第127話:深淵のレピリア
木々が押し倒され、
影がゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
――終わりじゃなかった。
その事実だけが、冷たい針みてぇに背骨をなぞった。
「全員、まだ弓を捨てるな! 構えだけは保て!!」
「でも隊長、矢はもう――」
「拳でも石でもいい! 手ぶらで立つな!!」
自分で怒鳴りながら、喉の奥がひりつく。
森の縁が波打つように揺れ、倒木が次々とはじき飛ばされていく。
バキバキバキッ――!
巨人が地面から這い出てきたみてぇな音。
木が根本からへし折れ、闇の中から“それ”が這い出してきた。
最初に見えたのは――“足”だった。
人間のものとは程遠い。
獣のような脚が六本。
節ごとに棘が生え、地面を掴むたびに土が抉れる。
(……多脚か)
次に、胴体。
森の影と同じ色の甲殻が、ぬめりながら月光を弾いている。
節ごとに口みたいな亀裂が走り、そこから黒い蒸気が漏れていた。
顔――と呼べるのかも怪しい先端部には、
ウッドエルフの仮面を無理やり貼り付けたみてぇな“面”がいくつも並び、
笑っているのか泣いているのか分からねぇ口が、だらりと開いていた。
「……気持ち悪ぃな、おい」
誰かが吐き捨てるように呟く。
同意しかしなかった。
そいつは森の縁を踏みつぶし、草原へずるりと這い出る。
六本の脚で大地を掴みながらも、その動きは妙に滑らかで――
まるで“乗り物”を意識して作られたように見えた。
「隊長……あれ……生き物なんですか?」
「さぁな。少なくとも、“まともな生き物”じゃねぇ」
その背――
甲殻の中央あたりに、ぽっかりと開いた“くぼみ”がある。
そこに、ちょこんと。
――子供が座っていた。
月光を反射する白い肌。
ふわりと広がる黒いフリル、レース、リボン。
戦場には場違いな、ドレス。
小さな手には黒い日傘。
夜だというのに、わざわざそれを肩の上に掲げている。
ぱっと見た印象は――人間の女の子。
けど、その瞳だけが、決定的に違った。
底に、色がない。
光も、揺れも、迷いもない。
ただ、深い井戸の底みてぇな暗さだけがある。
「……な、何だ? あのガキ……」
「子供……か?」
「いや、あれは――」
キリサが強く歯を噛みしめたのが分かった。
俺の隣で、ケントールの蹄が石を軋ませる。
「ナイル。あれは……何者だ?」
「知らねぇ。――」
息を吸う。
胸の奥がざわざわと音を立てる。
(……あの“黒”だけは分かる。
森の化け物と同じ、いや……もっと“濃い”)
女の子が日傘を閉じた。
パチン。
その小さな音が、やけに鮮やかに夜に響いた気がした。
彼女はゆっくりと立ち上がり、
甲殻の背から、まっすぐこちらを見上げる。
笑った。
楽しそうに、子供らしく――
だが、そこに“年相応”なものは、ひと欠片もなかった。
「こんばんは」
鈴を転がすような声だった。
「はじめまして、オルデアのみなさん。
……イルクアスターも、ちゃんと来てたんだね。よかったぁ」
胸が、びくりと跳ねた。
「……イルクアスター、って言ったか今」
思わず口から出ていた。
女の子はこくんと首をかしげ、にこりと笑う。
「うん。だって、呼んだもの。
“あの人”たちが、ちゃんと森の外まで逃げられるように」
その言い方に、ぞわっと鳥肌が立つ。
(呼んだ……? 誰を……何のために?)
イルクアスターの甲板の上で、
リュカとシアも異変に気づいたようで、
身を乗り出してこちらと森の方を交互に見ているのが遠目にも分かる。
女の子は日傘を肩にかつぎ、
楽しそうにくるりと一回転した。
「んー。前のお兄ちゃんの“深淵の使徒”は、失敗しちゃったけど……」
空気が固まった。
キリサが、はっきりと息を呑む音がした。
「今……なんと言った?」
女の子は無邪気に続ける。
「でもだいじょうぶ。
お兄ちゃんも負けちゃったけど……
“闇の主”さまへの道は、まだ閉じてないから」
お兄ちゃん?
