第217話:影の相性、二つの候補
朝。
空島の縁から、やわらかい風が流れ込んでくる。
甲板に出ると、もう起きていたリュカが、手すりにもたれていた。
「おはよ〜」
眠そうな気の抜けた声。
いつも通りだ。
その視線が、俺の横に動く。
一瞬だけ、鼻を鳴らした。
「……ん? スンスン」
顔を近づけるでもなく、ただ、軽く息を吸う。
「リネア、昨日コール、と居たのか?」
リネアは一拍置いてから、いつもの調子で返す。
「……べ、べつに?」
リュカは俺を見る。
ニヤッともしない。
ただ、意味ありげに。
「ふ〜ん?」
それだけ。
でも、その後は何も言わない。
リネアも、いつも通りに視線を逸らして、甲板の向こうを見る。
昨日みたいな、硬さはない。
肩も、呼吸も、ちゃんと“戻ってる”。
リュカはそれを見て、
小さく肩をすくめた。
「ま、いっか。いつものリネアに戻ったみたいだし」
少し遅れて、シアが布包みを抱えてやってくる。
「……おはようございます」
目が合って、軽く会釈。
それから、リネアの前に立つ。
「これ……昨日の夜、少し手を入れました」
布を解く。
革の胸当てと、腰に沿う形のホルスター。
無骨すぎない。
でも、動きやすそうだ。
「普段の服のままでも、邪魔にならないように……」
リネアは一瞬だけ目を見開いて、すぐに、いつもの顔で受け取った。
「シア……ありがとう!」
短い。
でも、ちゃんとした声。
シアはほっとしたように息を吐く。
目が合い、互いに微笑みを交わす。
リネアは軽く身につけて、
腕を回し、腰をひねる。
「……動きやすい」
リュカが口を挟む。
「お、戦う気満々じゃん」
「……これなら……もっと戦いやすい」
胸を張ってリネアはそう答えた。
その返しが、もう“いつものリネア”だった。
その時。
見張り台のほうから、ロープで降りてくる音がした。
ネラだ。
外套を肩にかけたまま、いつもの落ち着いた足取り。
状況を一目で把握して、まず目に入ったのは――リネア。
胸当てとホルスター。
ネラは、一瞬だけ足を止める。
「……」
リネアはそれに気づいて、くるっと振り返った。
「お姉ちゃん……」
少しだけ、声が弾む。
「シアが、作ってくれたの。……どう? 似合う?」
ネラは何も言わず、リネアを上から下まで一度だけ見る。
姿勢。
呼吸。
目。
妹の昨日の硬さは、もうない。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……ああ」
短く。
「よく、似合っている……
動きも、邪魔になっていない……」
「ほんと?……」
「嘘を言う理由がない……」
リネアは、嬉しそうに小さく笑った。
ネラは、そのまま視線を横にずらす。
――俺を見る。
一瞬だけ。
本当に、一瞬。
誰にも気づかれないくらいの間で、ほんの少しだけ、口角が上がった。
リュカはそれを見ていない。
シアも、リネアも気づいていない。
俺だけが、その微笑みに気づいて、何も言わず、息を吐いた。
朝の風が、雲を揺らす。
空島は、もう完全に目を覚ましていた。
ーーーーー
雲の影が、ゆっくりと流れている。
ウィンスキーとハイポールを連れて、
草原に立った。
そして、二人に左を向ける。
「左だけだ。……こい」
影は静かに応えた。
声はない。
意思だけが、確かに伝わる。
二人は形を失い、俺に絡まり、集まり、左肩へと這い上がっていく。
そして別の形が、生まれた。
影の左腕。
指が、一本ずつ輪郭を持つ。
関節が、影の中で定まる。
握る。
――握れる。
開く。
――動く。
だが。
(……遠い)
命令は通る。
力も出る。
それでも、感覚が一段、奥にある。
手袋越しですらない。
もっと曖昧な距離。
俺は、軽く腕を振った。
戦える。
間違いなく。
……だが同時に、胸の奥がじわりと削れる。
(……長くは保たないな)
影を“留めている”だけで、消耗していく。
制御は安定している。
引きずられる感覚もない。
それでも――これが常ってわけにはいかない。
(……もう、無理だな)
一人じゃ……。
前みたいには、戻れない。
影がいれば戦える。
繋がっていれば、刃を振れる。
でも逆に言えば――
誰もいなきゃ、俺はもう戦えない。
影を解く。
左腕は、静かに溶けて消えた。
