第180話:触れられない距離
扉が、開いた。
「失礼いたします」
よく通る声。
俺は、動かなかった。
動けなかった、の方が近い。
顔を上げなければ、
見なくて済む。
――そう思って、そのまま立っていた。
「北上した部隊より報告がありました」
甲冑の音。
足音は一定で、迷いがない。
「魔物に襲われた村を確認。
住民は無事保護、負傷者も軽傷のみ」
淡々とした報告。
いつもの、エレナだ。
「魔物はその場で駆除。
二次被害の恐れはありません」
一拍。
「以上です」
アドリアンが静かに頷いた。
「ご苦労だった、エレナ。無事で何より」
「はっ」
……そこで、終わるはずだった。
甲冑の向きが、変わる。
足音が――
こちらへ向かってくる。
(顔を合わせたくない……)
心の中で、はっきりそう思った。
嫌われている、軽蔑されている……当然だ。
だから、顔を合わせる理由なんてない。
次の瞬間。
視界が一瞬、綺麗な赤色の髪に塞がれた。
強く、突然。
逃げ場のない力で――抱きしめられた。
「……っ!?」
息が詰まる。
温度。
重さ。
確かな、エレナの存在。
(……は?)
頭が、追いつかない。
殴られるか、睨まれるかと思っていた……。
――軽蔑されていると思っていた。
なのに。
抱きしめられている。
「……エレ、ナ?」
名前を呼んだ声が、
自分でも驚くほど掠れていた。
一瞬だけ、
胸の奥が、馬鹿みたいに温かくなる。
(……ああ、駄目だ)
理解してしまった。
これは…嬉しい。
信じられないほど、嬉しい…。
だからこそ――
俺は、腕を掴んだ。
目は合わせない。
睨むほどの余裕もない。
ただ、腕だけを掴んで、
無理やり、引き離す。
「……やめろ」
声を、低くする。
「離れろ……」
抱きしめ返さない。
受け止めない。
甲冑の胸当てが、名残みたいに一度だけ鳴って、
間が落ちた。
エレナの息が、微かに乱れている。
「……すまない」
いつもの硬さの裏に、
ほんの少しだけ、人間の声。
「……あの時は、殴ってすまなかった」
謝罪だと理解するのに、
一拍かかった。
「……」
俺は、相変わらず目を上げない。
冗談なら言える。
いつもなら言う。
『あぁ、めっちゃ痛かったぜ? 詫びにまたキスでもしとくか?』
いつもなら……そうやって、
暗い空気ごと笑い飛ばして、
全部を“なかったこと”にできる。
……だが、今日は違う。
喉の奥で言葉が固まって、
出たのは、乾いた音だけだった。
「あぁ」
それだけ。
笑わない。
軽口もない。
その空白に、
エレナの眉が、わずかに揺れた。
「……アーク」
名前を呼ぶ声が、
一瞬だけ迷う。
俺は、答えない。
答えたら――
あの温もりを、欲しがってしまう。
(抱きしめ返したら、行けなくなる)
胸の奥で、短くそう結論だけが落ちる。
俺は、体の向きを変えた。
抱きしめられていた場所から逃げるみたいに。
そして、リュリシアとアドリアンへ向けて、
話を“続き”に戻す。
「……前に厄災の話をしたな?」
厄災――。
その単語だけで、
ルミナの体が、はっきり分かるほど固まった。
指先が、強く握られる。
呼吸が、一段浅くなる。
俺は一瞬だけ、そっちを見た。
(……まだ、縛られてるよな……)
だから――わざと、口元だけで笑う。
大丈夫だ。
そう言う代わりに、
視線で“もう終わりだ”と押し返す。
「悪いが……どうにも安全ってわけじゃなくなった」
空気が、きしりと音を立てる。
リュリシアの表情が引き締まり、
アドリアンは、無言で姿勢を正した。
「今すぐどうこうって話じゃない。
だが――魔物の群れが来たのは、厄災が原因らしい」
「……原因、ですって?」
リュリシアの声は低い。
冗談だと処理する余地を、最初から切ってきている。
