第207話:失われた左腕
最初に見えたのは――
左側いっぱいに広がる、牙だった。
近い。
近すぎる。
歯は、閉じている。
――服だけだ。
布が、牙に挟まれ、
無様に引き延ばされている。
「……?」
一拍遅れて、理解が追いつく。
そこにあるはずの……銃を握りしめる感覚が、
途中で――途切れている。
左が。
ない。
ツツツツツ――
遅れて、痛みが来た。
鋭いとか、熱いとか、
そういう種類じゃない。
中身を掻き混ぜられる。
引きずり出される。
「……ッァ……!」
声にならない。
視線が、勝手に落ちる。
裂けた服。
血。
牙。
思考が止まる。
なのに――
身体だけが動いた。
右手。
剣は、まだある。
「ァ……ああああああ!!」
振る。
――ガン。
金属音。
手応えはある。
だが、刃は通らない。
もう一度。
――ガン。
同じだ。
牙は微動だにしない。
鳴るのは、挟まれた布だけ。
吐き気が、喉まで込み上げる。
その時――
背後の空気が、割れた。
「こーるちゃあぁん!!」
声。
直後――
ドン。
衝撃が、森を揺らした。
横から叩き込まれた一撃が、
牙を――砕く。
鈍い音。
何かが、弾ける。
敵の頭部が横に吹き飛び、
身体ごと、地面に転がった。
噛みつく力が消える。
俺は、崩れ落ちた。
片膝をつき、
地面に手を――つこうとして。
左が、ない。
息が、うまく吸えない。
視界が、白く滲む。
「こーるちゃん!!そんな…腕がぁ……」
声が、遠い。
大きな手が、背中を支える。
ミラだ。
振動が、伝わる。
怒りで、震えている。
「……許さない……」
遠くに、エレナの足音。
重い。
殺気が、森を満たす。
「……動くな」
誰に向けた言葉か、
分からないほど冷たい。
ネラの息が、荒い。
誰かが、俺の名前を呼ぶ。
何度も。
何度も。
でも――
音が、遠ざかっていく。
その時。
別の音が、混じった。
複数。
慌ただしい。
そして……ここにそれが現れた。
震えた声。
「……コール……さん?」
知らないはずの声なのに、
聞き覚えがある。
視界の端で、
人型が揺れた。
音が遠ざかっていく……。
………。
―――――
――腕が、ない。
それを理解した瞬間、思考が止まった。
地面に倒れている男。
血に濡れ、左肩から先が――消えている。
「……コール……さん?」
声が、勝手に漏れた。
返事はない。
呼吸は浅く、胸がかすかに上下しているだけだ。
周囲の空気が、異様に張りつめている。
砕けた牙。
横倒しになった化け物。
そして――それを囲む人間たち。
怒り。
殺意。
ここにいる全員が、同じ方向を向いているのが分かる。
「近寄るなぁッ!!」
怒鳴り声。
アスハの機体が一歩、前に出た時だった。
武器を構え、その切っ先は――倒れている彼に向いている。
その人は目が、蒼く光る。
でも泣いているのか、怒っているのか、分からない表情だった。
「そいつがッ……全部の元凶……」
一歩。
また一歩。
「邪魔よッ!!!」
殺す気だ。
本気で。
身体が、先に動いた。
「やめてください!!」
一斉に、視線が集まる。
喉が焼ける。
足が震える。
それでも、止まらなかった。
「そのままじゃ……死んじゃいますよ!!」
叫びながら、球核機の乗り口を開く。
「安全な所に運びます! 早くこっちに!!」
一瞬の沈黙。
「……は?」
アスハの声が、低く落ちた。
「シン……あんた……正気?」
憎しみ。
拒絶。
理解不能、という顔。
「助けます!、だから!!」
言い切った。
「あんた!……バカじゃないの!!」
怒号が、森に響く。
その瞬間――
「――下がれ」
低く、凍りつく声。
剣を構え、アスハの前に立ちはだかる。
一歩も引かない。
殺気が、はっきりと方向を持った。
背後で、大きな影が動く。
迷っている。
それが、はっきり分かる。
「……ミラさん……!」
声が、震える。
「このままじゃ……本当に……!」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
ミラの表情から、迷いが消えた。
「……こーるちゃんを……」