俺は顔を上げ、草原の向こうを見る。
俺は、静かに息を吐いた。
ーーーーー
ほどなくして、足音が増えていく。
リュカ、シア、リネア、ネラ、ミラ、エレナ。
シガ、シェアラ。
船の連中が、草原に集まってくる。
「なんだ? 全員あつめて?」
リュカが首を傾げる。
俺は答えず、ただ全員を見渡した。
「……今から」
声は低く、はっきり。
「一人ずつ、俺とやってもらう」
一瞬の間。
「は?」
リュカが素で聞き返す。
「模擬戦だ。
手加減は、各自判断でいい、強さじゃなくて流れを確かめたい」
ざわ、と空気が揺れる。
「ちょ、ちょっと待って」
シアが一歩出る。
「コール様……腕は……」
俺は左肩を見せるでもなく、ただ言った。
「だからだ」
短く。
「俺は、もう一人じゃ戦えない……」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
俺は、草を一度踏みしめる。
「だから確認する。
誰と、どう組めばいいのかを」
視線が交錯する。
冗談じゃないと、全員が理解する。
「相手は俺だ――影全部で、行く」
リュカとシアの目が、同時に見開かれた。
「……は?」
「全部……?」
俺は答えない。
影が、足元から静かに立ち上がる。
草原に、異様な気配が満ちていく。
「最初は――」
俺は、リュカを見る。
「お前だ」
リュカは一瞬だけ黙り、
それから、にやっと笑った。
「……まじかよ。でもまあ……」
腰を落とす。
「相手が影のコールなら、手は抜かねぇぞ?」
影が、俺の背後で揺れた。
「それでいい」
そう告げると、俺の後ろに並んでいたシャドーズは背中から体にまとわりつく。
「イヒヒ……じゃあ……かかってこい!」
ーーーーー
模擬戦は、淡々と進んだ。
勝ち負けを決めるものじゃない。
相性を、身体で確かめるためのものだ。
◆リュカ
最初から、考えていない。
剣一本、獣化した脚で、草原を斜めに走る。
直線じゃない。
予測の外から、斬り込んでくる。
(……速い)
影が先に反応するより、
身体が勝手に合わせに行く。
リュカは俺を“見て”いない。
俺の動きの先を、勘で拾ってくる。
(こいつ、気転は異常だ……)
合わせる、というより、
噛み合ってしまう。
意図しなくても、戦いが続く。
止めどころが分からなくなるほどに。
◆シア
間合いは、少し遠い。
短剣が、二度、三度と空を裂く。
手数。
抑え。
決して前に出すぎない。
獣化した瞬間、力は跳ね上がるが、
それでも無理はしない。
(……止め役だな)
俺が踏み込みすぎる前に、
自然とブレーキがかかる。
安定している。
だが――決め手には、ならない。
◆リネア
銃声は、正確だった。
一切の無駄がない。
だが、距離が詰まった瞬間、
わずかに、判断が遅れる。
影が、楽しくなりかける。
(……駄目だ)
この組み合わせは、
俺が前に出すぎる。
強い。
だが、危うい。
◆ネラ
完璧だった。
判断も、間合いも、選択も。
無理がない。
無駄がない。
だが――前に出ない。
(……従う側だ)
強すぎるがゆえに、
自分を軸にしない。
◆ミラ
一振りで、全部が終わる。
それだけ。
影が、本能的に距離を取る。
(当たりたくねぇ……)
組む相手じゃない。
言い方が悪いが、兵器級だ。
◆シガ
引かない。
倒れない。
守るために、そこに立つ。
影が、ふざけない。
(……戦友だ)
肩は並べられる。
だが、俺の片腕ではない。
◆シェアラ
速い。
軽い。
遊撃としては、申し分ない。
だが、決定力に欠ける。
(補助だな)
悪くはない。
主軸にはならない。
そして――
◆エレナ
強い。
単純に。
影が、暴れない。
俺も、無理をしない。
円が、自然に回る。
(……やっぱり、強い)
だが。
ほんの一瞬。
踏み込みの“初動”だけ――
リュカより、わずかに遅れる。
野性的な勘。
瞬間の判断。
そこだけは、
リュカのほうが上だと、はっきり分かった。
ーーーーー
影をほどく。
絡んでいた黒が、ゆっくりと霧散した。
草原に残るのは、ただの朝の光だけだ。
俺は一度、息を整える。
「はぁ……はぁ……だいたい、分かった」
(……二人だな)
理性と制御のエレナ。
勘と気転のリュカ。
――選択は、まだしない。
だが、答えの形は、
もう、出はじめていた。




