第177話:祈りの剣
暗い大地だった。
空は赤く、風は焼け、街だったはずの場所は影だけを残して崩れている。
逃げ惑う声。
剣を振るう者。
祈る者。
すべてが、等しく踏み潰されていった。
やがて――
巨大な影が、ゆっくりと地に伏す。
眠る。
まるで役目を終えたように。
「……これが、“今”あの大陸で起きていることです」
背後から、声がした。
振り返らなくても、誰だかわかった。
「ずいぶん派手にやったな……」
俺は独り言のように呟いた。
ただ、目を逸らさずにその光景を見つめ続ける。
焼けた地面。
折れた塔。
人だったものの名残。
ひとつひとつを、逃がさないように。
(……そうだな)
理解してしまう。
これは“誰かがやったこと”じゃない。
遠い昔の悲劇でもない。
(俺が、見過ごした結果だ……)
選ばなかった。
切り捨てた。
正義だとか、やむを得なかったとか、
そういう言葉で薄められる話じゃない。
(……罪)
そのただの一文字が……胸の奥に、重さが沈む。
だが、押し潰されはしない。
目を閉じない。
顔を背けない。
(それでも……俺は……)
後悔は、ない。
あの時の選択を、
別のものに置き換えることはできない。
守ると決めたものがあって、
それを守るために、他を見捨てた。
最低だと分かっている。
それでも、あれが俺の選択だった。
巨大な影は、微動だにせず眠っている。
まるで、すべてを終えた存在のように。
「国を消し飛ばして……今度は昼寝かよ」
「……力を取り戻すためです」
静かな声。
感情は混じっていない。
事実を述べているだけだ。
振り向くと、白い服の女が立っていた。
だが、立ち位置は遠い。
だが声だけは、ハッキリ聞こえる……。
「……眠ってる間は、世界に直接の害は出ないでしょう」
「“直接”な」
女神は、わずかに視線を逸らした。
「ですが……このままなら、いずれ目覚めます」
「起きたら?」
「……この大陸だけでは済まないでしょう」
俺は鼻で笑った。
「だろうな。船の大砲も効かねぇ時点で、察しはついてる」
女神は一瞬だけ、黙る。
「……既に、知っているのですね?」
「グラナシルが喋りすぎなんだよ」
視線を、眠る影へ戻す。
「……厄災は元・勇者で……幼馴染みを失って、壊れた……」
(少し……似てやがる……)
女神は、肯定も否定もしない間を置いてから言った。
「事実です」
「アレは魔王とは別物……魔王は闇に力を与えられた魔族。
厄災は……心を食われた人間」
少し、間が空く。
俺は地面を踏みしめた。
ひび割れた大地が、鈍く軋む。
「なあ、察しはできるけどよ……」
女神を見る。
「なんで……お前が直接どうにかしねぇ」
女神は、すぐには答えなかった。
足元を示すが、触れはしない。
大地が透ける。
その下に、氷のような層が見える。
「この世界は、閉じた器……
私は、その外側にいる存在」
「無理に開けば世界が壊れるとかか?」
「……そう理解して構わない」
淡々とした返答。
「だから、私は直接介入できない」
俺は目を細める。
「じゃあ、勇者や巫女は?」
「この世界で生まれた存在よ。“内側の力”」
言葉は最低限。
「でも……それでも限界があった」
俺は察する。
「勇者は負け……残ったのがこれか」
「……そう……なりますね」
眠る厄災を指す。
「……心に穴を開けたまま」
眠る厄災を見つめたまま女神は答えない。
否定もしない。
沈黙のまま、次へ進める。
「……で?」
俺は女神を見る。
「今度は俺にどうしろって? 船でも無理なら俺が影たちと突っ込んでも無理だろ?」
空間が歪む。
「おそらく……これが地上に残された、唯一の手段」
一本の影が、距離を保ったまま現れた。
不完全な剣。
だが、役割だけははっきりしている。
俺は目を細める。
「……剣?」
「はい」
女神は続ける。
「これは、私が作ったものではありません」
その言葉は、明確だった。
「神の祝福も、
奇跡も、
外側の力も、与えられていない」
「人の剣、か」
「ええ」
剣の影が、わずかに揺れる。
「魔族に蹂躙され、
国を焼かれ、
