第201話:疑いのまま、立て
甲板は、まだ少し騒がしかった。
ミラが紫の機体の周りをうろつき、
リュカは端の方でシアに背中を擦られながら文句を垂れている。
その時――
ふと、視界の端で動くものがあった。
船室へ続く扉。
完全には開いていない。
ほんの少しだけ、隙間が空いている。
そこから、黒髪の頭が、そっと覗いた。
目が合う。
一瞬だけ、空気が止まった。
俺は、甲板から動かないまま言った。
「……起きたか?」
少年は、黙ったまま口を開きかけ――
すぐに、言葉を飲み込んだ。
「あ……あの……」
一瞬、視線が泳ぐ。
次の瞬間。
「うわぁ!?」
黒髪の少年が、勢いよく扉から――
飛び出してきた。
……いや、違う。
後ろから、何かが当たった。
ゲールの腹だ…。
少年は前につんのめり、
慌てて振り向いて――
「なっ……!?」
ぎょっとした顔で、固まった。
ゲールは俺に視線を送り、
そして少年の頭に手を置く。
ぽん。
ぽん。
優しい手つきだった。
そして、片手で軽く親指を立てる。
――問題ない。
そう言いたげなジェスチャー。
少年は、しばらく瞬きを繰り返してから、
恐る恐る息を吐いた。
「……な、んだこれ……?」
ゲールは、何も言わない。
ただ、いつものように、
そこに立っているだけだった。
俺は、思わず息を吐く。
「……とって食ったりしねぇよ。調子はどうだ?」
俺の言葉に、少年は再びこちらに向きを直す。
「え……は、はい……大丈夫だと思います」
少し間を開けて、少年は続けた。
「僕は……殺されるんですか……?」
甲板の音が、少し遠くなる。
ミラの金属音。
リュカの文句。
帆を打つ風。
全部があるのに、
少年の視界には、俺しかいない。
俺は、一度目を閉じて少年を見直す。
「……誰に?」
「え……?」
「誰に殺されると思った?」
俺は少し鼻を鳴らして、首を傾けた。
少年の視線が揺れる。
逃げ場を探すみたいに、
一瞬だけ、甲板の端を見る。
それから――
観念したように、俺を見た。
「ここで、あなたに……」
恐怖と緊張感が見て取れる。
だが、俺は、ただ質問を続けた。
「……理由は?」
俺が聞くと、
少年は、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……その……」
声が、少し震える。
「空を飛ぶ船に乗ってる……紺のコートと帽子で、顔は隠れて目元しか見せない……
そして……誰もいなくなったあの港を、平然と歩いてた……」
一つ一つ、少年は確かめながら告げていく。
そして、最後に答えへとつなげた。
「……厄災を……」
少年は、そこで言葉を詰まらせた。
それでも、
逃げずに、言った。
「厄災を、呼び戻した人、だから……です……」
甲板の空気が、
ほんの一瞬だけ、冷えた。
俺は、否定しない。
笑いもしない。
「……それで?」
促すと、
少年は、息を吸い直した。
「……だから……もしその船がまた現れたなら……生き残りは……
見つけたら、消される……」
目が、伏せられる。
「そう、聞いてました……」
俺は、少しだけ考えてから言った。
「……なるほどな」
それだけだ。
少年が、恐る恐る顔を上げる。
「少なくとも」
俺は、甲板から一歩も動かずに言った。
「殺すつもりなら、
起こす前に終わってる」
はっきりと。
言い訳も、
説明も、
正義も、添えない。
ただの事実として。
少年の目が、見開かれた。
「…………」
言葉が、出てこない。
胸が上下している。
しばらくして、
ようやく、掠れた声が出た。
「……じゃあ……僕は……」
俺は、肩をすくめた。
「死なねぇよ」
一言。
「それ以上でも、それ以下でもねぇ」
沈黙。
少年は、しばらく立ち尽くしてから、
大きく、息を吐いた。
「……はぁあ〜」
それを聞いて、
俺は、初めて少しだけ視線を外す。
「……名前は?」
「……シン、です……」
「そうか、コールだ」
それだけ言って、
俺は甲板の騒がしさに目を戻した。
ミラは、まだ機体に夢中だ。
リュカは、相変わらず文句を言ってる。
