第130話:繋ぎ止める光
エレナはゆっくりと、腰の剣に手を伸ばした。
その刃に触れた瞬間――
空気が変わった。
風が止み、夜の匂いが凍りつく。
王剣――《ヴァルセリクス》。
かつて王しか抜けなかった“剣”が、
彼女の指先ひとつで静かに鞘から離れた。
「―――ッ」
刀身が露わになっただけで、
レピリアの黒霧が一瞬だけ縮む。
エレナは何も言わず、ただアークの横へ膝をつき、
その剣先を地へと突き立てた。
ドン、と。
大地に深く刺さった瞬間、
紅と蒼の光が混じるように剣が淡く輝き出す。
光は波紋のように広がり――
瀕死のアークの身体を優しく包んだ。
祈りの光。
しかし、アークの胸には空洞がある。
心臓は――ない。
普通なら助かるはずがない。
どれほど強大な魔術でも、“死”は覆せない。
それでもエレナは、剣に手を添えたまま、
震えるほどゆっくりと息を吐いた。
「……死ぬな」
その声は、祈りでも命令でもない。
ただひとりの人間への――
必死の感情だった。
「アーク……死ぬな……」
目を伏せたまま、
光に縋るように指を強く握りしめる。
光はさらに強く輝き、
アークの傷口へと流れ込んでいく。
エレナの右目の蒼が、微かに濡れていた。
光を送り続けながら、
エレナはゆっくりと立ち上がった。
背中越しにレピリアを睨む。
その瞳が、二色の光を宿す。
「貴様が――」
一歩、踏み出す。
地面が裂けた。
「……アークに触れたのか?」
声は、氷のように冷たかった。
レピリアは片腕を失ったまま、
黒い霧を垂らしながら後退する。
「やだなぁ……また“勇者みたいな人”……」
エレナの表情は動かない。
だが、夜気そのものが震えた。
「答えろ」
その一言で――
怪物が怯えて一歩下がった。
レピリアは唇を震わせ、引きつった笑みを浮かべた。
「うん……わたしがやったよ?
だって、この人……“お兄ちゃんと同じ色”してるもの」
その瞬間。
エレナの気配が、完全に変わった。
空気が爆ぜ、夜が裂ける。
レピリアがはっと息を呑むより早く――
チンッ
銀の音だけが夜空に跳ねた。
レピリアの左側に、赤い髪がふわりと揺れる。
エレナの姿はそこにあった。
だが――彼女の手にあるのは、
地に突き立てた王剣ではない。
対魔族用に新調した銀剣。
細身で、飾り気もない。
一見ただの銀の剣。
しかし――
レピリアの視界が揺れた。
自分のもう片方の腕が、
肩の付け根から“消えている”。
「…………え?」
遅れて、風が吹いた。
その風に乗って、
レピリアの腕が夜空を回転しながら落ちていく。
地面に落ちた腕から黒い霧が滲み、
数秒遅れて“切られた”という事実だけがレピリアに追いつく。
「嘘……でしょ……?」
レピリアは、腕のない肩を押さえ、
震える声で呟く。
「……見え……なかった……」
エレナは動かない。
銀剣を下げたまま、
一切表情を変えずにレピリアを見つめていた。
その瞳は――
怒りすら通り越した、絶対零度。
エレナは微動だにせず銀剣を下げたまま、
倒れかけるキリサへ短く告げた。
「――こいつは、私が仕留める」
その声に逆らえる者はいなかった。
キリサは一瞬だけ反論しようとしたが、
エレナの横を通った瞬間、
“殺気で肺が潰れそうになり”、言葉が喉で止まる。
「……わかった。怪物は任せろ」
キリサ、ミラ、兵たちは怪物のほうへ走り出した。
怪物はあいかわらず凶暴だが、エレナの放つ圧に押されるように一歩ずつ後退していた。
残ったのは――
再生しかけている、両腕を失ったレピリアと、エレナ。
レピリアは必死に後ずさる。
