第187話:王剣の重さ
中庭の広場には、余計な音がなかった。
船の準備は続いているはずなのに、そこだけが切り取られたみたいに静かだ。
イルクアスターは少し離れた位置から見下ろす形になり、影たちも動きを止めている。
見守る人間は多い。
だが、誰も口を開かない。
リュリシアは一段高い石段の上。
アドリアンはその半歩後ろ。
エレナは広場の中央で立ち止まり、ゆっくりと剣を抜いた。
――ヴァルセリクス。
抜き身の刃を、俺の前に差し出す。
受け取った瞬間、手に伝わる重みは覚えていたものと同じだった。
だが……なのに、違う。
刃を見下ろす。
「……久しぶりだな?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
かつては、抜いた瞬間に光が走った。
刃全体を包む、はっきりとした青白の輝き。
だが今は――
光は、ある。
ただし弱い。
輪郭がぼやけたような、曖昧な光が、刀身の奥で滲んでいるだけだ。
眠っている、というより。
距離を取られている、そんな感じだった。
俺は何も言わず、剣を構え直す。
その正面で、シャンディが一歩前に出た。
腰の剣を抜く。
――ヴァルセリオン。
澄んだ金属音が、中庭に響く。
刀身を覆う光は、エレナのものほど強くない。
だが、その色は覚えがあった。
金色に近い光。
かつて、セイヴァーとして……俺が騎士“アーク”として、ヴァルセリクスを抜いていた頃。
あの時と、同じくらいの輝き。
思わず、視線が剣からシャンディへ戻る。
シャンディは構えを変えない。
気負いも、誇示もない。
ただ、真っ直ぐ立っている。
だがそれだけで分かった。
あの時の少女とは違う。
(――なるほどな)
言葉にはしない。
でも、胸の奥で何かが噛み合った。
エレナが、静かに告げる。
「始めるぞ」
誰も異を唱えない。
風が吹いた。
広場の砂が、わずかに舞う。
俺は一歩、踏み出した。
剣が応えるかどうかじゃない。
――あいつが、どこまで来たのか。
それを、確かめるだけだ。
風が、もう一度吹いた。
広場の砂が薄く舞い、足元を撫でる。
音はそれだけだった。
俺は剣を正眼に構える。
構えは昔のまま。
身体は覚えている。
――だが。
ヴァルセリクスは、応えない。
拒絶じゃない。
沈黙だ。
刃の奥で滲む光は、
こちらを試すでもなく、
励ますでもなく、
ただ“そこにある”だけ。
昔のように、剣に引っ張られる感覚はない。
(……そうか)
俺は、わずかに息を吐いた。
守られてたんだな……あの頃は。
対するシャンディは、構えを変えない。
足の位置、重心、呼吸。
全部が、静かに整っている。
――剣が主じゃない。
剣を使う“人間”の立ち方だ。
エレナが、低く言った。
「……来るぞ」
その声と同時だった。
シャンディが、踏み込む。
速い。
迷いがない。
でも、突っ込まない。
一歩目で距離を詰め、二歩目で角度を変える。
俺は反射で剣を振る。
金属が噛み合う――はずだった。
だが。
キィン、と高い音が鳴った瞬間、俺の剣は、わずかに弾かれた。
「……っ」
軽い。
いや、違う。
合わせられている。
シャンディの刃が、こちらの剣筋を“なぞって”流していた。
力じゃない。
技術でもない。
――判断の速さだ。
俺は間合いを切る。
一歩下がる。
その一瞬で分かる。
(こいつ……“剣がどう動くか”を見てない)
見ているのは、俺の肩。
腰。
踏み込みの癖。
――人を見てる。
次の瞬間、シャンディが剣を翻す。
横薙ぎ。
だが、狙いは胴じゃない。
俺は即座に剣を立てる。
ガンッ!!
重い音。
手首に痺れが走った。
踏み込まれている。
間合いの“外”から、間合いの“中”へ。
剣の光が交差する。
ヴァルセリオンの淡い金光が、一瞬、強く脈打った。
――それを、俺は見逃さなかった。
(……あぁ)
理解が、胸に落ちる。
こいつ、もう剣を振ってるレベルじゃない。
王剣に「振らせて」いる。
俺は、笑った。
「本当に……強くなったな」
声に、嘘はない。
その言葉に、シャンディの目がほんの一瞬だけ揺れた。
だが、止まらない。
剣が、再び来る。
今度は直線。
速い。
真っ直ぐで、容赦がない。
俺は、剣を引いた。
避けたんじゃない。
譲った。
刃先が、俺の胸元をかすめる。
その瞬間、ヴァルセリクスが、微かに震えた。
光が、ほんの一段だけ、濃くなる。
(……遅ぇよ)
そう思いながら、俺は剣を振り抜く。
それは反撃じゃなく……確認だ。
シャンディは、その一撃を受け止めた。
正面から。
逃げずに。
火花が散る。
二人の間に、剣が固定される。
至近距離。
息が、かかる。
俺は、低く言った。
「これなら……任せていいな」
シャンディは、初めて口を開いた。
短く。
「……はい、任せてください」
剣が、離れる。
同時に、ヴァルセリクスの光が、すっと静まった。
納得したみたいに。
エレナが、静かに言う。
「そこまでだ」
俺は剣を下ろす。
シャンディも、同時に。
広場の空気が、ゆっくりと動き出す。
音が、戻る。
