第197話:印を身に、灰の港へ
目を覚ました時、船はすでに動いていた。
低い振動が床越しに伝わってくる。
一定で、乱れがない。
――順調だ。
天井を見上げたまま、しばらく動かずにいる。
誰の気配もない。
珍しい静けさだった。
ゆっくりと身を起こし、腰掛ける。
手を伸ばし、枕元に置いた装備を一つずつ確かめた。
耳飾り。
シャンディからもらった再会の約束。
リュカとシアに渡したものと、同じ色の硝子。
耳に通す。
金属の冷たさが、一瞬だけ残った。
次に、指輪。
リネアに渡したものと同じ。
指に嵌めると、ぴたりと収まる。
視線を落とし、もう一つのものを見る。
クラーケンの牙。
黒く、わずかに青みを帯びた曲線。
手の中で転がしながら、少しだけ考える。
(……ここまでしてくれたんだ)
自分で作ったネックレスを大事に握り、
首にかける。
重さは、ちょうどいい。
最後に、ベルト。
革の感触。
腰に回し、留め具を通す。
そこに下がる、小さなチャーム。
淡い青を含んだ光が、一瞬だけ揺れた。
エレナの剣のベルトにある物の、片割れ。
同じ形。
それを確かめてから、視線を外す。
(……行くか)
立ち上がり、扉を開ける。
廊下には、朝の匂いが流れていた。
誰かが起きている。
誰かが、もう動いている。
甲板へ向かう足取りは、昨日より軽かった。
理由は、言葉にしない。
ただ――進める。
表に出ると、空は澄んでいた。
雲の向こう。
厄災の大陸は、まだ見えない。
それでいい。
船は、進んでいる。
―――――
甲板の床扉に、ミラがいた。
背中をこちらに向けたまま、腰を下ろして鼻歌を歌っている。
飛んでいる間は、大体いつもここだ。
浮いてる時に甲板に立つのは危ないから、あんなふうに風を感じていた方が楽なんだろう。
「あ、こーるちゃん。おはよぉ〜」
「おはよう」
鼻歌が、ふっと途切れた。
ミラの肩が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
視線が、俺の首元に落ちる。
一瞬、互いの動きが止まる。
それだけで、十分だった。
何も言わず、ミラはまた前を向く。
鼻歌が、少しだけ高くなる。
次の瞬間――
「よいしょ〜」
「おい」
身体が浮いた。
気づいた時には、膝の上。
「……俺は熊さん人形じゃねぇぞ?」
「ちょっとだけで〜す……ふふ」
声は、いつもと同じ。
だが、腕に込める力が、少しだけ強い。
「ま、いいけどよ」
それだけ。
何も聞かない。
何も言わない。
―――――
舵を握り、船を走らせる。
甲板に、他の連中も集まり始めた。
「おっはよー!
……って、ちょっと待て」
リュカが、俺の腰元を指さした。
「それ、昨日なかったよな〜?」
「……あ?」
「ほら、そのベルトに付いてるの。
前からあったっけ〜?」
「どんだけ俺が好きなんだよお前は?」
「べ、別にそういうのじゃね〜し!」
照れ隠ししながらもリュカは、
じっと見てから、にやっと笑う。
「ふ〜ん?