いつも通り。
「……シン」
呼ぶと、
少年は、びくっと肩を揺らした。
「はいっ」
「安心しろ」
一拍。
「少なくとも、この船は――
生き残りを狩るために飛んでねぇ」
それだけ言って、
俺は背を向けた。
説明は、しない。
信用も、強要しない。
だが――
少年の胸に、
確かに、何かが落ちた音がした。
俺は背を向けたまま、ひとつだけ言った。
「……俺を、どこで知った?」
それだけだった。
振り返らない。
声も低いまま。
甲板の向こうで、シンが一瞬、息を詰まらせる気配がした。
「……」
答えないなら、それでいい。
そういう間を置いたつもりだった。
だが――
「……見たわけじゃ、ありません」
掠れた声が、背中に届いた。
「僕は……あなたや、この船を……直接、見たことは……」
俺は何も言わない。
続けろ、とは言わない。
止めもしない。
シンは、少し言葉を探すように間を置いてから、続けた。
「……別の街に、いました。
港でも、風の都市でもない……
ただの、交易路沿いの、小さな街です」
風が帆を鳴らす。
甲板のざわめきが、遠くなる。
「ある日……空が、赤くなって……
遠くで、地面が鳴って……」
シンの声が、わずかに震えた。
「最初は……噂でした。
“厄災が動いた”って……
でも、誰も信じなくて……」
唇を噛む音。
「……信じた時には、もう……
逃げるしか、なかったんです」
俺は、まだ振り返らない。
「街は……一晩で、なくなりました」
余計な説明はない。
「……逃げて……」
ぽつり、と声が落ちる。
「僕たちは……とにかく、逃げ続けました」
言葉を選ぶように、
一拍ずつ区切って話す。
「街じゃ……もう、どこも……
長くはいられなくて……」
俺は、何も言わない。
続きを促しもしない。
それでも、シンは続けた。
「人が多く、強い場所は……危なくて…… 港も……」
そこで、わずかに視線が揺れた。
――言いすぎた。
自分で、そう判断したらしい。
「……だから……」
言葉が、止まる。
俺は、ようやく口を開いた。
「……どこにいた」
短く。
事実だけを聞く声。
シンの肩が、びくりと跳ねた。
「……」
一瞬、完全に黙る。
逃げ場を探すみたいに、
甲板の木目を見て――
「……下です」
それだけ言った。
場所の名も、
種族も、
街の規模も、言わない。
「……あそこは、まだ安全なので」
付け足す声は、
明らかに“線を引いて”いた。
俺は、それ以上突っ込まない。
「さっきの……。逃げた他の二人とずっと一緒か?」
問いは、そっちへ流した。
シンは、少しだけ安堵した顔で頷く。
「……はい。
アスハと、ナイです」
名前を出したあと、
また口を噤む。
何をどこまで言っていいか迷っている顔だった。
俺は、それを見て言った。
「……そうか」
短く。
「守りたいもんがあるなら、
隠せ」
シンの目が、わずかに見開かれた。
「……え……?」
「信用してねぇ相手に、
全部話すほど、命は安くねぇだろ」
事実を言っただけだ。
評価でも、許可でもない。
シンは、数秒固まってから、
小さく息を吐いた。
「……やっぱり……
怖いです」
正直な声だった。
「……あなたが……
優しいのか、冷たいのか……
僕には……分からない」
俺は答えない。
答えないまま、
甲板の向こうを見る。
「……でも……」
シンが、続ける。
「殺すなら……
さっき、殺せた……」
自分に言い聞かせるみたいに。
「聞き出すなら……
無理に、聞けた……」
そこで、言葉が詰まる。
「でもそうしない……だから……」
言葉にならないまま、
視線が落ちる。
俺は、背を向けたまま言った。
「信じなくていい」
一拍。
「疑ったままでいろ」
それだけだ。
シンは、しばらく黙ってから、
小さく頷いた。
「……はい……」
完全な信頼じゃない。
安心でもない。
ただ――
“今すぐ逃げなくていい”という判断。
シンは、その中で、
まだ少しだけ距離を保ったまま、
俺の背中を見ていた。
――悪魔かもしれない。
――でも、今は、刃を向けていない。
その程度の認識で。




