第185話:星の下での報告
甲板は静かだった。
風はあるが、帆は張っていない。
夜の空船は、呼吸を止めた獣みたいに、じっとしている。
俺は帆柱の根元に背を預けて、甲板に寝転がっていた。
星だけが、見えている。
……やけに多い。
気のせいかもしれない……。
泣いたあと特有の、空洞みたいな感覚。
涙はもう出ない。ただ、重い。
守るって言った。
一緒に行くって、言わせた。
――言わせた、だ。
俺のほうが、先に折れただけなのに。
柱に頭を軽くぶつける。
ゴン、という鈍い音。
痛くはない。
「……参ったな」
誰に向けたわけでもなく、声が漏れた。
生きて帰る前提。
死なせない前提。
全部、綺麗事だ。
それでも、もう戻れない。
星が、流れた。
願い事を考える前に、消えた。
昔なら、願ったかもしれない。
誰も死にませんように、とか。
馬鹿みたいにな。
「……今さらだな」
そんなもんとっくに信じちゃいない。
喉の奥で笑って、息を吐く。
夜の空気は冷たいのに、不思議と寒くはなかった。
甲板の木目に指を這わせる。
ここが、俺の船。
逃げ場で、居場所で、戦場だ。
目を閉じる。
星は、見なくてもそこにある。
仲間も、たぶん、同じだ。
「……寝るか」
返事はない。
でも、それでいい。
空船は静かに浮かび続け、
星だけが、何事もなかったように瞬いていた。
甲板の奥で、
きい……と、一度、木が鳴った。
少しだけ軽い音。
――誰かが、乗った。
「……コールさん」
声は、静かだった。
懐かしさも、ためらいも、
全部を一緒に包んだような声。
「……お久しぶりです」
俺は、すぐには起き上がらなかった。
星を見たまま、息を吐く。
「……そうだな、まともに顔合わせたのも……もうだいぶ前か」
それだけ言って、ようやく顔を向ける。
「久しぶりだな、シャンディ」
――そのとき、月の光が彼女の耳元で跳ねた。
青いガラス。
一瞬、胸の奥が変な音を立てる。
「……それ」
指で示すほどの余裕もなく、俺は目だけで言った。
シャンディは、耳飾りにそっと触れて――小さくうなずく。
「はい。……あの港の」
言葉の続きを、彼女は飲み込んだ。
俺も同じだった。
“また会える”なんて、今の俺には言えない。
「……なくしてねぇんだな」
「……なくせません」
静かな即答。
それだけで、十分だった。
「コールさんも。着けててくれてたんですね……」
「あぁ……この船に乗ってからの、俺の初めての約束だからな」
二人で軽く微笑みを交わす。
だがその後、シャンディの顔は少しだけ曇った。
「……あのあと」
切り出しかけて、やめる。
代わりに、目を閉じてまっすぐ言う。
「……死んだほうがよかった、って思った夜がありました」
シャンディは耳飾りに触れた。
青いガラスが、静かに光る。
「でも……これのお陰で。それを言っていいのは、今じゃないって……思えたんです」
その言い方は、祈りじゃない。
決意でもない。
ただの報告だ。
「だから、来ました」
彼女は一歩だけ近づいて、そこで止まった。
「生きてるって。……あなたに、言いに来ました」
俺は、少しだけ目を閉じた。
胸の奥で、何かが鳴った気がしたが、
それが何なのかは、確かめなかった。
「……そうか」
それだけ言って、星を見る。
気の利いた言葉も、慰めも、今は要らない。
甲板の木が、きい……と小さく鳴る。
「探してみろって言われたから……探しました」
シャンディが、ぽつりと言った。