祈りが届かないと知った人々が……
それでも抗うために、作り上げた祈りの形……
鍛冶師が知恵を持ち寄り、
魔導師が理を削り、
聖職者が祈りを“形”に変え、
世界を救うために、すべてを一つに集めた剣です」
俺は低く息を吐いた。
「……随分、壮大だな」
「ええ」
「完成した当初は、ただの名剣でした……。
ですが、勇者の手に渡り、幾たびもの戦場を越え、
魔を斬り、闇に触れ続けた」
剣の刃に、黒い筋が走る。
斬った魔、
砕いた魂、
昇華された闇。
「それらが、剣そのものに刻まれていったのです」
俺は、眠る厄災を見る。
「……勇者と一緒に、壊れたか」
女神は否定しない。
「だからこそ、この剣は――」
一拍。
「闇を“殺す”ための剣ではありません……“切り離す剣”」
「切り離す?」
俺は剣の影から視線を離さず、眉をひそめた。
「闇を斬れるのは分かった。だったら、なんで“殺す”じゃねぇんだ?」
女神の言い方がやけに引っかかり、首を傾げた。
「これがあれば厄災を倒せる。世界を救うなら殺す。……そういう話じゃねぇのか?」
女神は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、淡々と告げる。
「“殺す”とは、器ごと壊すことです」
「……器?」
「厄災は、闇そのものではありません。闇に“取り込まれた人間”です」
眠る巨大な影を示す。
「今の姿は、闇が外側から纏いつき、中の人格を覆い潰している状態。
闇ごと消せば……中身ごと消えてしまうでしょう……」
俺は舌打ちした。
言いたいことはわかる気はするが、理解できてねぇ……。
「それが“殺す”ってことか?」
「はい」
女神は続ける。
「ですが、この剣が斬るのは――闇そのものです」
「つまり……闇と、人を……分ける?」
俺は眉を寄せる。
「そんな都合のいいことができるのかよ」
(いや……同じような物に……少し心当たりがある。
ヴァルセリクス……アレも確か強制的に魔族にされかけた人間を救えたな……)
「確実ではありません」
即答だった。
「切り離した先に残るのは、闇に侵され、壊れかけた人格です。
記憶も……
罪の意識も……
失ったものへの痛みも……
すべて、そのまま残るでしょう……」
俺は低く息を吐いた。
「……それ、救いか?」
「分かりません」
女神は、はっきり言った。
「救いになるかどうかは、その人間次第です」
「では、なぜ“殺さない”」
女神は、少しだけ視線を伏せた。
「この剣は、人の祈りから生まれました……。
“闇を滅ぼしたい”ではなく、
“誰かを、これ以上失いたくない”という祈りです……
だから――存在そのものを否定する斬り方は、できません」
俺は、眠る影を見つめたまま言う。
「……優しすぎるな」
「ええ」
「ですが、それがあの時、世界が望んだ祈り……“人の剣”です」
一拍。
「この剣で闇を斬れば、厄災は“元の人間”に戻る可能性があります」
「可能性、か……」
「はい……戻った先で、彼は……
耐えきれず壊れるかもしれない……
自ら終わりを選ぶかもしれない……
それでも――」
そこまで言いかけた瞬間、俺は手のひらを軽く上げて遮った。
「分かった分かった……もういい」
自分の声が、妙に乾いて聞こえた。
「だから……俺なわけか……」
剣の影を見ているのに、見ていない。
眠る厄災の“重さ”が、じわじわと俺の中に沈んでくる。
(……重なる)
元勇者の男……。
愛したものを失って……、
世界が意味をなくなって……
……自分も含めて、全部が気持ち悪くなって……。
最後に残るのは――
誰かのために剣を振ったはずの人間が……、
今じゃ……誰かを踏み潰してでも眠れる化け物だ……。
(迎えた終わりは違う……でも、“そこに至る道”は……)
俺は、目を逸らさずに言った。
「俺は……あいつのことを、分かる気がする」
喉の奥が、少しだけ痛んだ。
「分かるからこそ……少しだけ……腹が立つ」
「……」
女神は何も言わない。
言い訳もしない。
ただ、遠い場所から事実だけを置いていく。
「ったく……あぁ〜!! マジでめんどくせぇ!
