ」


口をついて出た言葉に、

リネアが息を呑む。


「え……?」


「剣は……同じだ」


望遠鏡越しでも分かる。


あの形。

あの長さ。

あの持ち方。


過去が、勝手に重なる。


腕を失った。

喉の奥の暗さ。

指を差された感覚。


(……リベンジだ)


思考が、即座に切り替わる。


「ウィンスキー、ハイポール」


二人が、同時にこちらを見る。


「船に残れ」


即断だった。


「リネア、ネラも残る。

 索敵を切るな。ヤバいときには大砲使え」


二人は反論しない。

状況を理解している。


「他は全員、降りるぞ」


それは――

ほぼ、総火力。


エレナ。

ミラ。

シア。

リュカ。

シガ。

シェアラ。

そして影達。


“逃がさない”布陣。


船は音を殺し、

影の落ちる位置へと滑る。


着地。


砂と草を踏む感触。


地上だ。


「包囲だ。距離を取れ」


誰も喋らない。

頷きだけが返る。


女は、まだ気づいていない。


――いや。


気づいていない“はず”なのに。


こちらを見ない。


索敵の気配もない。

警戒もない。


ただ、歩いている。


一定の速度で。

一定の方向へ。


包囲は、完成していた。


前。

左右。

後方。

上空。


完全だ。


「よう、借りを返しに来たぜ」


俺は、剣に手をかける。


女は―― その瞬間。


ほんの一瞬だけ。


顔を上げた。


視線が、交差する。


確かに――

俺を見た。


間違いない。


喉が、ひくりと鳴る。


だが。

女は、何もしない。


剣も上げない。

立ち止まりもしない。


視線を外し、

そのまま――歩き続けた。


「……は?」


息が漏れる。


「がん無視かよ?」


リュカが、信じられないという声を出す。


包囲網の中。

逃げ場はない。


それでも――

女は、構わず進む。


俺を。

俺たちを。


“いないもの”みたいに。


背中を見送りながら、

胸の奥で、嫌な予感が膨らむ。


過去と同じ“型”なのに。


獲物を見る目じゃない。


狙っているのに、

今は――違う。


女の行く先。


その先にあるものを、

俺は、まだ知らない。


だが――


確信だけはあった。


(……あいつは、俺を後回しにした)


それが、

これまでで一番、気持ち悪かった。



女の背中が、少しずつ遠ざかる。

まだこちらを向いていない。


一定の歩調。

揺れない軸。

剣は下げたまま。


俺は、背中に銃を向けた。


照準は、自然と――頭の位置に合う。


距離は十分。

風もない。


撃てる。


確実に。


だが。


横を見ると、

シガと、目が合った。


一瞬だけ。


言葉はない。

だが、はっきり分かる。


――戦士は、背中を撃たない。


正面から斬る。

向かってきたものを、受けて倒す。


それが、シガの矜持だ。


俺は、息を吐いた。


ほんの少し。

だが、確かに。


「……」


何も言わず、

引き金にかかっていた指を外す。


銃口が、ゆっくりと下がる。


地面へ。


砂と草を踏む音だけが、やけに大きく聞こえた。


シガは、何も言わない。


ただ、一度だけ――頷いた。


女は、まだ振り返らない。


歩き続けている。


俺は、銃を収め、

代わりに剣へ手を伸ばす。


「……追うぞ」


低く告げると、

誰も異論を挟まなかった。


背中を撃たない。

だが、逃がしもしない。


それが、

今の俺たちの“選択”だった。


ーーーーー


女の背中を追うにつれ、

風が――変わった。


草の匂いが、消える。

湿り気が、抜ける。


代わりに、

鼻の奥を刺すような――焦げ。


最初は、焚き火の残り香みたいだった。

だが、数歩進むごとに濃くなる。


焼けた木。

焼けた土。

焼けた……何か。


足元の色が、変わった。


草は、ない。

土は黒く、ひび割れ、

踏むたびに、かすかな音を立てて崩れる。


生き物の気配が、完全に消え去っている。


鳥も。

虫も。

風に揺れる葉音すらない。


あるのは、

遠くで鳴る――低い呼吸音。


女は、そこで初めて足を止めた。


山のふもと。


いや――

山だと思っていたものの、前。


視界の先に広がる影は、

“地形”じゃなかった。


横たわっている。


山を背に。

大地に、投げ出されるように。


「……厄災」


言葉が、喉で止まる。


でかい。

ただ、それだけで終わらない。


巨体が占める“体積”が、

景色そのものを歪めている。


地面が、沈んでいる。

周囲の岩が、圧に耐えきれず、

砕けたまま、張りつくように転がっている。


背中は、山と一体化していた。

いや、山の方が“寄り添っている”。


そう見えるほどに。


皮膚は、岩とも肉ともつかない。

焦げた跡。

裂けた跡。

塞がらない傷。


それでも――死んでいない。


呼吸のたび、

地面が、わずかに上下する。


一呼吸で、

街ひとつ分の空気を吸い込み、

吐き出す。


吐息が、熱を帯びて流れ、

焦げた匂いが、さらに濃くなる。


俺は、理解した。


これが、

世界が“壊れる”という現象だ。


怒りもない。

意思もない。


ただ、存在しているだけで、

周囲が壊れていく。


女は、厄災の前まで歩くと、

何の躊躇もなく――膝をついた。


祈るでもなく。

畏れるでもなく。


淡々と。


ゆっくりと、頭を垂れる。


その姿が、

逆に――異様だった。


あれほどの存在を前にして、

感情が、一切ない。



女は、剣を地面に突き立てた。


刃が、黒く焼けた土を貫いた瞬間――

低い、鈍い音が響いた。


金属音じゃない。

岩が、内側から軋むような音。


次の瞬間、

女の身体から――何かが、剥がれ落ちた。


(影?……)


いや、影じゃない。

“形を持った何か”。


胸の奥。

腹の底。

背骨の裏。


そこに溜め込まれていたものが、

煙のように、糸のように、

ゆっくりと、引きずり出されていく。


“魂”だ。


一つじゃない。

数でもない。


叫びも、言葉もない。

ただ――重さだけがある。


それらは空中で渦を巻き、線になる。

そして引き寄せられるように、厄災の口へ向かっていく。


厄災は、目を開けない。


魂が、口に触れた瞬間――

厄災の喉が、わずかに動いた。


飲み込む。


噛みもしない。

選びもしない。


“受け取る”だけだ。


そのたびに、

女の身体が、白い髪が揺れる。


だが、表情は変わらない。


祈っているわけじゃない。


ただ捧げている。……まるで作業のように。


俺は、喉が鳴るのを止められなかった。


女の中にあったものが、

厄災へ吸い込まれていく。


そうして……厄災の呼吸が、深くなった。


ただ、それだけ……。


女は、最後の一つを捧げ終えると、

静かに立ち上がった。


その瞬間。


――目が、開いた。


山ほどの影の奥。

底の見えない、暗い瞳。


視線が――こちらを向く。


俺たち全員を、

一度に。


圧が、来た。


殺気じゃない。

敵意でもない。


“見られた”。


それだけで、

膝が、震える。


だが、そのまぶたは再びゆっくりと閉じられた……。


「……はぁ……はぁ……はぁ」


少し見られただけで、息ができなかった。


女が、ゆっくりと振り返る。


その視線は、

再び――俺だけを捉えた。


今度は、逸らさない。


作業が、終わった。


空になった。


――次は、俺だ。


奴に食われた左肩が、ジクジクとうずいた……。

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