「ま、待って……? わ、わたし……本気じゃなかったの……ね? ほんとだよ?」
命乞い――の形をした時間稼ぎ。
エレナは見抜いていた。
視線ひとつ動かさず、うっすら吐息だけが漏れる。
「……無駄だ」
レピリアの体内で、黒い霧が暴れ、
肉と骨が蠢きはじめた。
再生が始まる。
「ふふ……ふふふ……!」
皮膚が裂け、骨が伸び、爪が飛び出し――
次の瞬間、レピリアの腕は再び“二本”に戻っていた。
「残念でした〜?」
子供のような声で笑う。
しかし目は笑っていない。
「わたしたち上級魔族は……核を切られない限り、死なないんだよ……?」
エレナはゆっくりと歩み寄り、
その言葉を聞き終えてから、静かに呟いた。
「……そうか」
足音もなく、すぐ目の前に立つ。
「確かに……上級魔族は核を切らねば“死なない”。」
「そうなの。だから――」
「だが。」
銀剣が、音もなく構えられた。
エレナの瞳が、凍りついた蒼と紅の光を宿す。
「“死なない”のと、“苦しまない”のは別だ。」
「……え?」
レピリアの笑顔が凍りつく。
「あの男を手にかけた貴様に、慈悲はない」
エレナは剣先を下ろし――
レピリアの右脚へ、寸分違わず斬撃を落とした。
ズバッ!!
「ぎゃッ――!」
レピリアの脚が宙を舞う。
次の瞬間には左脚。
その次には右腕、その次は左腕。
一つ一つの動きは速すぎて見えない。
ただ、赤い髪がゆらりと揺れたと思った瞬間には、
レピリアの手足が地面に転がっていた。
再生するより早く、斬られる。
斬り落とされる度に、
レピリアの喉から悲鳴にもならない音が漏れた。
「やっ……やめ……やめて……っ」
声が震え、涙が滲む。
「ごめんなさ……ごめんな……さい……」
エレナの剣先は、再びレピリアの肩へ向いた。
「謝罪は要らないと、言ったはずだ。」
淡々と。
静かに。
だが、確実に“殺すより残酷な速度”で。
エレナは容赦なく剣を振り続けた。
「お前がアークにしたように……」
右脚を斬る。
「私はお前を、切り刻む。」
左脚を斬る。
「生きたまま、何度でも。」
右腕を斬る。
「貴様の核を切るまで――終わらぬ。」
左腕を斬る。
「いやぁああ!いだいぃい!やめてぇよおおお!!」
レピリアは泣きながら再生し、
再生するたびに斬り落とされ続ける。
「やだ……やだ……やだぁ……!」
幼い泣き声。
その声に、エレナはわずかに目を伏せる。
しかし迷いはない。
「アークの痛みは、こんなものではない。」
刃が冷たく光った。
「せめて――」
一歩踏み込み。
「その十分の一でも味わえ…」
ーーーーー
エレナに四肢を斬り刻まれ、地に転げるレピリア。
レピリアの呼吸がひゅうひゅうと漏れ、
再生しながらも涙をぽろぽろ流していた。
「……もう……いやだ……
痛いの……やだよ……」
エレナは冷然と歩み寄る。
「まだ喋れるのか。なら――次は」
「やだあああああ……!!……たすけて……“わたし”……」
その瞬間だった。
レピリアの影が――
地面から“盛り上がった”。
液体のように波打ち、形を成し、
まるで粘土をこねるように人型へ変わっていく。
そして。
影が、レピリアと“全く同じ姿”で立ち上がった。
だが――表情が違う。
本体レピリアは泣き顔。
影レピリアは、血の気がない無表情。
二人の声が重なる。
「“わたし”を……守るの……」
「ずっと……守って」
影レピリアの声は、子供のように優しいが
その奥底に冷たい殺意が宿る。
黒い霧が影の足元から噴き上がり、
空気がひずむ。
エレナが目を細め、銀剣を構えた。
(……分離体……いや、これは……
本体の“魔族核”が形を持ったか?)