「追いかけて、調べて……正直、何がしたかったのかは……自分でも分かりません」
少しだけ、困ったように笑う。
「ただ……もう一度、会いたかったんだと思います」
俺は、肩の力を抜いた。
「ああ……そんなもんだ」
それ以上でも、それ以下でもない。
「理由がある再会なんて、だいたい後付けだ」
そう言って、寝転がったまま片手を上げる。
「……よく来たな、シャンディ」
たったそれだけ。
でも、その言葉に
シャンディの肩が、ふっと下がった。
「はい!」
それだけで、十分だった。
「新しい仲間、いい奴らみたいだな?」
星を見たまま、俺は言った。
「俺が死んだ時、ちゃんとお前に寄り添ってた」
一拍。
沈黙が落ちるかと思ったが――
シャンディは、少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「……それ、言います?」
「事実だろ」
「事実ですけどなんか変な話です。…死んだのに今生きてる」
くす、と小さく息を漏らす。
「でも……コールさんがそんなこと言うの、ちょっとずるいです」
「何がだ」
「だって」
彼女は甲板の縁に腰掛け、夜空を見上げた。
「私が知ってた船、
コールさんと……影さんたちだけだったんですよ?」
そう言ってから、シャンディは一拍置いた。
それから、肩をすくめるみたいに、少しだけ笑う。
「それなのに……」
夜空を見上げたまま、続けた。
「今は、あんなにいっぱい……綺麗な女の人たちがいて」
ちら、と俺を見る。
「正直、びっくりしました」
「そうか?」
「はい。びっくりです」
即答だった。
「しかも」
少し間を置いて、ぽつり。
「みんな、コールさんと……その……」
言葉を探して、指先で甲板をなぞる。
「普通に、近いじゃないですか」
「……普通、なぁ?」
「近いですね。少なくとも、私の知ってる“普通”よりは」
くす、と笑うが、どこか照れが混じる。
「影さんたちも無言で怖かったですけど、
今は……ちゃんと“人”って感じで」
それから、ためらうように付け足す。
「エレナさんも……なんか……」
言い淀んで、言葉を選び直す。
「師匠なのに、あれは……ずるいですね」
「何がだ」
「全部です」
即答だった。
「強いし、綺麗だし、
コールさんのこと、分かってる顔してるし」
小さく息を吐く。
「……私、ちょっとだけ思いました」
夜空に向かって。
「“あ、遅かったんだな”って」
俺は、少しだけ首を傾けた。
「何が?」
「追いかけるの」
一瞬の沈黙。
でも、湿っぽくならないように、彼女はすぐに続ける。
「……でも、いいんです」
肩をすくめて笑う。
「私が知ってたのは、
“一人ぼっちの船長さん”だけだったから」
「今のほうが……」
少し考えて。
「ちゃんと、船ですね」
俺は鼻で笑った。
「評価が遅いぜ?」
「ええ。でも」
シャンディは、月明かりに照らされた甲板を見回す。
「それでも――」
最後に、少しだけ声を落とす。
「ここに来て……コールさんに会えて……よかったって、思ってます」
俺は何も言わず、星を見たまま応えた。
「……そうか……。シャンディ」
「はい?」
「お前……強くなったな」
「はい!」
それで十分だった。
船は静かで、
星だけが、相変わらず何事もなかったように瞬いていた。
―――――
翌朝。
甲板には、朝の光がまっすぐ落ちていた。
雲は薄く、空は高い。
俺は船の中央に立って、仲間を待っていた。
一人、また一人。
足音と気配だけで、顔を見なくても分かる連中が集まってくる。