震える声。
「……死なせないで……」
次の瞬間、彼女は動いた。
怒号。
殺気。
泣き声。
全部が、同時に爆発する。
その中心で――
彼は、まだ意識を失ったままだった。
―――――
球核機の内部にコールが放り込まれた瞬間、
鈍い衝撃が身体を揺さぶった。
「閉じます!!」
叫びながら、半球状の外殻が閉じ、
外の森が歪んだ映像として引き伸ばされる。
中は、狭い。
血の匂いが、はっきり分かるほど濃い。
床に横たえられたコールは、
胸だけが、かろうじて上下していた。
「ッ……みん……な……」
「コールさん……、……ッ」
左肩は―― 。
目を背ける。
見ない。
見たら、手が止まる。
「行きます……!」
その瞬間だった。
――ゴリッ。
外で、何かが“踏み潰される”音。
エレナたちが一斉に振り向く。
「……行け!」
黒い影が起き上がり、地を這っていた。
裂けた口が開き、垂れた舌で……
地面に落ちていたはずの剣を、飲み込んだ……。
「ッ……」
喉が、ひくりと鳴る。
化け物は、誰も見ていない。
見ているのは――
コールの乗っている球体だけ。
「……っ!」
シンは反射的に、推進を最大に入れる。
球体が跳ね、
木々をかすめながら走りだす。
次の瞬間。
後方で――爆発。
エレナの斬撃だ。
光が走り、地面が抉れる。
ミラの一撃が続く。
衝撃が、空気ごと叩き潰す。
だが――
化け物は、止まらない。
“なにも無かった”みたいに通り抜ける。
ヘビのように地を這い、前足で蹴り、
真っ直ぐ――追ってくる。
「……なんでッ」
声が、裏返る。
球体が加速する。
森が、線になる。
それでも――
距離が、縮まらない。
後方に映る影が、
少しずつ、大きくなる。
――逃げてるのは、こっちだ。
「コールさん……」
床に目を落とす。
血に濡れた身体。
失われた左。
それでも、
彼はまだ――生きている。
「……死なせません」
シンが自分に言い聞かせるみたいに呟いた、その時。
背後で、
空気が“引き裂かれる”音がした。
化け物が、跳んだ。
視界いっぱいに、
裂けた口と、死んだ魚みたいな目。
距離、ゼロ。
「――ッ!!」
衝撃が来る。
そう思った、その瞬間だった。
視界の端で――
“影”が、追い抜いた。
地面が、爆ぜる。
――ドンッ!!
空気が、潰れる音。
球体の真横、
化け物の進路に――
巨大な何かが叩き込まれた。
巨大なハンマーだ。
地面ごと抉り、
衝撃が遅れて円を描く。
化け物の身体が、
横から叩き潰され、
森の木々を薙ぎ倒しながら転がった。
「ミラさん!」
視界に映る。
全力疾走。
地を蹴るたび、土が砕ける。
三メートル級の身体を低く構え、
怒りだけで前に出ている。
ハンマーを引き戻す動作が、
異様なほど――速い。
「触らせませんよ……」
声は、低い。
震えていない。
「それ以上……許さないからぁあ!!」
化け物が、起き上がる。
歪んだ身体。
裂けた口。
それでも――
視線は、球体から外れない。
次の瞬間。
空気が、裂けた。
ミラの横――
“もう一つの影”が、走り抜ける。
人の形。
だが、速すぎる。
地面に、足跡が深くのこる。
光が――
斜めに、走った。
剣と契約した身体が、
限界を超えて踏み込む。
化け物の前に、
“人間が立った”。
「……行け!!」
短い声。
刃が、閃く。
化け物の首元を狙った一撃。
今度こそ――
だが。
――カーン。
裂けた口が、歪む。
喉を捕えた剣が、“切れない何か”に当たったような音を発した。
「っ!……早く行け!! 振り向くな!!」
「……はい!」
短い返事だった。
それ以上、何も言わない。
言ったら、足が止まる気がした。
シンは推進を切らない。
球体は揺れながら、
焦げた大地を一直線に走る。
後ろは、見ない。
爆音も、
怒号も、
殺気も――
全部、背中に置いていく。
ただ、前へ。
床に横たわる男の胸が、
かすかに上下している。
それだけを、確認して。
球体は速度を上げ、
森の影を振り切っていった。
残されたのは、
潰れた地面と、
裂けた空気と――
追いつけなかった、
何かだけだった。