アドリアンが静かに続ける。
「それは……確かな情報なのかい?」
「まぁ、俺が見たわけじゃねぇけど、
大昔そいつと戦ったやつに聞いた」
俺は視線を逸らさない。
「そいつは言ってた。
厄災はいずれ、世界を飲み込むってな」
ルミナが、息を詰めた。
俺は、もう一度だけ彼女を見る。
今度は、はっきりと。
(安心しろ)
口には出さない。
だが、伝える。
「……だが、なんとかできる目処は立った」
その瞬間、
アドリアンの目が、鋭くなった。
「目処、とは?」
「軍隊とか、国とか、そういう話じゃねぇ」
きっぱり切る。
「だが……俺がやらなきゃいけないことだ。
それに、あの船じゃなきゃできないことでもある」
その言葉に、
リュリシアは何も言わなかった。
だが、唇を噛み、
“止めたい”のを飲み込んでいるのが分かる。
(相変わらずこの子は何かを察する力が強い……
きっと俺の裏の目的も……もう感づいている)
俺は、そこで一度息を吐いた。
重さを、少しだけ逃がす。
「ただし、次の度は少し長くなる。
下手すると……何年か、かかるかもしれねぇ」
リュリシアが、思わず口を開く。
「……何年も?」
「ああ」
俺は、短く笑う。
「でもな――俺が絶対、何とかする」
その一言だけは、冗談にしない。
だから次は、わざと軽くする。
「ってなわけで、一回ここまでで勘弁。
いきなりで悪いが……船の補給と、少し休ませてくれ」
リュリシアが、ようやく息を吐いた。
「……休憩は必要ね」
「船の連中も俺と同じ感じで、疲れてんだ。
寝かせてやりてぇ」
「分かったわ。食料も含めて手配する」
そこで、思い出したように言う。
「――あ、そうだ」
全員の視線が集まる。
「次の時に話してやるけど……
空に浮かぶ島、見つけたんだぜ?」
アドリアンの眉が、ぴくりと動いた。
「……空に?」
「詳しい話は次だ」
すぐに釘を刺す。
「あ、島のことは絶対ここだけの話にしてくれよ?」
軽い口調。
だが、目は本気だ。
リュリシアは、短く頷いた。
「分かってるわ」
「ってなわけで――」
俺は踵を返す。
扉へ向かいながら、ふと思い出す。
「あ、……そういや」
振り返らずに聞く。
「俺の部屋、まだ残ってるか?」
一瞬の沈黙。
その間に、
リュリシアの口元が、ゆっくりと歪んだ。
悪い笑みだ。
間違いなく。
「……残ってないわ」
「は?」
足が止まり、声が出た。
まさか、なくなるとは思ってもなかったからだ。
「用意にも時間がかかるしね」
そう言って、
リュリシアは“ちらり”と横を見る。
俺は、それを見逃さなかった。
視線の先――
エレナと、ほんの一瞬だけ目が合う。
エレナは、何も言わない。
だが、その意味は一瞬で分かった。
(待て待て待て……今は違う……それはまずい)
「だから」
リュリシアは、楽しそうに言った。
「今日はエレナの部屋を使いなさい」
……空気が、止まった。
俺は、扉の前で立ち止まったまま、
深く息を吐いた。
(……そう来るかよ)
逃げ場がない……。
その時――
甲冑が、鳴った。
背後で、はっきりと。
一歩分、床を叩く音。
「……着いてこい」
低く、短い声。
命令でもなく、
促しでもなく、
ただ――決定だった。
俺は振り返らない。
甲冑の音が、俺の横を抜けていく。
追い越される。
置いていかれる。
(……リュリシアめ……余計なおせっかいを……)
俺は、何も言わずに歩き出した。
通路で聞こえるのは、
一定の歩幅で鳴る、鎧の音だけ。
それが――
行き先を、否応なく決めていた。
―――――エレナの部屋
中に入り、扉が閉まる。
重たい音だった。
城の廊下の気配が、そこで完全に断ち切られる。
部屋は静かだ。
広くも狭くもない。
質素で、無駄がない――いかにも、騎士の部屋。