影。
リュカ。
シア。
リネア。
ネラ。
ミラ。
……いつの間にか、これだけいる。
「全員だな」
それだけ言って、俺は船縁に腰を預けた。
「改めて作戦会議だ」
視線が集まる。
誰も茶化さない。
ここにいる全員が、“遊びじゃない”と分かってる。
「行き先は変わらん」
短く区切る。
「厄災は暴れまくって今は寝てる」
リュカが腕を組んだまま言う。
「……ひと暴れした後の昼寝ってことか?」
「あぁ。そんなとこだ」
俺は視線を一度、空へ投げた。
「……で、問題はここからだ」
誰も口を挟まない。
「厄災は起きてる間は危ねぇし、どうにもならん。
船の大砲も、影の刃も、全部“届かない”」
ネラが、短く頷く。
「……攻撃が通らない、ということか」
「ああ。効かないじゃない。
最初から、当たってないに近いだろうな」
少しだけ間を置く。
「だから、先に剣だ」
リネアが、静かに瞬いた。
「……剣?」
「千年前の勇者が使ったやつだ」
それだけ言う。
説明はしない。
「グラナシルからの情報で大まかな場所は確定した。
――厄災のいる大陸だ」
リュカが顔をしかめる。
「最悪じゃねーか」
「まぁ自分を切れる武器なんてそうそう手放さねぇよな」
「余計悪い!」
シアが、間に入るように言った。
「……でも、それは
“厄災を斬れる可能性がある”ということ、ですよね」
「可能性、じゃない」
俺は即答した。
「それしかない」
甲板の空気が、わずかに張る。
「勇者の剣は、厄災と同じ……“時代の外”にある。構造が違う」
ネラが、低く音を立てた。
「……同じ箱の外、ということか」
「そうだ」
リュカが舌打ちする。
「つまり
・厄災は倒せねぇ
・起きてる間は探せねぇ
・寝てる今しか動けない
ってわけだ」
「おまえ……バカだけどこうゆうの飲み込み早くて助かるな」
リュカは鼻を鳴らした。
「褒めてねー!」
その時――
ミラが、そっと手を上げた。
控えめで、でも逃げない仕草。
「……えっとぉ……」
全員の視線が、自然に集まる。
「その剣……
“そのまま”使うんですかぁ?」
誰も笑わない。
俺も、遮らない。
「どういう意味だ?」
ミラは、少しだけ首を傾げる。
「だってぇ……千年前の剣ですよねぇ?
今の厄災に、ぴったり合うとは限らないかなぁって?」
ふわっとした声。
でも、言ってることは核心だ。
「……続けろ」
「は〜い」
少し安心したように笑ってから。
「だからぁ……
剣そのものじゃなくて、
“剣が何を斬ってたか”を見たほうがいいかなぁって」
一瞬、静かになる。
リネアが、小さく息を吸った。
「……“厄災”じゃなくて……」
「そうで〜す。その“なにか”ですぅ〜」
ミラは、胸の前で指を組んだ。
「もしそれが分かればぁ……
剣を“そのまま振る”以外の使い方も、
あるかもしれないですしぃ〜」
ミラの言葉が落ちたあと、甲板の風の音だけが残った。
俺は、すぐには返さなかった。
……考えてなかった。
剣は剣で、斬れるならそれでいい――
そういう“雑な前提”で、頭が走ってた。
でも、ミラの言い方は違う。
“剣を持つ”じゃない。
“剣が何を斬ってたか”――最初にそこを見た。
俺は、目だけでミラを見た。
「……さすがだな」
ミラが、へへぇ、と小さく笑う。
「えへへぇ……そうですかぁ?」
「そうだ」
一拍置いて。
ミラは、思い出したみたいに手をぽん、と叩いた。
「それでぇ……もし見つけたらぁ……
剣のまま使います〜?
