第215話:戻ってこい
爆煙が、ゆっくりと散っていく。
甲板に残ったのは、
火の匂いと、風の音と――沈黙。
俺は、もう一度だけリネアを見る。
小さな身体。
大砲の横。
夕焼けに縁取られた横顔。
さっきまでの戦闘の余韻が、
彼女の中だけ、妙に冷えて残っている。
いつもなら。
撃ったあとに俺を見る。
当たったか、怖くなかったか、
褒めてほしいか、不安か――
そういう“次”が、必ずあった。
でも、今はない。
視線は前。
落ちていった影の、その先。
……言葉が、要らない顔だった。
夕日が、沈み始めていた。
雲の下が赤く染まり、
海と大陸の境目が、ゆっくりと溶けていく。
陽だまりが消えていくのを、
じっと見てる時の――
あの、静かな目。
船の上は落ち着いている。
誰も騒がない。
でも、油断はしていない。
この時間帯だ。
俺は小さく息を吐いた。
「……日が落ちる」
それだけで、全員に伝わる。
魔物が動き出す時間。
さっきの化け物は、終わりじゃない。
だが今のところ、また追ってくる気配はない。
甲板の縁に立ち、夕焼けを背に考える。
この大陸は、危険だ。
夜を越す場所じゃない。
船も、俺たちも、
少し休ませる必要がある。
だから――離れる。
「ウィンスキー」
名を呼ぶと、すぐに反応があった。
「ッザ(敬礼)」
「地図を持ってこい」
魔道具の地図。
行った“場所”が、刻まれているやつ。
広げられた地図に、
淡い光の痕が浮かぶ。
案の定、知らされた後も“動く”場所は地図上でも動いていた。
俺はそれを見て、思わず呟いた。
「……思ったより近いな」
距離。
風向き。
高度。
頭の中で、線が繋がる。
懐に手を入れ、
コンパスを取り出した。
この大陸を越えるには、二日かかる。
だが、またここに二日かけて戻る気はない。
視線を上げる。
沈みきる夕日の、その向こう。
雲の層のさらに上。
俺は、コンパスを握り直した。
ーーーーー
――それから。
イルクアスターは、雲の上に浮かぶ島へ着陸した。
岩と雲が混ざり合った地面。
足を踏み出すと、確かに硬いのに、
どこか風に抱えられている感触がある。
周囲は、竜の住まう白い雲の海。
魔物はこの雲を超えてはこれない。
安全地帯だ……。
風はある。
だが、荒れていない。
雲が、島を包むように流れている。
船を降りた瞬間、
さっきまで感じていた魔物の気配の名残もなく、きれいに途切れた。
……ここなら、休める。
俺は一度だけ、空を見上げ息を吐く。
広場から島の端に向かい、雲の海に向かい呟く。
「……助かった」
その直後。
雲の海が、ゆっくりと盛り上がる。
白い奔流の中から、巨大な影が浮かび上がり――次の瞬間、竜の頭部が姿を現した。
「……無茶をしたようだな」
低く、風を含んだ声。
グラナシルだ。
黄金の瞳が、俺の左を射抜く。
「わけの分からねぇ化物に食われた」
俺は短く言った。
「……それと、剣を見つけた」
雲が、わずかに揺れた。
「そうか……」
それ以上、グラナシルは何も言わなかった。
問いも、詰問もない。
ただ――黄金の瞳が一瞬だけ、深く細まる。
「……戻れ。今は休め」
それだけ告げて、竜の気配は雲の中へ溶けていった。
俺は頷きもせず、踵を返す。
言葉を続ける気分じゃなかった。
船へ戻る。
甲板に足を踏み入れた瞬間――空気が、止まった。
「……」
最初に気づいたのは、ハッリだった。
数歩進みかけて、俺の左側を見て――固まる。
「……旦那……?」
その声で、全員の視線が集まった。
「よう、元気か?」
「……は?」
誰かが、間の抜けた声を漏らす。
次の瞬間――
「……腕が……ない……?」
言葉が、繋がらない。
ハッリは一歩、無意識に前へ出て、そこから、はっとしたように足を止めた。
「……冗談、ですよね……?」
俺は肩をすくめる。
「冗談に見えるか?」
見えない。
分かってる。
だから誰も、すぐに返せない。
甲板の空気が、重く沈む。
ちょうどここに来てるのは選抜隊……俺が訓練した地上への出稼ぎ組だ……。
「お前らも、こうなりたくなかったらしっかりやれよ!」
「「「「は、……はい!」」」」
久々に聞いた応答だ。
ーーーーー
甲板の縁から、島の草原を見下ろす。
シンたちが、降りていた。
「「「……」」」
最初に声を出したのは、アスハだった。
半ば呆然としたまま、視線を巡らせる。
「……空に、島? ありなの?」
ナイは、少し遅れて空を見上げる。
事実だけを確かめるような声だった。
「……浮いてる。雲の上を? 不思議……」
シンは、草を一度踏みしめてから、短く言う。
「……本当に、こんなところがあるんだ……」
それだけ。
三人とも、それ以上は喋らない。
騒がない。
感想も続かない。
ただ、目の前の光景を受け取っている。
――戦場じゃない。
でも、安全とも言い切れない。
そんな場所だと、もう分かっている顔だった。
俺は、甲板の視線を戻す。
リネア。
「……」
彼女は西の空を見ていた。
少し離れてネラも不安そうにリネアを見ていた。
夕日の名残が消えた、その先を。
風に髪が揺れても、
その視線だけは、動かない。
