第190話:配置
天井が、近い。
一瞬、どこだか分からなかった。
板の継ぎ目がやけに粗く、梁も低い。
船長室の天井じゃない。
(……あ?)
身体を起こそうとして、揺れに遅れた。
ぎし、と縄が鳴る。
視界が傾き――
「……っな!?」
次の瞬間、足場が消えた。
落ちる、と思った時にはもう遅い。
どさっ。
「……ぶへ!?」
柔らかい感触と、くぐもった声。
衝撃はほとんどなかった。
――ミラだ。
「ふぁ……こーるちゃ〜ん?」
布団代わりに敷かれた毛皮の上で、
ミラがきょとんと目を瞬かせていた。
「……悪い」
「いえぇ……大歓迎ですぅ……」
その一言のあとだった。
ぐい、と視界が暗くなる。
「まず……っ!?」
次の瞬間、背中に圧が来た。
腕。いや、腕というより丸太。
(完全に寝ぼけてる!!!)
ミラの大きな腕が、寝ぼけたままこちらを包み込む。
「こーるちゃ〜ん……あったかいですねぇ……」
ぎゅう……ぎぎぎぎぎ。
「……っ、待て、ミラ……!」
返事はない。
完全に半分夢の中だ。
胸に顔が埋まる。
視界ゼロ。
呼吸が、物理的にしんどい。
(……まずい)
ミラは三メートル級の牛人。
体重も、筋肉も、骨格も、人間の比じゃない。
締め付けは悪意じゃない。
むしろ、無意識の安心行動なのだが……。
だから余計に、力加減がない。
「……っく!! ミラ……!」
返事は、もごもごした声だけ。
「ん〜……もう少しぃ……」
さらに力が入る。
視界が、ちかちかする。
(まずい……潰れる)
判断は早かった。
「し! シアァアアアア!!」
叫んだ瞬間――
がたんっ!!
甲板の床扉が、勢いよく開いた。
「コール様!?」
低く唸るような声。
次いで、軽い着地音。
「なにが……って、あぁ!?」
「どうしっ……たぁ!?」
シアとリュカだ。
「た、たすけ……」
シアはすぐに人狼形態。
倍ぐらいの大きさになり、牙が覗く。
完全に臨戦姿勢。
リュカも猫の獣化で、床を蹴って滑り込んでくる。
「ミラ! 起きろ!!」
シアが叫びながら、ミラの腕に両手をかける。
筋肉が盛り上がる。
「ふんぬぬぬぬ!!……っ、重っ……!」
全力で引き剥がしにかかるが、ほとんど動かない。
だが、気道は確保された。
「はぁ、はぁ、はぁ! やっと息できた!!」
リュカも反対側から腕に飛びつく。
「おい牛! それ“抱き枕”じゃねぇ!!」
「ん〜……?」
ようやく、ミラの意識が浮上しかける。
だが、腕はまだ緩まない。
「こーるちゃん……?」
「ミラ! 離せ! 本気で潰れる!!」
その言葉で、ようやく完全に覚醒したらしい。
「……え?」
一瞬、状況を理解し――
「……あっ」
慌てて腕が緩む。
その一瞬の隙間を、シアが逃さなかった。
「今!」
リュカが床を蹴り、
シアが腕をこじ開ける。
俺は、その隙間から転がるように脱出した。
ごろっ、と毛皮の上を転がり、床に落ちる。
「……っは……!」
ようやく、まともに息ができた。
背中を床につけたまま、天井を見る。
――さっきより、ずっと遠い。
シアがすぐに駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!? コール様!」
「あぁ……生きてる……」
「そりゃよかったな!!」
リュカが腕を組んで、ミラを睨む。
「起き抜けで人一人絞め殺すなよ!」
「す、すみませんですぅ〜……」
ミラは両手を胸の前で揃え、しょんぼりする。
「寝ぼけてましたぁ……」
「寝ぼけで済む問題じゃねぇ!」
俺は一度深く息を吸って、吐いた。
「……いや」
全員の視線が集まる。
「ミラが悪いわけじゃない」
そう言ってから、身体を起こす。
「俺が、落ちた……」
短く、それだけ。
ミラが、少しだけ安心したように耳を揺らす。
「……次からは、ハンモックの結び、強くしますぅ」
「それはそうしてくれ……頼む」
床扉の向こうから、朝の光が差し込んでいた。
甲板の気配。
もう、みんな起きている。
(……変わった朝だな)
―――――
甲板は、すでに動いていた。
帆は張られ、風を噛んでいる。
雲が、ゆっくりと足元を流れていく。
高度のせいか、空気は澄んでいて少し冷たい。
朝の光が、甲板の木目を斜めに切っていた。
俺はベンチに腰を下ろし、水筒を受け取る。
「……飲める?」
リネアだった。
少しだけ不安そうに、でも踏み込みすぎない距離で立っている。
「あぁ……助かる」
一口、飲む。
冷たい水が喉を通り、胸の奥まで落ちていく。
ようやく、身体が“朝”に追いついた。
「……ほんとに大丈夫?」
「潰れかけただけだ……」
「それ、大丈夫って言わない……」
小さく眉を寄せてから、でも目を逸らさずに俺を見る。
「怪我、してない?……」
「してない。
多分、ミラのほうがびっくりしてる」
そう言うと、リネアは少しだけ息を吐いた。
「……なら、いい」
それ以上は言わない。
聞きたいことも、言いたいことも、全部飲み込んだ顔だった。
そのとき――
前を、すっと影が横切る。
リュカだ。
早足でもなく、ゆっくりでもない。
だが、明確な方向を持った歩き方。
視線の先。
舵の近くだ。
操舵輪を握っているのは、影のウィンスキー。