それともぉ……作り変えてみますかぁ〜?」
甲板の空気が、また止まる。
リュカが即座に顔をしかめた。
「待て待て待て。今なんつった?」
ミラはきょとんとする。
「“作り変える”んですぅ〜」
「おま!? 千年前の勇者の剣だぞ!? 改造すんの!?」
「改造っていうかぁ……調整っていうかぁ……えへへぇ」
「えへへじゃねーよ!!」
シアが、困ったように笑う。
「ミラさん……その発想は……すごいですけど……」
リネアは短く言った。
「……危ない」
ミラはふにゃっと眉を下げた。
「危ないですかぁ……?」
「危ない」とリュカ。「頭が」と続けかけて、俺が目だけで止める。
俺はミラを見たまま言う。
「……できるのか」
ミラは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「“できる”かどうかはぁ……見ないと分かんないですぅ。
でもぉ、剣が“切る”ためにあるなら〜……
その“切り方”を、今の厄災に合わせる余地はあるかもってぇ?」
ふわっとした口調のまま、言ってることは容赦がない。
俺は息を吐いた。
「なるほど……」
リュカが腕をぶんぶん振る。
「いや、なるほどじゃないだろ!」
「うふふふ……」
「笑うな! 怖ぇえ!」
俺は、少しだけ口角を上げかけて、すぐ戻す。
「――ミラ」
名前だけで呼ぶ。
ミラが座ったまま背筋を伸ばす。
「はぁい?」
「おまえまで、着いてくる気か」
一拍。
空気が変わる……。
「下手すりゃ死ぬぞ」
言葉は短い。
慰めもない。
脅しでもない。
事実だ。
ミラは、すぐに答えなかった。
その代わり、胸の前で指を組んで、いつものふわっとした顔のまま――少しだけ、真面目に言った。
「……死ぬの、こわいですぅ」
「だろうな……そしたら最初の約束どおりオルデアに――」
ミラは俺の言葉を遮り、続けた。
「でもぉ……」
甲板の木目を、指でなぞる。
「こーるちゃんがぁ……
“それしかない”って言ったの、聞いちゃったのでぇ」
俺は答えない。
ミラは、へにゃっと笑った。
「それってぇ……
もう行くって、決めたってことですよねぇ?」
誰も否定しなかった。
ミラは、続ける。
「わたしですねぇ……
正直に言うとぉ……
ここに居られなくなるの、いやなんですぅ」
一瞬、リュカが眉を動かす。
シアが、そっと目を伏せる。
「鍛冶ができるからぁ、
必要にされるのは慣れてますぅ……。
でもぉ……」
ミラは、ゆっくり胸に手を当てた。
「“ミラ”として見られなくなるのも……
怖くないって言ったら、嘘ですぅ」
視線が、俺に向く。
「こーるちゃんはぁ……
わたしのこと、見た目で怖がらないし
変な話し方でも、顔しかめないし
前に……綺麗だって、言ってくれましたよねぇ?」
一瞬だけ、照れたように笑う。
「それ、たぶん……
深い意味はなかったんだと思いますぅ。
でもぉ……」
声が、少しだけ落ち着く。
「わたしには、十分だったんですぅ」
甲板が、静まり返る。
「だからぁ……
恋とかぁ、選ばれたいとかぁ……
そういうのじゃないですぅ」
ミラは、はっきり言った。
「ただぁ……ここから落ちたくないだけですねぇ」
その言葉に、リネアが静かに頷いた。
「うん……ミラさんの気持ち、わかる気がする……」
ミラは、少し安心したように息を吐く。
「剣が必要ならぁ?
剣の隣に、鍛冶がいたほうがいいですしぃ」
それから、いつもの調子で手を挙げる。
「だからぁ――
わたしが作りますよぉ〜
大砲より、ちゃんと効くやつぅ〜」
リュカが頭を抱える。
「……重ぇ話してから急にそれ言うな!!
てか! 大砲以上のヤバいもん作る気かよ!?」
「えへへぇ〜……」
俺は、しばらく黙っていた。
それから、短く言う。
「……後悔すんなよ」
ミラは、即答した。
「しますぅ」
全員が一瞬、固まる。
「でもぉ……
ここに居ない後悔のほうが、たぶん……もっと、こわいですぅ」
俺は、小さく鼻で笑った。
「……厄介なやつだな」
「えへへぇ……
今さらですねぇ」
俺は背を向けて言った。
「勝手に死ぬな。
必要なとこまでは、守る」
ミラの目が、少しだけ見開かれる。
「……はぁい」
その返事は、
恋でも誓いでもなく。
ただ、
「居ていい」と言われた人の声だった。
甲板の風が、ひとつ鳴って、止む。
俺は舵のほうを見たまま、もう一度だけ言った。
「……準備しろ」
返事はない。
でも、足音が増えた。