先に入ったエレナは、振り返らない。
甲冑の金具が、短く鳴る。
外す音。
床に置く音。
それだけ。
「……ベッドは、そこだ」
必要最低限の言葉。
振り向かず、感情も乗せない。
俺は、返事ができなかった。
(……やばい)
喉が乾く。
頭の中が、妙にうるさい。
さっきの抱擁の感触が、
まだ腕に残っている。
温度。
重さ。
あの、躊躇のない力。
(……なんで、今なんだよ)
一歩、踏み出す。
床板が、軋む。
それだけで、
心臓が跳ねた。
エレナは、何も言わない。
背を向けたまま、鎧を外し続けている。
赤い髪が、肩に落ちる。
(見るな)
そう思っても、
視線が勝手に引き寄せられる。
(……駄目だ)
ここで何か言ったら、
全部、崩れる。
俺は、ベッドの端に腰を下ろした。
柔らかい。
だが、落ち着かない。
(落ち着け……)
深呼吸。
一回。
二回。
……全然、効かない。
エレナが、最後に鎧を外す。
金属音が止まる。
それだけで、
部屋の空気が変わった。
「……」
彼女は、まだ振り返らない。
俺も、声を出さない。
言葉を探す余裕も、
冗談を投げる余裕も、
今は、ない。
(……テンパってる)
自覚した瞬間、
さらに悪くなる。
手のひらに、汗がにじむ。
(何年ぶりだよ、こんなの)
旅先での修羅場でも、
死線でも、
こんな感覚にはならなかった。
ただ同じ部屋にいるだけで、
こんなにも――
「……」
床の板が鳴る。
ゆっくりと、音が近づいてくる。
そして、目の前に――エレナが立つ。
――鎧の下。
黒一色の普段着。
露出は少ないのに、
不思議と、逃げ場のない黒。
首元まで詰まった布。
腰に沿う、無駄のない線。
脚のラインを隠さない、深い色。
――剣を持たないエレナ。
「……」
視線が、勝手に奪われた。
初めてだ。
鎧以外の姿を、
こんな距離で、真正面から見るのは。
心が、揺れた……。
それを自覚した瞬間、焦りが走る。
「ッ……」
エレナが、ふと顔を覗き込むように俺を見る。
「……?」
短い声。
振り返る。
視線が、まっすぐ刺さる。
もう一度、顔を背けようとしたが……動けない。
「どうした?」
俺は、反射で冷たく返そうとした。
「あ、あぁ……」
なのに、声が一拍遅れる。
「鎧、外したお前なんて……」
言葉を探して、失敗する。
「……なかなか、見なかったからな」
エレナは一瞬だけ瞬いた。
「……そうか」
そして、少し目を落とし、自分を見たあと……
静かに首を傾げる。
「……見苦しい、か?」
その問いに、
頭で考える前に、口が動いた。
「いや、綺麗だ……、ぁ」
――言ってから気づく。
完全に、素だ。
取り繕う余地もない。
冗談にする逃げ道もない。
我ながら……
自分の単純バカさ加減に嫌気がして、手で顔を覆った。
エレナが、静かに息を吐いた。
「私に……そういう言葉を言うのは、お前だけだ」
埋めていた……塞いでいたはずの何かが、
俺の中で轟音を立てて弾けるのが聞こえた……。
エレナの声は淡々としていた。
でも、それが、胸の奥底に痛いほど刺さる。
俺は、自分の体をねじり切るようにして視線を切った。
「なんでもない、忘れろ……」
言った瞬間、
自分の声の冷たさに、俺が一番驚いた。
エレナは、瞬きもしない。
「……断る」
即答だった。
「は?」
声が出る。
出したくなかった。
「……忘れない」
エレナはそう言って、俺の隣に静かに座った。
ベッドが沈み、揺れた……。
エレナはそのまま前を見ながら続けた。
「お前の温もりも、言葉も……
私はもう……失いたくはない」
……その言葉で、
息の仕方を忘れた。
逃げ道がない――じゃない。
逃げたくない自分が、もう隠せなかった。
肩が触れている、その一点が、
この部屋のすべてになった。




