第216話:指輪
部屋の前に戻る。
灯りは、ついている。
消すほど眠くもない、そんな明るさ。
俺は、一度だけ深く息を吸って――
ノックした。
……二回。
間。
すぐには返事がない。
逃げたか?
閉じたか?
そう思った瞬間――
「……誰」
扉越しの声。
小さいが、はっきりしている。
「俺だ」
間。
さっきより、少し長い沈黙。
「……今、いいか?」
「いい」
短い。
でも、拒まれてはいない。
俺は、もう一度だけノックしてから、
扉を開けた。
部屋は静かだった。
椅子の上に投げ捨てられたような弓。
だがテーブルには綺麗に二丁、銃が並べられている。
簡素な寝台。
窓の外には、雲の海。
灯りは壁際の魔導灯ひとつだけ。
リネアは、ベッドに座っていた。
砲撃のあとと同じ服装。
髪も、そのまま。
ただ――
砲台の前にいた時より、少しだけ小さく見えた。
俺は何も言わず、
リネアの隣に腰を下ろした。
距離は、腕一本分。
触れないが、遠くもない。
天井を見る。
木目と、魔導灯の淡い光。
しばらく、どちらも口を開かない。
静かだ。
雲の流れる音すら、ここまでは届かない。
「……どうした?」
先に言ったのは、俺だった。
天井を見たまま。
リネアは、すぐには答えない。
膝の上で、指がゆっくり絡まっては離れる。
癖だ。
考えている時の。
「……別に」
冷たい声。
拒絶じゃない。
距離を取るための声。
俺は、天井を見たまま口を開いた。
「人が変わる時ってのは……だいたい二つしかない」
リネアの指が、わずかに止まる。
「どうしようもなく辛くなった時か……
自分が許せなくなった時だ」
天井を見たまま、俺はそう言った。
「怖かったか?」
説明はしない。
理由も添えない。
ただ、問いだけを置く。
リネアの指が、膝の上で止まった。
「……」
「俺が喰われた時」
淡々と続ける。
「腕を持っていかれて……血が出て」
リネアは何も言わない。
否定もしない。
「あれのせいだろ? ……いまのリネアは考える前に、感情を切ってるのは」
俺は、ようやく天井から視線を外し、
横に座る彼女を見る。
「……それは、逃げでも弱さでもない。人として、当たり前の反応だ」
一拍。
「でもな」
声を、少しだけ強くする。
「それは“強くなった”ってことじゃない」
リネアの目が、わずかに揺れる。
「ただ、耐えてるだけ……俺も昔はやってた。ただの痩せ我慢だ」
俺は、視線を外さない。
「それで守れるものもある……でも、失うものも多い」
少し間を置いてから、静かに言った。
「……それに」
呼吸ひとつ。
「俺は、前のリネアのほうが好きだ」
言い切る。
迷いはない。
「怖がって、それでも撃って。
撃ったあと、俺を見るやつ……」
思い出しながら少し微笑んだ。
だがすぐに表情を戻す。
真剣に。
「今のお前を否定する気はない。変わった理由も、ちゃんと分かってる」
でも、と続ける。
「それでも俺は。
前のお前を好きになった自分を、裏切らない」
沈黙。
リネアの視線が、初めてはっきりこちらを向く。
「……それ、ずるい」
小さな声。
「そうかもな?」
少しだけ間を置いてから、言う。
「……答えを、うまくまとめなくていい。
正解も、理由もいらない」
リネアの肩が、ほんのわずかに下がる。
「俺が聞きたいのは、
変えようとした“結果”じゃない」
目を逸らさず、静かに。
「俺がいない間、
腕を喰われたって聞いた時……その時、お前が何を思ったかだ」
沈黙。
長い。
逃げる気配はない。
「……悲しかった」
ぽつり。
「私からは、飲まれたように見えた……死んだって、思った」
声は低い。
泣いてはいない。
「胸が、冷たくなって、
……何も、考えられなくなって」
一拍。
「私……」
そこで、はっきりと言葉が切り替わる。
「すぐに、動けなかった……」
俺は、何も言わない。
「ミラは、走った。
エレナも、守ろうとした……。
……でも私は、その場で、止まった」
リネアは、自分の膝を見る。
「銃は、持ってた。
撃てるって、分かってた……」
そして自分の両手を見た。
「あなたから、もらった……。
戦えるって……思ってた……」
指が、わずかに震える。
「でも……
目の前で、あなたが喰われて……。
……体が、動かなかった」
沈黙。
「怖かったんじゃない。
判断できなかったんでもない」
リネアは、ゆっくり顔を上げる。
「……何も、変わってなかった」
