第175話:風に認められた日
断崖を吹き抜ける風が、笑いと歓声を巻き上げる。
そのざわめきが、ひと段落しかけた頃――
長老が一歩前に出た。
「……今年の“風渡りの儀式”は、これで終いじゃな」
かすれた声なのに、不思議とよく通る。
「皆よく、帰ってきた。
今日、この場に立っておる者は、“島の風”に認められた者じゃ。
若き運び手たちよ――胸を張れ」
ファッロたちが、思わず背筋を伸ばす。
群青の石を掲げる手が、まだ少し震えているのが分かった。
けどそれは、恐怖じゃない。興奮と、誇りだ。
(……まぁ、よくやったよな。ほんとに)
そう思っていた、その時だった。
――空が、わずかに揺れた。
雲海の向こう側で、白い塊がすうっとえぐれ、
そこから巨大な影がゆっくりとせり上がってくる。
(来やがったか)
草原の上には降りてこない。
空島と同じ高さ、少し離れた雲の縁に身を預けるように、
一体の竜が姿を現した。
雲をまとった白い竜。
黄金の瞳が、島全体を見下ろす。
「グラナシル様……!」
誰かが息を呑んだ声を漏らす。
昔なら、悲鳴と土下座がセットだったろう。
けど今は違う。
恐れはある。けど、それだけじゃない。
何度か顔を出すようになった“今の距離感”に、
空島の連中も少しずつ慣れてきている。
……ただ。
(この“風渡り”の場に顔出すのは、初めてか?)
ざわつき方で、それが分かった。
グラナシルは、身を寄せる。
地表には降りない。
けど、雲の中に隠れて見守っていた頃より、ずっと近い。
「今年の若き風よ」
低い声が、断崖の一段一段に染み込むみたいに広がっていく。
「よく、飛んだな」
それだけで、ファッロたちの肩がびくっと震えた。
ファッロは反射的に石を抱え直し、腹から声を絞り出す。
「は、はいっ!!
お、俺……落ちずに……ちゃんと、飛べました!!」
グラナシルの黄金の瞳が、わずかに細くなる。
笑っているのかどうかは、正直いまだによく分からない。
「知っておる」
一言。
「お前たちが空に挑む姿、雲の中から、何度も見てきた。
だが今日は――」
竜はそこで、少しだけ目線を落とした。
「ここから見たかった」
断崖が、しん、と静まる。
「もはや、お前たちは自らの足で立ち、自らの手で風を掴む者。
ならば我も、雲の奥に隠れておる理由はない」
長老が、ゆっくりと頭を垂れた。
「グラナシル様……若い者たちの晴れ姿を、
この距離で見届けてくださり、かたじけのうございます」
グラナシルが頷くと、
ふわりと、優しい風が吹き抜ける。
ファッロの髪が揺れ、
胸に抱くソラル石の光が、ひときわ強く脈打った。
「その石も、悪くない」
竜の視線がファッロに向く。
「風に選ばれた者の手に、しかるべき輝きが宿っておる」
「……っ、はい!」
ファッロは今度こそ、胸を張って返事をした。
そのあと――
黄金の瞳が、ちらりと俺の方をかすめる。
(……なんだよ)
両腕いっぱいの、バカみてぇにでかいソラル石を抱えた男と目が合う。
グラナシルは、ほんの一瞬だけ沈黙し――
「……欲張りなやつも、おるがな」
「聞こえてんぞ」
思わずツッコむと、周りがどっと笑った。
「でも、まぁ……“一個”の範囲内ですし……」
「いやどう見てもずりぃだろそれ!」
笑い声に混ざって、竜の喉の奥から
かすかな、低い振動が響いた。
「よい日だ」
グラナシルは短くそう告げると、
雲の中へゆっくり身を引いていく。
「続けよ。今日はめでたき日だ」
巨大な影が雲に溶け、
空にはいつもの青と白だけが残った。
しばしの沈黙のあと――
「……うおおおおおおお!!」
「グラナシル様に褒められたぞ!」
「今年は、いい風が吹いてるな!」
歓声がもう一度、断崖じゅうを駆け上がった。
(ああ、そうだな)
腕の中のバカでかいソラル石が、
脈を打つたびに、島の風と音を合わせる。
(――確かに、悪くねぇ風だ)
―――――
断崖を吹き抜けた風が少し落ち着く頃には、