影レピリアは、ゆっくりと首を傾げる。
「ねぇ……“本当のわたし”は、こっちだよ?」
次の瞬間。
空間を裂くように、影レピリアが消えた。
エレナの足元で、火花が散る。
銀剣と影の爪がぶつかっていた。
二体のレピリアが“完全に同時に”エレナへ飛びかかる。
一体は肉体
一体は影体
一人の脅威が、二つの異なる軌道で襲いかかる。
エレナの髪が夜風になびく。
「……面白い。」
瞳の蒼と紅が強く光り、地を蹴る。
二対一。
上級魔族本性 vs アルシェル王国第零位
死闘が始まった。
互いの影が夜の中で弾け、光が走り、霧が噛みつく。
銀剣と、二体のレピリアの爪が交差するたび、火花と黒霧が散った。
エレナは無表情のまま、二体の攻撃を受け流し、斬り返す。
しかし――。
「ふふ……惜しかったねぇ?」
背後の“影レピリア”が、エレナの肩を浅く裂いた。
同時に、前方の“肉体レピリア”が足を薙ぐ。
エレナは跳ねてかわすが、太腿に薄い線が走り、血が落ちた。
(……速い。二体の動きが完全に連動している)
だが痛みで脚を止める暇などない。
再び、肉体レピリアへ斬撃。
銀剣の切っ先は確かにその胸の奥――“核”へ届いた。
ギャッ……!!
肉体が霧散し、影だけが残る。
だが数息も経たず。
黒霧が再び形をとり、
斬り殺したはずの“肉体レピリア”が復活した。
「ほらねぇ? 一人が死んでも……まだ“わたし”がいるもん」
影と肉体が、二重に笑う。
「片方が生きている限り――
わたしたちは死なないの。」
エレナの二色の瞳が細められる。
(……無限……)
銀剣で核を砕けても、もう一体が存在する限り再生。
その“間”に反撃が来る。
終わらない。
何度切り刻んでも、終わらない。
エレナの腕も、肩も、太腿も、切り傷が増えていく。
深い傷になれば再生で塞がるが――
(……追いつかない)
傷を塞ぐ時間のわずかな隙。
そこへ必ず二体同時の攻撃が来る。
エレナは剣を回しながら、心の奥で短く吐き捨てた。
(……本当に厄介だ……)
その刹那。
影レピリアが耳元に囁くように消え入り、
肉体レピリアが真正面から爪を振るった。
「エレナぁ?……疲れてきたんじゃないの〜?」
銀剣で受け止めたが、勢いで腕が痺れる。
エレナは歯を食いしばって押し返す。
(……押し込まれた……)
ほんの数瞬だけ、エレナが後退した。
その一歩に――
影レピリアの爪が肩口を深く抉った。
血が霧の中へ散る。
「っ……」
エレナの表情には出ない。
だが、肺の奥が焼け付くように痛んだ。
(……もし、ヴァルセリクスを抜けば……)
一瞬、視線が背後の王剣に向く。
アークの横に突き立てられたままの“王剣”。
その刃からは、いまだ微かな光がアークを包んでいた。
ヴァルセリクス。
本来なら、今の状況をたった一振りで覆す絶対の力。
あれを握れば、
この二体など一刀で切り裂ける。
だが――
(抜けば……アークは死ぬ)
祈りの光はヴァルセリクスから放たれている。
アークの体をつなぎ止めている唯一の力。
抜けば、光は失われる。
(……そんな選択肢はあり得ない)
たとえこの身が裂けようと。
腕が折れようと。
心臓を貫かれようと――
ヴァルセリクスだけは動かせない。
銀剣で戦うしかない。
エレナは剣を握り直し、血を払う。
レピリアが嘲るように囁く。
「全部わかってるよ?
あの剣を抜けば勝てるのに~、抜けないんだよねぇ?」
影も肉体も、同時にエレナを指差す。
「だって抜いたら、あなたの愛しのアークが死んじゃうんでしょ?