その一言が、頭の奥で嫌な形に繋がっていく。
(お兄ちゃん……“深淵の使徒”……
……セリウス)
リュカとシアに聞いた話。
封印の山で現れた“深淵の眷属”と呼ばれる上級魔族。
そして、それをコールが――倒した、という話。
胸の奥で、何かがカチリと音を立てる。
バルグが、低く唸った。
「ナイル。“深淵”ってのは、あの時の黒雲に関係してやがるのか」
「……たぶんな」
女の子は、こちらの会話なんて全部お見通しって顔で笑っていた。
「自己紹介、まだだったね」
ふわりとスカートの裾をつまみ、
貴族の令嬢みたいに優雅にお辞儀をする。
「わたし、レピリア。
深淵の眷属――セリウスの、妹だよ」
「妹……アビスロード……」
「伝承の……上級魔族の身内かよ……!」
兵たちの間にざわめきが走る。
キリサはすぐさま怒鳴って、それを押し沈めた。
「静まれ!! 動揺するな!!」
だが、その声にもレピリアと名乗った子供はくすくす笑うだけだった。
「そんなに怖がらなくていいのに。
今日は、みんなを“食べに”来たわけじゃないよ?」
その言葉の方がよっぽど怖ぇんだが。
「じゃあ、何しに来やがった」
俺がそう言うと、
レピリアはまるで待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「うん、それね」
彼女は足元の“化け物”の甲殻を、ぽんぽんと叩く。
「この子をね――試しに来たの」
その瞬間、足元の大地が低く唸った。
多脚の化け物が、ぞわりと全身を波打たせる。
甲殻の隙間から、黒い蒸気がさらに濃く溢れ出す。
ウッドエルフの仮面もどきの“顔”が、一斉にこちらを向いた。
「森をおかしくしたのも、この子たち。
エルフたちを、たくさんたくさん、混ぜてあげたんだよ?」
リュカが、遠くの甲板からこちらへ叫ぶ声がする。
「おいナイル!! あいつマジでヤベーぞ!!
絶対まともじゃねぇ匂いしてる!!」
「見りゃ分かる!!」
思わず怒鳴り返しながら、俺は剣を抜いた。
キリサが槍を構え、
バルグが両の拳を握り締める。
防壁の上、
様子を見に来ていたミラでさえ
ハンマーを握る手から笑みが消えていた。
レピリアはそんな俺たちを見回し、
嬉しそうに小さく頷く。
「うん……うん。やっぱり、“ここ”がいいや」
「ここ……?」
「だって、この街。
“主さま”を呼ぶ器としては、ちょうどいいんだもん」
ぞわっ……。
背中から、心臓まで、冷たいものが駆け上がった。
(闇の主……?
セリウスが呼ぼうとしてたっていう、“更に上”の存在……)
レピリアは、小首をかしげて微笑む。
「ねぇ、あなた?」
――レピリアは俺を指さした。
「あなた、セリウスお兄ちゃん倒した人間でしょ?
……魂の色がすごく変だもの、きっとそう」
呼吸が止まる。
「……会った覚えはねぇな」
「ふぅん? そうなの?
でもいいの……」
レピリアの瞳が、
初めてほんの少しだけ色を帯びた。
それは、きれいな淡い紫色――
だけど、底の黒さは隠しきれていない。
「楽しみなんだ。
お兄ちゃんを殺した、あなたと遊べるなんて」
化け物の脚が、地面を掴んだ。
大地が沈む。
次の瞬間、
そいつは信じられない速度で草原を駆け出した。
「来るぞッ!! 全員――構えろおおお!!」
喉が裂けるほどの声で叫ぶ。
夜の空気が震え、
オルデア中の怒号と咆哮がそれに続いた。




