第129話:色と心臓
防壁の上から、オルデアの兵たちがじっと見ているだけだった。
だが――それも、数秒だけ。
「お、おい! バルグ隊長がやられたぞ!!」
「ミラ殿まで……!!」
「クソッ、じっとしてられるか!!」
「仲間を見殺しにできるかよ!!」
わぁっと怒号が上がる。
兵たちが次々と防壁から飛び降り、槍と剣を構えてレピリアの前に立ちふさがる。
「全員、構えろォ!!」
「オルデアの戦士の意地、見せてやる!!」
レピリアは、彼らを見回し、うんざりしたように肩を落とした。
「はぁ……だから嫌なんだよね、群れって」
次の瞬間――
ガキィィィン!!
兵のひとりが渾身の力で斬りつけた剣が、
レピリアの腕に当たって止まった。
刃は、皮膚にすら食い込まない。
「なっ……!?」
「嘘だろ……!?」
「当たってるのに……斬れて、ねぇ……!」
レピリアの肌をすべる金属音だけが虚しく響く。
レピリアはそのまま、ふにゃっと笑った。
「ね? 言ったでしょ?」
ばさり。
黒い霧が、彼女の足元から上がる。
「力が、違うんだよ」
彼女の姿がふっと消え――
次の瞬間、数人の兵が、一斉に吹き飛ばされた。
「ぐあっ!!」
「うわぁッ!!」
剣を振り下ろそうとした腕が、途中で弾かれる。
盾ごと叩き割られ、男たちの身体が空を舞う。
レピリアは踊るみたいに兵士たちの間を駆け抜け、爪を軽く振るだけで、鎧も武器も意味を失っていく。
「うそ……だろ……」
「刃が……入らねぇ……!」
絶望と困惑が、じわじわと広がる。
レピリアは、ひとりの兵士の喉元に爪を軽く当てた。
「ねぇ……どいてくれない?」
囁く声は甘く優しい。
「……隊長」
見覚えのある顔の兵士が動けずに固まる。
「あらあら、震えちゃって……。別に、みんな殺したいわけじゃないんだよ。邪魔しなきゃ、きっと何人かは生きていられるのに……」
爪先が肌に触れたところから、血が一筋流れた。
「やめろォォォ!!」
叫びながら、俺は地面を蹴っていた。
気づけば剣を抜いて、一直線にレピリアへ走っていた。
レピリアが俺の方を向く。
その瞬間――ほんの一瞬だけ。
あいつの瞳に、“色”が戻った。
「……あ」
俺の剣先が、レピリアの喉元に届く距離に入ったとき。
レピリアの体が、ビクッと震えた。
今まで、どんな刃も受け止めて、遊ぶみたいに弄んでいたのに――
今回は、“避けた”。
黒い霧が弾け、彼女の姿が横へ飛ぶ。
ザッ!!
俺の剣が、夜気だけを裂いた。
(……今、避けた……?)
兵士の一人が息を呑む。
「今の……見えたか……?」
「あの魔族が……初めて……」
「“怯んだ”……?」
レピリアは距離を取りながら、じっと俺の剣を見ていた。
いつもの、無邪気で残酷な笑顔じゃない。
眉がほんの少しだけ寄り、口元が引きつっている。
「……やだなぁ、その剣」
かすれた声だった。
「その色……
“お兄ちゃんを殺した”やつでしょ?……匂いがする……」
胸の奥が、ざわりと揺れた。
(……剣の“色”? 匂い?)
俺は自分の手元を見る。
ただの鉄の刃に見える。
だが、月光に照らされた刃の縁が、かすかに紫色に揺らめいた気がした。
(この剣だけ……あいつは“避けた”……)
レピリアは小さく舌打ちした。
「つまんないなぁ……。でもいいや」
瞳の奥の闇が、さらに濃くなる。
「だったら――
“最初に”壊してあげるよ、その剣ごと」
次の瞬間――
……音が、消えた。
(え?)
風の音も、兵の叫びも、怪物の呻きもなかった。
世界全体が一瞬だけ止まったような、“間”があった。
そして――
何かが“抜けた”感触が、胸の奥に走った。
「……っ、な……」
声が出ない。
視界が揺れ――地面が傾いた。
痛みはなかった。
ただ、身体が急に冷たくなっていく。
(……なん、だ……?)
ゆっくり振り返ろうとした。
だが、それより先に。
兵士たちの悲鳴が上がった。
「隊長ぉおおおおおおおおおおおお!!!!」
何が起きているのか分からず、感覚だけが遅れて届く。
背中に、柔らかい“手”の感触があった。
レピリアだった。
いつの間にか――完全に俺の背後に立っていた。
月光の下、その小さな手が俺の肩越しに見える。
その手には――
赤黒い塊が握られていた。
鼓動がまだ残っているような、温かい“何か”。
「……あ」
俺は、自分の胸元を見る。
鎧が――丸く抉り抜かれていた。
黒い霧に溶けるみたいに、血がじわりと流れ落ちている。
空洞だ。
そこにあるはずのものが――ない。
(……俺の……心臓……?)