遠くで、誰かが息を吸った。
俺はヴァルセリクスを見下ろし、それから、シャンディを見る。
最初に船に乗せた仲間。
あの時は、守る側だった。
でも今は――
「……この国、頼んだ」
それだけ言って、手を差し出す。
シャンディは一瞬だけ驚いて、それから、しっかり受け取った。
逃げずに。
俺は背中を向ける。
もう、振り返らない。
(――これでいい)
少なくとも、置いていくんじゃない。
一緒に立った上で、背中を預ける。
その形を、ようやく選べた気がした。
背を向けたまま、歩き出す。
そのとき――
視界の端に、動く影が映った。
足音が、ひとつ。
ふたつ。
近づいてくるのは、重くも速くもない歩調。
分かる。
振り返らなくても。
リュカだ。
シアだ。
リネアだ。
誰も声をかけない。
ただ、“そこに来る”。
俺は、立ち止まらない。
でも、歩調も変えない。
それでいい。
――今はもう、
置いていくために前に行くんじゃない。
一緒に立ったまま、
前に行くだけだ。
―――――
そのまま、誰も引き止めなかった。
中庭の空気が、ゆっくりと動き出す。
影たちが合図もなく配置につき、帆がほどけ、
イルクアスターの船体が、わずかに高度を上げた。
石畳から、影が離れる。
重力が、ひとつ切り替わる感覚。
振り返らなくても分かる。
見送っている人間が、そこにいる。
声はない。
手も振られない。
それでいい。
俺たちは――
そうして、船に乗った。
―――――
舵を離れ、甲板へ降りる。
「……なあ」
リュカが腕を組み、話しかけてきた。
「部屋、もうねぇぞ?」
エレナを横目に、淡々とした報告。
冗談めかす余地はない。
シアが名簿みたいに指を折る。
「リュカ、私、リネア、ネラ……ここで全部ですね」
「ミラは……まぁあいつ、下にもう住んでるしな……」
「……他に空いてる部屋……ないよ……」
「……どうする気だ?」
全員の視線が、自然と一人に集まる。
当人は、際に立ったまま、何も言わない。
だが、視線に気がついて口を開く。
「……私はどこでも構わん」
エレナは、際に立ったまま淡々と言った。
本心かどうかは分からない。
でも少なくとも、主張する気がない声だった。
――それが、余計に厄介だ。
(……くそ)
さっきまで剣を振ってた時より、よっぽど神経を使う。
特別扱いはしたくねぇ。
でも雑にも扱えねぇ。
どっちも本音だ。
俺は一度、息を吐いた。
「……俺の部屋、使え」
一瞬、空気が止まる。
最初に反応したのはリュカだった。
「は?」
間の抜けた声。
「コール、それってそいつと一緒に寝るって意味か?」
シアの眉がピクッと動いた。
「リュカ……そう言っても仕方ないでしょう」
声は落ち着いているが、視線は鋭い。
納得してないのは丸分かりだ。
リュカも地味に距離を取る。
リネアが小さく口を開く。
「それは……ずるい、かも……」
甲板の空気が、じわっと重くなる。
その中で、ネラが一歩前に出た。
「必要なら、私が部屋を空けよう……もともと、見張り台にいる時間のほうが多い……」
一瞬、場が静まる。
俺は即座に首を振った。
「バーカ。んなの却下だ」
間髪入れず、言い切る。
「それ以上、見張りのお前が無理してどうすんだよ」
ネラは一瞬だけ目を見開き――
それから、静かに口を閉じた。
「……だが」
「だがじゃねぇ」
被せる。
「お前はお前の場所にいろ。それでいいって決まってる。それも役目だ」
数秒の沈黙。
ネラは小さく息を吐いて、短く頷いた。
「……了解した」
それ以上、何も言わない。
リュカは肩をすくめる。
シアは視線を逸らし、
リネアは、納得したように小さく頷いた。
――決まった。
俺はエレナを見る。
エレナは相変わらず表情を動かさない。
「……構わん」
同じ言葉。
でも今度は、少しだけ硬い。
「必要なら、私は床でも――」
「それはねぇ」
即答。
「俺は別で寝る」
そう言った瞬間。
「じゃあ〜」
甲板の下から、陽気な声が割り込んできた。
次の瞬間――
甲板の縁から、でかい影がにゅっと現れる。
「なら私と一緒に寝ましょうね〜」
ミラだ。
甲板の下から上半身を突き出し、そのまま俺の胴体を両手で掴む。
「ちょッ、おーい!」
「大丈夫大丈夫〜……潰さないように気をつけますから〜」
……ほぼ妖怪だ。
三メートル級の体格にとって、俺なんて大きめの荷物みたいなもんだ。
片手のひらが俺の上半身くらいの大きさで、抵抗できるわけがない。
冗談抜きで、持ち上げるのが簡単すぎる。
「怖ぇこというな!! てか話まだ終わってねぇ〜!!」
抗議は虚しく、
俺の体はそのまま甲板の外へ引きずられていく。
「じゃあ決まりですねぇ、こーるちゃんは私が預かります〜」
「は、はなせえええぇぇ……!」
甲板の縁が遠ざかる。
俺はそのままミラに引きずり込まれた。
―――――
残された女たちの視線が、自然と集まる。
エレナは、その様子を少し遅れて見下ろしていた。
何も言わない。
ただ、判断を待つ騎士の顔で。
甲板の上で、
女同士の話し合いが始まろうとしていた。