無言で、正確に、風と高度を読んでいる。
その横。
腕を組み、前を見据えて立つ人影があった。
エレナだ。
鎧は軽装。
だが立ち姿が、やけに“決まって”いる。
船の規律上、そこに立つ必要はない。
誰の席でもない。
それでも――
遠目に見ると、まるで船長補佐か何かのようだった。
「おい」
短く、鋭い声。
リュカが、舵のほうを指さしていた。
「そこ、勝手に立つな」
はっきりした口調。
回りくどさはない。
「……そこは、コールの場所だ」
甲板が、静かになる。
舵を握る影のウィンスキーは何も言わない。
ただ、風を読み続けている。
その横に立つエレナは、腕を組んだまま、微動だにしない。
落ち着いた声。
「決まりはないはずだが?」
リュカは一歩踏み出す。
「あるんだよ。
少なくとも、あんたの場所じゃねぇ」
尻尾が、ぴんと立っている。
怒りというより、譲れない線だ。
俺は、小さく息を吐いた。
(……朝から元気だな)
ベンチを離れ、歩き出す。
その途中――
いつもなら、止めに入る気配がある。
『やめなさい、リュカ』
そう言う声が。
だが、ない。
シアは少し離れた階段の下で立ったまま、見ていた。
俺と視線が合う。
通り際にそっとシアの腕に触れた。
ほんの一瞬。
確認みたいな動作。
シアは、何も言わずに、ただ瞬きを一度して反省したようにうつむく。
(……そうか)
止めない、という選択。
(まぁ、怒る気はねぇけど……)
俺はそのまま、階段に足をかける。
上へ。
舵のある位置へ。
その間も、リュカの声は止まらない。
「昨日なんかあったのは知ってるけどさ」
エレナに向けて。
「だからって、いきなり“そこ”に立っていい理由にはならねぇだろ?」
エレナは、視線を前に向けたまま答える。
「理由ならある」
「……は?」
「私が居たい場所だからだ……」
その言葉に、リュカが一瞬だけ言葉を詰まらせる。
エレナは続ける。
「昨日、私は違うことをした。
だからこそ、今日は逃げない……」
腕を組んだまま、姿勢を崩さない。
「ここは、私にとって一番落ち着かない場所だ。だがどこに立つかは決められる」
堂々とした声。
居座りではなく、自覚的な立ち位置。
俺は、階段を上がり切り、舵の横に立った。
「……おはよう」
短く言う。
リュカが、ちらっとこちらを見る。
「おいコール。
そこ、おまえの場所だろ」
「ああ」
肯定する。
そのまま、舵の近くに立つ。
エレナと、同じ高さで。
影のウィンスキーは、無言のまま一歩だけ位置をずらした。
いつもの動きだ。
俺はウィンスキーと代わって舵を握る。
エレナを一度だけ見てから、前を向く。
「……立ってていい」
それだけ言う。
命令でも、許可でもない。
事実の確認みたいな声。
リュカが、舌打ちしかけて、飲み込んだ。
「……チッ」
それ以上は言わない。
言えない。
シアは、遠くでそれを見ていた。
止めなかった理由も、
止めなかった覚悟も、
全部含んだ目で。
帆が、風を強く噛む。
船は、変わらず前へ進む。
昨日とは、少し違う位置関係で。
―――――
舵の周りの空気が、落ち着いた――ようで、そうでもない。
エレナが前を見る姿勢を崩さないまま、
今度は反対側に、影が動いた。
リュカだ。
わざとらしくでもなく、勢いでもなく。
自然に一歩、位置を変える。
エレナの反対側。
同じ距離。
同じ高さ。
舵を挟んで、左右。
尻尾が、ゆっくり揺れる。
威嚇でも、挑発でもない。
ただ――そこに立つ。
俺は視線だけでそれを確認し、何も言わなかった。
(……なるほどな)
リュカは、近づかない。
触れない。
甘えない。
昔からそうだ。
俺の横に立つ。
背中を預けられるちょうどいい位置に勝手にいる。
それが崩れたことに、
本人が一番、戸惑ってる。
エレナは、ちらりとも見ない。
前を向いたまま、腕を組んでいる。
そこに甲板から、
階段を上がってくる音。
誰かはすぐに分かった。
「……コール様」
シアだ。
人狼化は解けている。
いつもの姿。
俺の少し後ろで足を止め、
一拍置いてから、静かに言った。
「さっきは……止めなくて、ごめんなさい」
声は低く、はっきりしていた。
言い訳しない言い方。
俺は、舵から目を離さずに答える。
「謝ることじゃねぇ」
シアは、少しだけ唇を噛む。
「……でも」
視線が、リュカの背中に向く。
「私も、多分同じ気持ちだったので……止めませんでした」
それ以上は言わない。
でも、十分だった。
俺はようやく振り向き、シアを見る。
「分かってる」
短く。
「だから、止めなくていい」
シアは、少し驚いたように瞬きをしてから、
静かに息を吐いた。
「コール様……」
その声は、安堵に近い。
リュカは、こちらを見ない。
でも、耳が一度だけ動いた。
聞いている。
エレナは、相変わらず前を向いたまま、低く言った。
「安心しろ……アレが悪意でないことぐらいは、私にも分かる」
リュカが、即座に返す。
「うるせぇ。あんたが近いせいだ」
「近づいた覚えはない」
「“そこにいる”だけで十分なんだよ」
少しだけ、噛むような言い方。
だが、敵意はない。
俺は、二人の間に言葉を挟まない。
必要ない。
これは喧嘩じゃない。
配置の問題だ。