世界がどうとか! 誰がどこで死のうが知るっかっての!!」
叫んだ声が、焼けた風に吸われていく。
自分でも分かってる。本音じゃねぇ。
……いや、本音でもある。
世界全部のために命張るとか、英雄だの勇者だの、
そういう綺麗な看板を背負う気はない。
(背負ったら、壊れる)
俺はそういう人間じゃない。
だから――吐き捨てるしかない。
「俺は正義じゃねぇ、救えるもんだけ救って、守れるもんだけ守って。
それ以外は知らねぇって顔して生きてきたんだよ!」
拳を握る。
焼けた空気が、手のひらを乾かしていく。
「なのに――」
目の前にあるのは、眠る“化け物”。
その正体が、ただの悪じゃないと知ってしまった。
闇の塊じゃない。
闇に“食われた人間”。
元・勇者……。
「……クソが」
喉が鳴る。
「こんなの見せられて……
切り離せるとか聞かされて、知らんぷりしろって方が無理だろ……」
女神は、遠い場所から微動だにしない。
それが余計に腹立つ。
「お前さ……ズルいんだよ」
女神を睨む。
「言葉は少ねぇのに、必要な情報だけ置いてく。
決めるのは俺って顔して、逃げ道だけは、ちゃんと潰す……
どっかの誰かに”そっくり”だ……」
「……」
女神は答えない。
否定もしない。
ただ事実だけを置く存在として、そこにいる。
俺は息を吐いた。
「……分かったよ」
声が、さっきより低くなる。
「“殺す”って選択肢は、もう取れねぇ」
剣の影を見つめる。
「闇ごと消したら、中身も消える。
それが元・勇者だって分かった時点で……」
唇を噛む。
(助けるとか救うとか……そんな大それた話じゃない)
ただ――知りすぎた。
知った瞬間から、俺はもう“関わった”。
関わった以上、放っておけるほど器がでかくない。
「クソが……」
救うって決めたやつは救う。
守るって決めたやつは守る。
それが狭い範囲だろうが関係ない。
俺の中じゃ、それで世界が決まる。
「……あいつを“人に戻す可能性”があるなら」
その瞬間、胸の奥の重さが、別の形に変わる。
怒りじゃない。
同情でもない。
――責任。
「やるしかねぇだろ?」
女神は、少しだけ首を傾けた。
相変わらず遠いまま。
「……剣を取るのですね」
「取るかどうかじゃねぇ」
俺は吐き捨てる。
「場所を教えろ。行って、確認して……その上で、俺が決める」
言い訳みたいな言い方だ。
でも、俺はこういう言い方しかできない。
女神は、一拍置いて答える。
「……分かりました」
焼けた空が、ひび割れていく。
赤が裂け、
その奥に、別の景色が滲む。
石。
祈り。
血の匂い。
(……来る)
俺は、目を逸らさなかった。
「ただし」
最後に、女神へ言い放つ。
「俺は世界のために振るんじゃねぇ……俺の“守るもの”のために振る」
女神は、遠い場所から、淡々と返す。
「それで十分です」
世界が崩れ落ちる。
闇。
落下。
―――――
目を覚ます。
イルクアスターの天井。
いつもの、木の匂い。
「……ったく」
俺は顔を覆った。
「空島のひと仕事終えたばっかのやつに……見せる夢じゃねぇだろ……」
だが、胸の奥では――
もう、地上に降りる理由は決まっていた。