集落全体がもう“祝いの空気”に切り替わっていた。
リュカ達は宴の準備の手伝いを任せている。
集落がある方では、
料理番の女衆が大鍋を抱え、
男たちは樽や机を運び、
子どもは走り回っている。
「宴だぞー!」
「風渡り成功だ!」
そんな声がそこら中からあがる。
俺は腕に抱えた“バカみてぇにでかいソラル石”を抱え直しながら、
一度船へ向かった。
甲板にその石をそっと下ろすと、
光がぽうっと脈打つ。
「ふぅ……普通の岩よりゃ軽いけど、やっぱ重めぇ……
こりゃ腰痛くなるな」
俺の知る中で、
この石を加工できる高い技術を持ち、
なおかつ俺が頼れる職人はひとりだけ。
――ミラ。
島に来たときも、もう一段なんとかできそうだとも言っていたし……。
(……楽しみだ)
宴が始まる直前、
風の流れに交じって、蹄の軽い音が近づいてきた。
「こーるちゃぁん……?」
振り返ると、
宴の手伝いを終えたミラが作業着のまま駆け寄ってきていた。
ただし、いつもの“元気すぎるテンション”ではなく、
少しおそるおそるした歩き方。
俺は軽く顎で合図し、巨大な結晶の隣を叩く。
「ちょうどよかった――見せたいもんがある、ほれ」
ミラはぱちぱち瞬きしながら近づいてくる。
「これが……ソラル石…………すご〜い」
職人としての本能が先に動いたのか、
ミラの瞳がゆっくりと輝き始めた。
「……ひゃぁ……
こんな“芯石”みたいな大きさ……
加工したら……どうなっちゃうんでしょうねぇ……
構造は……? 結晶の層は……?
風の走り方……見たいです〜……」
徐々に興奮で語尾が伸びていく。
俺は腕を組んで言った。
「ミラ。こいつ、任せたい」
ミラは、ぴた、と動きを止めた。
「……え?
“任せる”って……これ全部……?」
「全部だ」
「ぜ、全部って……
こーるちゃん……
これ……空島では“宝物”ぐらいの扱いの石ですよぉ……?
せっかく取ってきたのに、いいんですか……?」
「お前にしか加工できねぇ。
クランダも、全部お前の腕に任せたい。
余った分は……好きに使え」
ミラの耳が、びくっと跳ねる。
その瞬間――
ミラの中で、職人としての何かが爆ぜた。
「……す、すきに……!?
すきにって……“わたしが”……ですかぁ……!?
こーるちゃん……ほんとに……?」
「言っただろ。任せるって」
ミラは胸元を押さえ、
尻尾が信じられない速さでふるえている。
「……そんなの……
そんなこと言われたら……
わたし……
こーるちゃんのこと……ほんとに……大好きになっちゃいますよぉ?」
俺は軽くため息をつく。
「……勝手にしろ。
ただし石は落とすなよ。割れたら泣く」
「もちろん大事に扱います〜!
……任せてもらえるの……
すごく……すごく嬉しいです〜!!」
ミラは巨大な石の前にそっと膝をつき、
まるで祈りでも捧げるみたいに両手を添えた。
「……この子……いい音しますねぇ……
脈が……とても素直……
うふふ……
いけます……絶対、いけます……
こーるちゃんのために全部……形にしますねぇ〜」
俺は石の脈動を見ながら言った。
「足りなきゃ言え。こっそり取りに行く」
「こっそりはだめぇですよぉ〜、足りますよぉ……
こんなに大きいんですもん……
……ほんとに……任せてくれるなんて……
ありがとう……こーるちゃん……」
その声は、
普段のおっとりでも、陽気でもなく――
純粋に“信頼されて嬉しい職人の声”だった。
宴の喧騒が遠くで広がる中、
ミラは巨大な石を抱えるようにして立ち上がる。
「じゃあ……
宴のあと……少しだけ……分解してみますねぇ……
あああ……楽しみ!!
わたしぃ……今日眠れないかもしれませんねぇ〜」
「倒れるなよ」
「倒れませんよぉ〜!
だって……こーるちゃんの仕事ですもの〜」
光る石を抱えて歩くその背は、
巨体なのに、やけに楽しげで……やけに軽かった。
(……託して正解だな)
宴の風が吹き抜け、
その光がゆっくりと夜空に滲んでいった。