(……やっぱり、いつもと違う)
俺は、甲板を歩いてリネアの横に立った。
「……リネア」
名を呼ぶ。
少し間があって、
彼女は、ようやくこちらを見た。
「……なに?」
声は、落ち着いている。
いつも通り――のはずなのに。
俺は、空を指さすでもなく、ただ言った。
「今日は、もう休め」
リネアは一瞬だけ目を伏せ、
それから、西の空へ視線を戻した。
「……うん、そうする」
それだけだった。
理由も、
感情も、
何ひとつ、ついてこない返事。
――ああ。
(……やっぱり、今のリネアは
“ここ”にいない)
ーーーーー
空島の灯は少なくなり、廊下は静かだった。
雲の外を流れる風の音だけが、薄く響いている。
リネアの部屋の前に来て、俺は一度、足を止めた。
(……)
ノックする理由はある。
でも、言葉が追いつかない。
その時だった。
――扉の前に、もう一人いた。
ネラだ。
扉に手を伸ばしかけて、
でも、指先が触れる前で止まっている。
「……」
気配で気づいたのか、
ネラがゆっくり振り返る。
目が合った。
「……コール」
「……お前も、か」
それだけで、通じた。
ネラは一瞬、視線を逸らす。
「……こい」
「……あぁ」
ーーーーー
甲板に出ると、夜気がひんやりと肌に触れた。
雲の海は暗く、島の縁だけが淡く光っている。
ネラは手すりに肘をつき、少しだけ遠くを見ていた。
俺が隣に立つと、視線を動かさずに口を開く。
「……お前を探してた時からだ」
「俺を?」
短く、はっきり。
「お前が連れて行かれてから、様子がおかしかった」
俺は黙って続きを待つ。
「皆も心配して、声をかけた。
返事はする。笑顔も作る。……だから余計に、変だと分かった」
ネラは、手すりを指でなぞる。
「あの子は、私のところに来た」
「……リネアが?」
「そうだ……」
そこで初めて、ネラがこちらを見る。
「目の訓練の仕方を教えてくれと、頼まれた」
胸の奥が、少しだけ軋んだ。
「視覚に頼らない遠くの味方。動く標的を追う目の使い方。暗所での距離感の測り方」
ネラの声は、抑えているのに硬かった。
言葉の端に、昔の戦場の匂いが混じる。
「……遊びでやろうとするようなことじゃねぇな」
「だろうな」
俺がそう言うと、ネラは鼻で息を吐いた。
笑いにもならない。
「……私は、教えた」
淡々と。
でも、指先が手すりを強く掴んでいる。
「私はやめろなんて言える立場じゃない……だからやり方を教えた」
「立場?」
ネラは一瞬だけ、黙る。
夜の雲が流れていく音が、その沈黙を埋めた。
「……昔の話だ」
ぽつり。
「私は、守るためにあの子を閉じ込めた」
言い訳は続かない。
誇りも入らない。
ただ、事実だけが落ちる。
「檻に入れたのは私だ……“外”に出したら、殺されると思った。
後はお前も知っているな?」
俺は口を挟まない。
ネラが、続けたい顔をしている。
「それを、お前が壊した」
責める響きじゃない。
むしろ――確認に近い。
「扉を開けて、連れて行った。……あの子の足で、外を踏ませた」
ネラはようやく視線を落とす。
手すりから指を離し、拳を作って開く。
迷っているみたいな動き。
「だから、私たちは……普通じゃない」
夜風が強まり、髪が揺れる。
それでもネラは、表情を崩さない。
「普通の姉妹なら、こんな時に側にいて、話をしてやるものなのだろうな…… 」
ネラは手すりから視線を外さないまま、低く続けた。
言いながら、指先がわずかに震える。
自分の言葉が、どこか遠いみたいに。
「……だが私には、そのやり方が分からない。
慰める言葉も、叱る言葉も……どちらも嘘になる気がする」
俺は、少しだけ間を置いた。
「嘘でいい」
「……何?」
ネラが初めてこっちを見る。
「言葉なんて、全部嘘だ。
でも本当の気持ちは隠すな」
ネラは眉を寄せる。
だが反論はしない。
「お前が出来るのは、そばに居ることだ。
……『やめろ』じゃなくて、『戻ってこい』って言え」
「戻って……こい」
ネラがその言葉を舌の上で確かめる。
「……戻ってくるだろうか?」
「戻らせる」
俺は即答した。
ネラは、夜の雲を一度だけ見下ろし、短く息を吐く。
「……お前は、簡単に言う」
「簡単じゃねぇよ。
でも……俺は前のリネアが好きだからな……」
俺は、船の奥――リネアの部屋がある方向を見た。
「俺が扉を叩く」
「逃げられたら?」
「逃げたら追う。閉じられたら待つ。
――それでも開かないなら、また考える」
ネラは、ほんの一瞬だけ笑った。
笑いというより、諦めの形だ。
「……お前は、逃げ道を塞ぐのがうまいのだな」
「逃げ道を塞ぐんじゃない。戻る道を一本にするだけだよ」
ネラは黙って頷く。
「……ありがとう、とは言わない」
「あぁ。言うな」
夜気が、二人の間を通り抜けた。
遠く、空島の灯がひとつ揺れる。
ネラは最後に、ぽつりと言った。
「……私は、姉なのに」
「だからだ」
俺は短く返した。
「姉だから、悩む。
姉だから、手を伸ばす。……立派にあいつの姉ちゃんだよ、お前は」
ネラは何も言わず、
ただ一度だけ、ほんの少しだけ微笑んだ。