かわいそ~、あはは!」
その瞬間――
エレナの気配が、ほんの一瞬だけ暗く重く沈んだ。
言葉は吐かない。
吐いたら、殺気で周囲の兵が死ぬ。
ただ、瞳の奥で静かに――
憎悪が燃え始めた。
「ふふ……その顔……いいね……エレナ……もっと壊してあげる……」
二体のレピリアが一斉に飛びかかる。
エレナも踏み込む。
銀の刃と黒霧がぶつかり合い、
夜が裂ける。
互角――。
だが、ほんの少しずつ。
本当にわずかに。
エレナの足が遅れ始めた。
斬り刻んでも、消しても、倒しても、
敵は必ず二体に戻る。
そのわずかな“循環のズレ”が、確実にエレナの体力を削っていた。
(……まだだ。まだ倒れるわけにはいかない)
(アークを死なせるわけには――いかない)
銀剣を握る手に力がこもる。
レピリア二体が迫る。
エレナは迎え撃つ。
夜はまだ終わらない。
銀剣と黒霧がぶつかり続ける地獄のような応酬。
その最中――
「……エ……レナ……」
かすれた、聞こえないほどの声が夜に滲んだ。
エレナの動きが、一瞬だけ止まる。
「……アーク?」
背後で、瀕死のはずの男が――
握力も残っていない腕で、ヴァルセリクスの柄を掴んでいた。
リュカとシアが慌てて押さえる。
「ダメだ!! 抜くな!!」
「アーク!! それ抜いたら……死んじゃう!!」
だがアークは止まらない。
光を失いかけた瞳で、ただエレナだけを見ていた。
(……エレナ)
喉が潰れて声は出ない。
それでも腕に力を込め、
――立ち上がった。
胸には穴が空いたまま。
血は止まっていない。
それでも、立つ。
その瞬間。
「エレナさん!? 後ろッ!!」
叫んだのはシアだった。
だがエレナはアークに一瞬気を取られ――
ザシュッ!!
肉体レピリアの爪がエレナの太腿を深く抉った。
「っ……!」
膝が落ちる。
体勢が崩れる。
影レピリアと肉体レピリアの爪が、同時にエレナへ迫る。
「終わりだよ、エレナぁ……!」
だが――
「………ッ!」
アークが立ち上がった勢いのまま、
自分の剣(ナイルの剣)を全力で投げた。
飛び方は最悪だった。
軌道も速度もお粗末。
胸を刺すどころか、真横に反れて飛ぶ。
肉体レピリアはそれを見て笑った。
「ふふふっ、バカじゃなぁい?
そんなの当たるわけないのに、ね? エレナ?」
その瞬間。
エレナの表情が変わった。
ハッ、と目が見開かれ、
全身の筋肉が一気に跳ね上がる。
エレナは銀剣で肉体レピリアの胸を貫いた。
ズガァッ!!
「か、はっ……!? む、無駄だってば……
片方が消えても……」
その言葉を途中で遮ったのは――
背後から聞こえた小さな声。
「…両方ならば、どうだ?」
「……え?」
肉体レピリアが振り返る。
影レピリアの胸に――
剣が深々と刺さっている。
「うそ…なんで…あんたがここに…?」
その剣を握っていたのは――
「……ッ」
黒髪の少女。
震える手で剣を握りしめたまま、
――シャンディがいた。
「うそ……でしょ……?」
影レピリアから黒い霧が噴き出し、
肉体レピリアの体が、ぐらりと揺れる。
「ま……待って……?」
エレナが銀剣を一度抜き、
もう一度、肉体レピリアの核へ確実に突き立てた。
「――うそ?」
その瞬間、
影も肉体も同時に悲鳴を上げた。
「やぁぁぁあああああああ――!!」
黒霧が爆ぜ、二体は裂けるように崩壊し――
夜の風に吸い込まれるように消えていった。
その傍らで、
アークの胸の穴は――
まだ、空いたままだった。