厄災に行く前に騎士様と縁起担ぎか〜?」
「そんなとこだ」
「へぇ〜?」
納得したような、してないような顔。
――その視線が、今度は首元に移る。
一瞬、動きが止まった。
「……ん?」
「なんだ?」
「それさっき……ミラが。……いや、そっか」
リュカは、肩をすくめた。
「なんでもない。
似合ってんじゃん、それ」
それだけ言って、背を向ける。
追及は、しない。
――しないが。
(……増えたな)
そんなことを思っていそうな気配だけが残った。
―――――しばらくして
澄んでいたはずの空気に、
鼻の奥を刺す匂いが混じる。
潮じゃない。
油でもない。
――灰だ。
甲板の先に立っていたネラが、低く言った。
「……見える」
視線の先。
雲の切れ目の向こうに、
大陸の輪郭が、ゆっくりと現れ始めていた。
山は、低い。
川は、途中で途切れている。
町があるはずの場所。
――建物は、まだある。
だが、並びが歪んでいる。
道が、途中で終わっている。
広場の形だけが残り、そこに人の気配はない。
生活があった痕跡だけが、
まとめて削り取られたような光景だった。
「……」
リュカが、言葉を失ったまま立ち尽くす。
眉が寄る。
歯を食いしばる。
何かを言いかけて、喉の奥で押し潰した顔。
「……静かすぎだろ」
吐き捨てるような声は、
怒りにも、恐怖にもなりきらない。
視線が、俺の横顔に一瞬だけ触れ――
すぐに、前へ戻る。
聞かない。
責めない。
だが、分かっている。
――これは、
俺が作った景色だ。
―――――
船が、音もなく高度を落とした。
灰色の港が、足元に広がる。
かつて桟橋だった場所は、骨だけ残して崩れていた。
海面に落ちた木材は、焼け焦げたまま浮かび、波に揺れている。
――生臭さが、ない。
死体も、血も。
燃え残りすら、ほとんど見当たらなかった。
焼かれたあと、
何も残らなかった港。
「……降りるの?」
リネアだった。
責める声じゃない。
だが、迷いは隠れていない。
「ここ……何もないよ……」
その通りだ。
敵影も、気配もない。
救う相手も、見当たらない。
それでも――。
「……俺がやったことだ」
言葉は、それだけだった。
甲板に沈黙が落ちる。
誰も返さない。
背中に、視線を感じる。
リネア。ネラ。
リュカ。シア。
ミラ。エレナ。
シガ。シェアラ。
誰も、止めない。
だが、誰も肯定もしない。
――審判みたいな視線。
それを受け止めたまま、俺は言った。
「後悔はない」
そして前だけを見つめて一歩、
踏み出す。
「……でも、これは俺が見なきゃいけない」
振り返らない。
「一人にしてくれ……」
返事は、なかった。
甲板を降りる。
焦げた石の感触が、靴底に伝わる。
背後で、足音が二つだけ増えた。
影の船員、ウィンスキーと、ハイポール。
港の奥。
焼け落ちた倉庫の向こうに、大きな門が見える。
町へ続く、大門。
半分崩れ、門扉は溶けたように歪んでいた。
その下をくぐる。
町は――静かだった。
建物の壁は残っている。
だが、窓はすべて空洞だ。
扉は開いたまま、内側が焼け落ちている。
足跡は、ない。
逃げた痕跡も、争った跡もない。
広場に出る。
噴水の跡。
石畳の中央。
人が集っていたはずの場所。
そこに――音がした。
赤ん坊の、泣き声だった。
甲高く、かすれている。
助けを求めるような、弱い声。
……あり得ない。
この広場に、そんなものが残るはずがない。
それでも、足は止まらなかった。
懐に手を入れる。
銃を一丁、抜いた。
もう一方の手で、剣の柄を握る。
理由を考える前に、身体が先に動いていた。
鳴き声のする方へ、向かう。
石畳に、足音がひとつ。
背後で、影がふたつ分、遅れてついてくる。
ウィンスキーと、ハイポール。
泣き声は、途切れない。
人の声に近い何かが、
広場の奥で、待っている。
瓦礫の影。
崩れた壁の奥。
泣き声が、すぐそこまで近づいた――
その瞬間。
影が跳ねた。
赤ん坊の声が、唐突に歪む。
喉を裂いたような、濁った音。
前方。
泣き真似をしていた“それ”が、四肢を広げて飛びかかってくる。
同時に。
左右。背後。
瓦礫の隙間から、いくつもの影が立ち上がった。
囲まれる。
「……悪趣味だな」
吐き捨てるように言う。
引き金を引いた。
パーン
乾いた音が、広場に響く。
正面の“それ”の頭部が、弾け飛ぶ。
鳴き声は、そこで止まった。
剣を構え直す。
足を踏み込み、身体を低く落とす。
戦闘態勢。
背後の二人の影が、一斉に動いた。
俺の前に滑り込み、
迫る影を塞ぐように立ちはだかる。
そして――
遠くで、石を削るような音がした。
この広場の外から。