視線が、俺に刺さる。
「檻の中にいた時と同じまま……。
大事なものが壊れる時に…… 、私は立ち尽くすしかできなかった」
息を吐く。
「だから……自分が、嫌になった」
声が、少しだけ硬くなる。
「銃を持って、
撃てるようになって
……一緒に戦ってるつもりで。
でも、一番大事な時に……
私は、何も出来なかった」
間。
「それが一番、許せなかった……」
言い切ったあと、
リネアは、何も言わなくなる。
俺は静かに告げる。
「それで、いいんだよ」
リネアは、何も言わない。
ただ、聞いている。
「最初から動けるやつなんて、いねぇ」
一拍。
「まして、お前は……
ちゃんと戦うの、あれが初めてだ」
事実だけを、置く。
「銃を持って、
守る側に立って。
そんで……あの化け物だ。
……止まるのが、当たり前だ」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「それに俺も、初めてはそうだった」
リネアの指が、わずかに動く。
「命のやり取りじゃない。
しょうもない、ガキの喧嘩だ」
自嘲気味に、続ける。
「でもな、いざ殴られそうになった瞬間。
足が、すくんだ…。
頭が真っ白になって… 、
何をすればいいかも分からなくて 、
……そのまま、突っ立ってた」
横目で、彼女を見る。
「だから分かる。
止まったこと自体は、失敗じゃねぇ」
声を、少しだけ低くする。
「止まったまま、終わるのが失敗だ」
一拍。
「次に、動けりゃいい。
それだけで、十分だ」
リネアの肩が、
ほんの少しだけ下がった。
「……私、次は……」
小さな声。
俺は、被せるように言う。
「次は、来る。必ず。
だから変に背伸びすんな。
……そうやって積み重ねて強くなりゃいいんだよ」
沈黙。
「俺の好きなリネアなら……できる。だろ?」
魔導灯の光が、
静かに揺れる。
「……うん」
リネアはそっと頷いた。
しばらく、どちらも黙っていた。
俺は天井を見たまま、ぽつりと言う。
「なぁ、リネア……もう一つ、話しておく事がある」
リネアは何も言わない。
ただ、聞く姿勢でいる。
「俺は…一度、死んでる」
空気が、止まる。
説明はしない。
理由も、仕組みも言わない。
「リュカとシアと……エレナには、もう話してある。
お前には、言うきっかけがなかった…」
一拍。
「隠してたわけじゃない……本当に、ただ言う場所がなかった。だから今話しておく」
リネアは、驚いた顔はしなかった。
否定もしない。
ただ、静かに俺を見ている。
――そしてリネアにもすべてを話した後。
「……で、こっちが“今”の話だ。
リネアに話すのが遅れた分の詫びだな……」
少し、声を落とす。
「正直に言うとな…。
俺は、怖い……」
「怖い?…」
リネアの指先が、わずかに動く。
「覚えてるだろ? 最初に会った時…」
横目でリネアを見る。
「追われて、ボロボロで。
キリサの家で手当てされて……すぐ、回復した」
一拍。
「薬のおかげだと思ってた……でも、違うらしい」
左腕を、少し持ち上げる。
「包帯、外してくれ」
リネアが一瞬ためらってから、頷く。
俺は目を閉じた。
「どうなってるか……教えてくれればいい」
布の音。
包帯が解かれる感触。
風が、直接触れる。
「……どうだ」
間。
「……塞がり始めてる」
低い声。
俺は、息を吐いた。
「やっぱり、な」
目を閉じたまま続ける。
「腕は戻らない……でも……
治り方が、おかしい……速すぎる」
少しだけ、言葉が重くなる。
「俺は……それが、怖い」
沈黙。
「どこまで……人間なんだろうな……」
削れた左肩を右手で抑えて、震えた。
「……人間かどうかなんて、どうでもいい」
リネアは、静かに言った。
俺の左肩から、目を逸らさない。
「怖くても、壊れてても……
それでも、ここにいる」
一歩、近い。
「私は、それを選ぶ。ずっと……いつまでも」
迷いはない。
確認でもない。
俺は、思わず息を吐いた。
「……リネア」
名前を呼んで、
少しだけ笑った。
それから、彼女の指を見る。
細い、左手。
「……悪い。
指輪、喰われちまった」
一瞬の間。
リネアは、ほんのわずかに眉を下げて――
でも、すぐに小さく笑った。
「……また、つければいい」
そう言って、
俺の襟を掴む。
逃げ場なんて、最初からなかった。
距離が、消える。
――唇が、触れた。