理解した瞬間、世界が遠くなる。
レピリアは、俺の“心臓”を持った手を嬉しそうに揺らしながら言った。
「ねぇ……知ってた?
心臓ってね……“抜くとき”がいちばん綺麗なんだよ」
無邪気な声。
目の前が暗くなり始める。
(……死ぬ……のか……俺……)
レピリアは胸の奥から漏れる血を指で拭い、その血を眺めながら口元を歪めた。
「お兄ちゃんと同じ匂い……やだなぁ……“同じ色”なんだね」
心臓が、握られたまま脈打っている。
ーーーーー
レピリアの手に握られたまま、ナイルの心臓はぴくりとも動かなくなっていた。
血の味が喉に逆流する。
耳が遠のき、世界がゆっくり遠ざかる。
(……冷たい……足が……動かねぇ……)
どこかで、キリサの声が響いた。
「ナイルッ!!」
その声は怒りと悲鳴が混ざっていた。
黒い霧の中、キリサは槍を折られながらもレピリアへ突っ込んでいく。
「殺す……!!
お前だけは……絶対に!!」
しかしレピリアは子供のように笑いながら、
キリサの全ての突きを“遊ぶように”弾いていた。
「わぁ、怒ってる~。
でも遅いよ、お姉さん?」
キリサの脇腹に爪がかすり、
鮮血が噴き上がる。
「がっ……!!」
「キリサぁぁぁ!!」
ミラの悲鳴が重なった。
ミラは涙と怒りで顔をぐしゃぐしゃにしながら、
巨大なハンマーを振り下ろす。
「返してッ……ナイルちゃん返してぇ!!」
だがレピリアの身体がふっと霧のように消え、
ミラの一撃は虚空を叩き割った。
「のろいのろいのろ~い♪」
次の瞬間、レピリアの爪がミラの肩を裂く。
血が飛び散り、ミラの身体が地面に転がった。
「ミラッ!!」
キリサが倒れかけた身体で駆け寄ろうとするが、
怪物の六本の脚が彼女を阻むように大地を叩いた。
周囲の兵が怪物へ飛びかかる。
「押さえろ!!」
「離すな!! 化け物を止めろ!!」
しかし――
「うわあああ!!」
「駄目だッ、脚が太すぎる!!」
「鎧ごと潰れるッ!! ぎゃあああッ」
戦力差は、残酷すぎた。
レピリアの笑い声だけが、夜空に響く。
「ねぇねぇ、まだ遊んでくれるの?
ナイルも死んじゃったのに?」
(……まだ……死んで……ねぇ……)
意識が途切れそうな中、
リュカとシアがナイルを両側から支えていた。
「コール!! おい、しっかりしろ!!」
「いや、お願い……お願いだから死なないで……!!」
リュカの手が震え、シアの目には涙が溜まっていた。
視界の端で、キリサがまた立ち上がる。
「まだ……だ!」
ミラも叫びながらハンマーを構え直す。
「ナイルちゃんを、よくも……絶対許さない!!」
しかし二人とも、血だらけで足元もふらついていた。
レピリアは少しだけ困ったように笑う。
「ねぇ……すぐ終わらせるって言ったよね?
もう、飽きちゃったんだよ、わたし」
黒い霧が足元から溢れ、
「だから――皆まとめて、死んで?」
そのときだった。
(……あ……)
死にかけでほとんど見えない視界の端に、
“赤いもの”が揺れた。
血じゃない。
炎でもない。
――髪。
風もないのに、ゆっくり揺れる
深い赤の髪。
黒霧の向こうで、
その“赤”がこちらへ歩いてくる。
(……あ……れ、は……)
足音がない。
息遣いもない。
ただ、世界の雑音が“整って”いく。
兵のうめき声も、怪物の咆哮も、
レピリアの幼い笑い声さえも――
すべてが薄れ、静まっていく。
夜風が一度だけ、澄んだ音を鳴らした。
レピリアが気づくより先に、
その“赤”はレピリアの真横に立っていた。
「……?」
レピリアが横を向いた瞬間――
チィン……。
小さな金属の音だけが夜空に響いた。
レピリアの片腕が消えた……。
「……え?」
レピリアの動きが止まる。
ナイルの視界はぼやけていたが、
それでも“その人”の姿だけははっきり見えた。
白銀の鎧。
深紅の髪。
右目は蒼、左目は紅。
その瞳には、怒りも焦りもない。
ただ、静かに――決められた役目を果たす者の光。
赤い髪の女剣士は、
ナイルに視線を落とし、静かに言った。
「アーク……」
「……エレナ」




